聲
聞こえるはずもない声が聞こえた経験がある。
結構みんなありそう。
今は何時なのだろうか。
私は時計もしないし、携帯電話も持っていないので、自分が何時間ここにいたのか、それがわからない。とにかく走って走って、遠くまできたつもりだ。でも、気がついたらいつも朝時間を潰していた川辺にたどり着いていた。全然遠くに来れていない。
服が汗でベトベトだ。気持ち悪い。汗に紛れ、涙もどこかへ消えていた。
そしてその汗も、高架下の日陰にいるおかげで大分引いてきたみたいだ。そのくらい長い時間私はここにいる。その証拠に、日が傾き始めていた。
家に帰ろうか、と何度も思った。でも家に入るための鍵が無い。いや、あるにはあるのだけど、鞄の中だ。その鞄を取るためには戻らなければいけない。教室に。
それは嫌だ。とてつもなく嫌だ。
昨日までの私なら、何も気にせず戻れただろう。いや、そもそもこんな事態になっていない。でも、今は無理だ。恥ずかしいし、怖い。何故かそう思う。
昨日彼と喋っただけで、私はこんなにも弱くなってしまった。何か大事な線が切られたかのように、変わってしまった。心の防備が、打ち砕かれてしまった。
それが私にとって良い事なのか、そうでないのか、わからない。
でも今は、変わらなければよかったと、そう思ってしまう。
変わらなければ、多分、こんな苦しい思いはしなくて済んだのだから。
「……」
私は少し変われたのかなって、そう思っていた。
でもそれは私の思い過ごし。私はとてつもない暗闇の中で、あるはずの無い光を見つけたから、それにあまりにも期待を持ちすぎた。全部が良い方に転ぶのだと、慢心してしまっていた。
後悔。
後悔だ。
出会わなければよかった。知らなければよかった。
そうすれば、こんな気持ちにならなかったのに。
「うぅぅ……」
……嫌だ。
出会わなければよかったなんて、そんなの嫌だ。
たった一日だけど、こんなにも素晴らしい気持ちになれたのに。
たった一日だけど、この三年間の中で、いや、今までで一番楽しかったのに。
それを、無かったことになんか、したくない。彼がいなかったら、きっと私は死ぬまで、一人だったのだから。
一瞬の喜びを与えてもらっただけでも、ありがとう、って言わなきゃならない。
だって――
「好きになっちゃったんだもん……」
それが全てだ。
どうしようもないくらい、どうにもならない理由。
どれだけ酷い想いをしても、この気持ちだけで、忘れられなくなってしまう。
ずっとずっと、頭の中から離れない。
だから私は心のどこかで彼に期待を寄せてしまっている。
きっと彼は私を救ってくれるんだって。そう、彼はきっと今にも現れて――。
「み~つっけた」
軽妙なその声に、顔を上げる。
そこにいたのは彼――じゃない。それは声でわかった。
その人物は、まるでティーンズモデルから抜け出てきたような、美少年だった。衣笠美登里とはまた別の、爽やかというより濃いめの顔つきが印象的な。誰だろう。見たことはない。その後ろに、小太りの男性が一人、ティーシャツを汗で真っ黒に染め上げながらこちらを見下ろしている。
「君、黄泉路さんっしょ? だよな、ボコ?」
「うん。写真で見た通り」
「やべ、めっちゃ可愛いんだけど」
「お前なぁ、ミサキチ狙ってるんじゃないのかよ」
「いや、ミサキチより俄然エロい」
見知らぬ男性二人が、なにやら楽し気に話している。よくはわからないが、彼らは私を探していたみたいだ。
「あ、紹介遅れたね。俺ら、見たことない?」
顔立ちの良い方の男性がそう言って、私はわからないと無反応を返す。
「まじかぁ。田舎ってネット繋がってないんじゃね?」
「んなわけあるか」
「俺ら頼まれて君のこと探してたの。うわ、改めて見るとやっぱ可愛い……ちょっとこう、ツンとキツそうな顔してんのが、また良い」
その男性は、そういって私に顔を近づける。
「でも両親共々、人殺しかあ……」
「っ!」
「設定的にはもえるよね。なんつーか、危険な関係、的な?」
人の事を蔑んでしか見ていない、心無い彼の言葉。何度も何度も経験してきた言葉。
でも、今の私には、我慢ができない。
「私は……殺して、ない」
「ん?」
私は弱々しい言葉で、否定した。
そうしたかったから。そうしなければ、いけない気がしたから。
「私は、何もしてない!」
まるで子供のように、ただ否定を続けた。こんな私をおそらく馬鹿だと思って見てるだろう。それでもいい。私は、何もやっていないのだから。
「ごめんごめん。別に非難してるわけじゃねーの。つか怒ると勿体ないじゃん」
そう言って、彼は私の顎のあたりに手を添えた。
私に、触れた。
「――いやっ!」
どくんどくん。
どくんどくん。
すでに治まったと思っていた異常な動悸が、再び、始まった。
「安心してって、俺ちょーうまいから。マジ、とろんってするよ」
「まじかよタイラ。ここですんの?」
「いいじゃん。ここなら人目もねぇし。とりあえずいつも通り撮っとけよ」
「も~。俺にも変われよ後で」
どくんどくん。
どくんどくん。
もはや、息も難しいくらいに、心臓が、大きく鼓動する。
「かはっ……はっ……」
「え、なになに? どうしたの? しんどいの?」
私の異常な動悸に苦しむ様子に、タイラと呼ばれた少年が少し慌てたように見下ろす。彼なりの気遣いだろう、苦しむ私を落ち着けようと、今度は手首を掴んだ。
どくんどくん。
どくんどくん。
痛い。
痛い痛い。
胸が痛い。
心が、痛い。
「ッ! 離――」
離せ――あまりの嫌悪感にそう言おうとした。しかしその言葉は途中で出せなくなった。
それは皇子代黎に感じた気持ちの表れだと思っていた。自分はあの少年に惹かれてしまったんだと、そう思っていた。しかしその時感じた鼓動が、今、別の下衆のような人間に身体に触れられて、どんどん大きくなっていく。
それはもはや緊張や、興奮などではない。
明らかな――異常。
(な……に、これ……)
『――』
何かが、聞こえた。
聞き取れないほどの遠くから聞こえた声。しかしそれは物理的な距離の遠さから聞こえるものではない。私の中から小さく響いてくる。可愛らしい女の子のような、そんな声。
直後私が見たのは、目の前の男の首が、宙を舞っているところだった。




