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クオリア~十人十色の異聞奇譚~  作者: 色川玉彩
1 The normal chapter ~The abnormity all the time~
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彼女の名は

塾で他校の女子を見るとドキンとする。

何もないんだけど。

 それから三時間あまり。


 と言ってももちろんずっと勉強していたわけではなく、途中何度か自習室を抜け出してコンビニに行ったり、友達と喋ったりして、実際勉強していたのは一時間ちょいというところ。


 そうだ。僕はまるで真面目な生徒のように装ってきたが、その実、集中力がない。そして努力が苦手なのだ。だからこうして早めに塾に通い始めて、無理矢理勉強する状況を作ったのだ。でなければ今頃家でゴロゴロしているはずだ。


 学校で乍が言った通り、僕はそんなに熱心な人間じゃない。

 成績が上がったのも、不純な理由だし。勉強自体好きじゃないのだ。

 だからこうして三時間あった自習時間の内、一時間ちょっとしか机の前にいないというのは、それはそれで最大最善の結果だ。これが一時間しかなければ、僕が机の前に座っていたのは二十分がいいところだろう。


 つまりは、僕は、勤勉ではない。


 だからこうして夏期講習を申し込んでしまえば、それに行かなければならないというある種の義務が発生し、心配性の僕としては絶対にサボることをしない。それを自分でわかっているから、嫌々ながら夏期講習を申し込んだということ。


 そしてその夏期講習が始まる10分前に、僕は自習室を出て、鍵を返却し、講習が行われる教室へと、向かった。

 この時期に夏期講習を申し込んでいる二年生はあまりいない。そのため、僕は一人で階段を上がり、三階にある教室に向かったのだ。そして心の中で、話せる人でもいないかなぁ、なんてあまりよろしくない希望を抱きながら教室の扉を開いた。


 ――開いた。


 その少し広めの教室の中にいたのは、僕の予想より少しばかり多い二十人程度の生徒たち。いろいろな制服を着た、初めて見る生徒も何人かいた。これはこの夏から本格的に受験に向けて勉強しようという人たちが重なった結果だろう。塾に通い始めるタイミングとしては、丁度良い。


 だから僕はその人たちを見渡して、そしてその人の中に、ぽっかりと穴が開いているのに気がついた。

 縦長の教室の、一番前の席。そこは基本的に人がいっぱいにでもならない限り誰も座ろうとしない席なのだが、そこに一人の女子が座っていた。そしてその女子生徒の周りにだけあまり人が座っておらず、ぽっかりと穴があいてしまったような、そんな状態になっていた。


 それはおそらく、彼女がこの塾に友達の一人もいない、夏期講習から通い始める新入生だからだろう。だから一人でいるのも頷ける。他の人は友達同士で集まっていたり、同じ学校同士で固まっていたりする。


