媚薬
そんな都合のいいものは無い。
「幸せの、絶対量……?」
先輩の唐突な話題転換に理解が追い付かない。
僕は自然と眉をひそめた。
「そう。宗教だと言われれば馬鹿馬鹿しい話に聞こえるかもしれないが、でもこれ、なんていうか真理を突いてる気がしないか?」
「真理ですか」
「そうだ。世の中の幸せの量は限られてるから、全ての人間が幸せになることは無い。誰かが幸せになれば、どこかで誰かがその分不幸になってる。そう思わないか?」
「はぁ、そう言われるとそんな気がしなくもないですね。要はお金みたいなものですよね」
「あー、まぁそう変換すると夢も希望も無いというか、残酷な現実になってしまって悲しいが、ま、確かにそういうことだ」
先輩は苦笑いする。僕も言ってみて、言い得て妙だったと、自分の中で苦笑する。
「だからさ、ジン。皆必死に幸せを奪い合ってるんだよ。限りある幸せを、自分は不幸になりたくないって、奪い合ってる。奪い合うなんてあまり良い言葉じゃないが、でも放っておけば、自分の幸せすら奪われかねないんだから、一定の幸せを保とうと、人は躍起になって幸せを求める」
そういう先輩は、僕を見ない。ただホームから見える黒い空を遠めに見つめる。
「もしジンが他人を思って自分の幸せを放棄したとしても、それは誰も感謝しない。だってジンの幸せを誰が奪って、誰に移ったかなんて、誰にもわからないんだからな。感謝のしようもない。それに人は皆自分は幸せになる権利があると思っている。だからもしジンが不幸になっているのを見ても、誰もそれを自分のせいだなんて思わない。何も感じない」
「……先輩?」
僕を見ずに淡々とそう話す先輩に、横から小さく声をかけたが、しかし先輩はそれに全く気付く様子もなく、ただ言葉を続ける。
「幸せに限界はないからな。どんな幸せも、飽きがくる。ほとんど麻薬みたいなもんだ。この世の全ての幸せを集めたとしても、おそらくその人間は、満足しない。本当に……嫌な生き物だよな」
そう話す先輩の横顔を見つめる僕に、ようやく先輩が気付き、
「おっと、悪い悪い。辛気臭い話になってたな」
と言って笑って誤魔化した。
「まぁだからさ、やりたいことやって、愉しんで生きて、幸せを求め続けろって事。じゃないと不幸になるだけだし、それで他人を肥えさせるなんて、悔しいだろ?」
「ですね。そう言われると、一刻も早くやりたい事に向かって突き進みたくなってきましたよ」
「だろ? 俺もその状態だ。絶対に幸せを勝ち取ってやる。そう思ってる。それで他人がどうなろうが、知ったこっちゃないな」
本当にそう思ってるのかはわからないが、先輩はにやりと、笑う。
そこまでの覚悟が、僕にはまだ無い。というより、そんな考えに至ってすらいない。僕は所詮、ただの高校生だ。先輩のように達観してものは見れない。
「……先輩、失礼なことを聞いていいですか?」
僕は慎重に先輩に尋ねた。
「何だよ改まって。全然構わないぞ」
「先輩は、恋愛も遊びも犠牲にして、必死に勉強して、今、幸せですか?」
「ああ。幸せだ。いつ死んだって後悔しないよ、俺は」
先輩は間髪入れずに、そうはっきりと、迷うことなく言い切った。それは嘘をついているわけでも、強がってるわけでもない、本気の目。
本当に、適わないな、この人には。
今まで僕は、何をしていたんだろう。何のために生きていたんだろう。
「あっと、そうだそうだ」
先輩が急にそう声を出して、がさごそ、と自分の鞄の中を探り出した。
そして、鞄の中から妙な細いビンを取り出して、僕に掲げて見せる。
「なんですか? それ」
ビンにはラベルが貼ってあり、そこにはバナナの絵が描いてある。
「バナナ?」
「媚薬だよ、媚薬」
「び、びやっ――?!」
大声で言いそうになって、僕は必死に続きの言葉を堪えた。
そしてにやにやする先輩に声を落として、
「な、なんでそんなの持ってるんですか」
「馬鹿だな、医者の卵をなめるなよ? まだ卵ですらないが。でもこういうものを手に入れるのはお茶の子さいさいだ」
「お茶の子さいさいって言葉をめちゃくちゃ久しぶりに聞きましたけど、でもそんなの、何に使うんですか?」
僕がそう尋ねると、先輩はそのビンを僕の手の平の上に、ぽんと置いた。
「そりゃもちろん、明日のお前のデートに、黄泉路蜜に、だろう」
「えぇっ?!」
僕は驚く反面、内心そうではないか、と勘付いていた。
心臓がバクバクと、鼓動する。バナナの絵が、僕の妄想を駆り立てる。
「や、さすがにヤバイですって……」
「ばか。そんなマイペースで恋愛してたら、お前卒業しても告白なんてできないだろ?」
「……ぐぬぬ」
「あと半年で俺が卒業したら、もう手助けなんてしてやれないぞ?」
「……ぐぬぬ」
何も言い返せない。多分、そうだろうから。
「だからその薬で、一気に事を進めてしまえばいい」
「こ、事って……」
僕の頭の中が、ピンクで一色になった。もわもわと、妄想だけが先行する。
「大丈夫、それ全然強くないやつだから。別の飲み物に混ぜて飲ませたら、少し身体がだるくなって、いろいろと疼くようになるだけだ。不自然な効き方はしないし、依存性も、体への悪影響もない。しばらく時間が経てば、その症状も消えてなくなる。だからそれは良い雰囲気に持ってくまでの補助アイテムであって、あくまで、最後のテープを切るのはお前の気持ち次第ってわけだ」
「……テープを、切る」
何かいやらしい表現だ。再び大きなバナナの絵が僕の視線を鷲掴みにする。
ごくり、と唾を飲んで、僕はここではまずい、と妄想に浸りかけていた自分の頭を振るう。今日はゆっくり寝れそうだ。
「いいか? もう一度言うが、それはあくまで雰囲気作りのアイテムだからな。それ使って無理矢理犯そうとか考えるのなよ? 相手だってその時のことは覚えてるんだからな。あくまで気分を助長させるものだ」
先輩が僕を注意するように指を差してそう言ったので、その圧されるように、
「は、はい」
と答えた。震えていたに違いない。
そのあと先輩から、さすがと言うべきかなんというか、恋愛の秘訣と、相手と行為に至った時の巧いやり方などを伝授され、駅のホームが閉まりきる前に、やっとこさ駅を出たのだった。前かがみだったのは言うまでもない。




