カテナチオ
カテナチオって死語?
唐突に彼女が謝った。
慌てて彼女を見直すと、彼女は少し悲しげに視線を落としていた。
「私、人と話すのに、まだ慣れてなくて」
「……」
そうか。だからさっきからブツ切りのような端的な返事しかしなかったのか。
やはりいつも彼女が一人に見えたのは、気のせいではなかったらしい。学校でも、家でも、誰も話す相手がいなければ、それはしょうがない話か。そこまで気を遣えてなかった。僕は少し反省する。
「そんなこと、ないですよ。別に何も不自然じゃないですし」
「……本当?」
彼女は少し、顔を持ち上げて、僕を見る。
「ええ」
「そう。ありがとう」
そういう彼女は、しかし無表情で、その言葉通り嬉しそうな表情ではなかった。
僕は空気を変えるつもりで、調子を上げて、彼女との会話を再開させる。
「じゃあどうして勉強の教え方なんか学んでるんですか?」
「……」
黄泉路さんはその質問に一拍、考えるように間を置いたあと、
「勉強がね、苦手な人がいるの。その人にね、わかりやすく教えてあげられたらな、って思って」
黄泉路さんは少しだけ顔を上げて、星空を見上げながらそう言った。
――その横顔は、少しだけ笑っていた。口角を少しだけ上げ、瞳に光が宿っている。終始無表情だった彼女の顔が、初めて変化を見せた。それは、あの電車の中で最近見るようになった、彼女の顔。変わった彼女。
その話し方も短い端的なものではなく、初めてしっかりとした、長い文章を喋った。
「そうなんですか。なんていうか、そこまでしてあげるなんて仲が良いんですね」
「……そう、だといいな」
また笑った。意外と普通の女の子、なんだな。
ということはやっぱり、僕が勝手に一人が好きなぶっきらぼうな子だと勘違いしていたのだろうか。勉強を教えるために塾に通って講師からその方法を学ぶというのは、いかんせん行動が過ぎる気もするが、そういう友情もある、のか?
わからない。
ただおそらく、彼女に今まであまり友達がいなかったことは確かだと思った。そして最近心を許せる友達ができて、その友達のおかげで表情が緩み、前向きになっている。
そんなところだろうか。僕は勝手にそう想像する。
「その人ね、自分が勉強できないのは、先生の教え方のせいだって言って怒るんだよ。すぐ先生と喧嘩するの。面白いよね」
クスクスと、彼女は小さく笑った。
笑った。可愛い。
「でも多分、というか絶対本気でそう思ってるわけじゃないの。ただ面白がって言ってるだけ。本当は勉強してないからできないって、自分のせいだってよくわかってるんだよ。だから真面目に補講を受けに来るし、必要なときはちゃんと黙って勉強するんだよ。素直じゃないよね」
そう、彼女は言葉を途切れさせずしっかりと、さっきまで話すのが得意じゃないと言っていたのが嘘のように、すらすらと言葉を紡いでいった。ただその顔はさっきまでのように僕を見て話しておらず、遠くをみるような目で、独り言であるかのようだった。
その横顔はやはり楽しそうで、その相手は本当に良い友達なんだと理解できた。
話の苦手な彼女がこうまでして語るのだから、とても良い関係なのだろう。
「でもこのままじゃ高校生は卒業できても、大学生になれないかもしれないな、って思ったの。本人はなるようになるって言ってたんだけどね、でもやっぱり大学受験ってそんなに甘くないかなって思って。だからあの人がすぐに簡単に理解できるように勉強を教えられたらいいかなって思って塾に参加してみたの……これってお節介、かな?」
「そんなことは、ないんじゃないですか?」
おそらく僕に投げかけられたであろう質問に、相槌を打った。
「そうかな。だと、いいんだけど……でもきっとあの人はお節介だって言うんだよ。実はそれはわかってるの。うん、でも言うだけ。きっとグチグチ言いながら、勉強してくれると思うんだ。だからその手助けをしたいなって思――」
「黄泉路さん」
僕の存在を忘れて一人話す彼女の言葉を遮るように、僕は彼女の名前を呼んだ。このままでは僕が言いたいことが言えないと思ったから。
僕の突然の呼びとめに、黄泉路さんは一瞬我に帰ったようにはっとして、
「あ、ごめんなさい」
また、そう申し訳なさそうに謝った。
いや、申し訳なさそうにというのはあくまで文面だけであり、彼女自体は無表情である。
無表情に、戻った。
「私、あなたと喋ってるのに、一人で……」
「ああいや、ごめんなさい。別に不快だったわけじゃないんです。ただその、実は僕、黄泉路さんに頼みたいことがあったんです。だからこうして今日、話かけさせてもらったんですけど」
もうこのホームにも塾生が何人か来るころだろう。そしてすぐに僕等の乗る電車が来てしまう。それ故に僕はさっさと用件だけを告げようと、思い切ってそう言った。いつまでもちまちま会話していてもしょうがない。それは、またいつでもできることだ。だから、
「黄泉路さん。今会ったばかりの男が、急にこんなこと言って大変恐縮なんですけど――」
僕はそう、堅苦しく前置きをおき、
「明日は、暇ですか?」
「……明日?」
彼女は少しだけ、首を傾げて僕を見る。彼女の髪の毛が、たらり、と揺れる。
ここまで言ってしまえば、もう後戻りはできない。
僕は畳み掛けるように言葉を急いだ。
「そうです。明日、日曜日じゃないですか?」
「うん」
「だから、その、もし暇だったらでいいんですけど、明日、遊びに行きませんか?」
言った。
言ってやった。
僕の顔には、おそらく言い切った清々しさと、その反面、恥ずかしさのあまり顔が紅潮していることだろう。自分でも、顔がさっきよりも熱くなるのがわかった。
ごくり、と唾を飲み込む。
僕が言い切ってから、何秒経っただろうか。十秒くらいか? それともまだ一秒も満たない時間か? そんな感覚さえ、麻痺してしまうほど、僕は今自分を見失っている。
黄泉路さんは僕の言葉に、考えるように視線を逸らした。
垂れた髪の毛を、再び耳に掛けなおす仕草をする。
そしてぎゅっと、彼女の膝の上に置いてあった鞄を握るように力を入れた後、
「……私で、いいの?」
その言葉は、おそらく僕が想像するよりも、多くの、より重い意味が込められた言葉。
しかしそれを僕はあえて軽く振り払うように、
「な、何の問題もありません!」
と叫んだ。そんなことまるで気にしていないと、そう思わせるために。
「……そう。うん。ありがとう。大丈夫だよ、明日」
「――ッ」
っしゃああああああああああ!
正直話してみた感触から、この誘いは失敗に終わるだろうと、そう半ば諦めていたのだが、逆転満塁ホームラン。大成功である。彼女のカテナチオを今突破した。
「ほ、本当ですかっ?」
「うん」
女々しくもつい再確認してしまった僕に、彼女はそう答えてくれる。
喜びもつかの間、駅のホームに人が少しずつ入ってきて、ほぼ同時に踏み切りの遮断機が鳴り始める。僕の勝利を祝うかのように――は、言いすぎだ。
とにかく、僕等はその来た電車に一緒に乗り込み、その日は家へと帰った。
その電車の中で、僕は彼女と明日について、少し興奮気味に話し合った。
ただ興奮しすぎて、少しだけ空回っていたことは、言うまでもない。