 その女の子の制服は、純白の四季創学園の制服だった。

 そして僕は、彼女の後姿を見た瞬間、気がついた。

 そう、僕は彼女を知っている――一方的に。


 あの長い黒髪と、細いライン、そして女の子の割には高い背丈。

 座っていても変わらない、すらりとまっすぐに立つ背中。一目にわかる育ちの良さ。

 僕は自分の心が打ち震えるのがわかった。

 どうしようもなく運命を感じた、そんな感じ。

 僕は自然、前方の開いている席に座るように歩いていき、そして彼女の席から二つ空けた右横の席へと座った。

 そして静かに手元の冊子に視線を落とす、彼女の顔を、見た。



 ――電車の中の、あの、彼女だ。



 僕は頭の中が真っ白になるのがわかった。何をどうすればいいか、わからなかった。

 良く考えれば、こんな状況で何をする必要も無いし、してもおかしいだけなのに、僕はどうしてか何かをしなければならないような勘違いをして、頭の中をフル回転させる。


 彼女は真っ直ぐな姿勢で椅子に座り、机の上にある、おそらく今日塾側から渡されたであろういろいろな資料を、眺めていた。

 その横顔は、とても綺麗だった。この角度からの彼女は、始めてみる。

 すると彼女は一瞬視界に入ったのか、横にいる僕のほうを、ちらり、と見た。

 僕はすぐに顔を逸らした。

 一瞬目が合ったような、合ってないような、微妙なところ。


 やっぱり僕は臆病だと思った。

 でも今、確かに彼女は、僕を、僕という存在を、認識した。

 恐る恐る、もう一度彼女の方を見ると、しかし彼女はもう僕を見ておらず、再び手元の資料に視線を落としていた。あの資料は僕も入校日に渡されたもので、おそらく彼女は今日、この夏期講習からこの塾に入校するのだろう。


 それを確認して、僕はホッとする。

 まだまだ、時間はある。


 今日、この瞬間に何かしら結果を残す必要は無い。

 彼女はこの夏、僕と同じ授業を受け、同じ時間を同じ場所で過ごす。しかもこんなに狭い建物である。その半強制的な密接感は、確実に、僕と彼女との距離を縮めるだろう。


 本当に僕、気持ち悪いな。

 こんな女々しく浅ましいことをこの一瞬で考えるのだから、悲しいったりゃありゃしない。ただそれはこれが僕の本心であるから、全ての細かく醜い考えまで晒しているだけであって、僕自身の行動を見てもらえば、至極自然で違和感の無い行動だと分かってもらえるはずだ。……多分。


 とまぁそういうことで僕は震える心を何とか抑え、自分もこれから始まる夏期講習の準備を進める。筆箱を机の上に出し、夏期講習が始まるのを待った。

 するとすぐに、教室に講師が入ってきて、目の前の教卓の前に立った。


「はい。こんばんは」


 少し禿げかけた頼りなさそうな講師がそう言うと、生徒たちが小さい張りの無い声でこんばんはと返す。


「えーっと。そうですね。皆さん、おそらく今日で学校が終わったと思います。お疲れ様です。皆さんはまだ二年生ですが、でも残念ながら受験というのはすぐ来ます。あっという間に受験です。と、まぁそれをわかってるから、皆さんはこうして夏期講習を受講してくれてるんでしょうが――」


 そう、だらだらと講師は初めの挨拶と言った感じで、言葉を進めていく。この講師は数学の講師で、温和で低い腰の持ち主。こうして話していても普通の講師から感じる鬱陶しさがないし、ある程度場を和ませる話し方をするため、彼の言葉にクラス全体が緊張を解いていった。

 横に座る彼女を見ると、彼女はその講師をしっかりと見つめ、じっと話を聞いていた。

 皆が笑う時に、笑ったりすることはなかった。


「えーっと。じゃあ下らない話はここまでにして。今日はね、勉強初めということで、何人か、新しい生徒さんも入ってきています。まぁここは学校じゃないんでね、自己紹介っていうのはしませんけど、一応、これから一緒に受験を乗り越えていく仲間という意味で仲良くやってもらいたいので、出席確認も兼ねて一人ずつ名前を呼んでいくので、そうですね、呼ばれた人は『はい』と、返事をしてください」


 そう言って講師は名簿らしきものに視線を落とし、一人ずつ、あいうえお順に名前を読み上げていく。すぐに僕の名前も呼ばれて、僕は返事をした。

 しかしなかなか彼女の名前が呼ばれない。僕自身、彼女の名前を知らないので、正直どんな名前かというのが、一番興味のあるところだった。名前を知れば、一つ近づける、そんな気がした。


 そしてほとんど全ての人の名前が呼ばれ、最後に一人、彼女だけが残った。

 僕の鼓動が、少しだけ高鳴るのが分かった。

 そして――


「えーっと。じゃあ、最後は、黄泉路よみじ。黄泉路(みつ)さん」

「はい」


 そう。彼女は、返事をした。



 自分は、黄泉路蜜である、と。



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