10頁-朱に染まった猫(1)
いつものように…朝一番で教室に入る。
そのことはいつもどおりだけれども…私は少し落ち込んでいた。
そのときは…ちょっと変な臭いがすることなんて、気がついてなかった。…それほど上の空だった。
先週の月曜日から…校舎裏に居たあの幼い白猫がいなくなってしまったから。
昨日…日曜日に、いつものように餌をあげに学校に行くと…あの白猫が居なくなってしまっていた。
折角、お母さんに飼ってもいいよ、と言われたのに。
でもきっと…心優しい誰かが拾ってくれたに違いない、と思う。
だって、あんなにあそこを動くのを嫌がっていたあの白猫を…家に連れて帰れたんだから。
あの子が認めるほど、優しい人に違いない。
そんな事を考えながら…ぼーっと机に鞄を置き、イスを引いて、イスに座る。
べちゃり、という、濡れ雑巾みたいな音がして…お尻がじわじわと冷たくなる。
驚いて、慌ててイスから立ち上がり…イスを見る。
そのイスは…真っ赤だった。
急に怖くなり、お尻のあたりのスカートを手で拭って、見ると…手も、真っ赤になった。
「や、やだ…!」
怖くなって、辺りを見回すが…誰もいない。…安心?
もう一度…イス、それから机を見る。
よく見れば…机から赤い液体が垂れていた。
「これ…血?」
自分の手を確認する…少し臭いをかぐと、完全に血のそれだった。
「いったい何…?」
机の中を確認するべき、と思い…もっと近くに行って机の中を確認しようとしたとき、中から赤黒く染まった、何かがはみ出てきた。それはだらりと、垂れて…そこから血がまたぽたりと垂れる。
「や、やだ…、これ…何?」
良く見れば、ところどころ白い部分が残っていて…猫の足のようだった。
そして、私が思いつく…白い猫といえば…一匹しか居ない。
「うそ…や、やだ…っ!…うそ!」
裏切られたような、悲しいような、気分になり、何が起きているのか全く分からなくなった。
気がついた時には…悲鳴をあげていた。
学校に着くと、何故かいつも以上に騒がしかった。
そして、僕たちの教室に…やたらと人が集まっている。
先生なんかもいっぱいいる…。
近くに居た生徒に話を聞こうかと思ったけど…鞄が重いのでやめておこう。
教室の入り口をふさいでいる人をどかして、教室の中に入る。
…異質な雰囲気。
教室の後ろの方にある自分の席に鞄を置く。
異質な雰囲気…というよりも、空気が汚れている気がする。
臭いがする…。
まるで、血のような…微かな臭い。
教室の前に…人だかりが出来ている。
教師が苦い顔をして…生徒が青ざめた顔をして…集まっている。
ふと、その人だかりから外れたところを見ると…女子が一人泣いている。
顔を手で覆い隠して…肩を小刻みに震わせている。
「マナミ、おはよう」
急に声を掛けられて、思わず体を強張らせてしまう。
ソウか。
…嫌な雰囲気だと思う、声が暗い。
「え、あ…おはよう。…何かあったの」
「うん、…見た方が早いな。…あの人だかりだ」
と、ソウが前の人だかりを指さした。
そのまま、案内されるままに…人だかりの方へと歩く。
「…見たくなければ、事情だけ話すが」
「いや、いい。…少し気になるしね」
軽く謝りつつ、人をかき分けて…その人だかりの中心を…見た。
いや、見てしまった。
そこにあったのは…机とイス。
僕の使っているそれと何の変わりもない…机とイス。
ただ、…僕のそれと比べて…大分赤黒い。まるで血…いや、血そのもの。
一般的に勉強机と呼ばれる机の中から…血が垂れている。粘り気の強い血が…ぼたり、と。垂れて、イスに落ちて、波紋を作る。…ゆらゆらと、ぼたり、と。
ふいに、吐き気を覚えてしまう。…気持ち悪い。非常に気持ち悪い。足もとが不安定になるような、感覚。
そのとき、ふと…机の中からはみ出ている…真っ赤な何かに気がついてしまった。
真っ赤な…何か。
目を凝らせば…まるで動物の足のような。
…動物の足?
いやな予感がする。
まるで、知人の事故を見てしまったような…そんな気分だ。
その足のようなものは…よく見れば、猫の足らしく。…少しだけ、小さい。
真っ赤な足だと思っていたそれは…ところどころ白い部分が残っていて。
血で汚れて…どろどろになったそれは…まるで、僕のよく知る猫のものみたいで。
そして…僕のよく知る白猫、トゥルーは昨日いつもの場所に居なくて。
最悪な予感が、頭をよぎる。
気持ち悪い…と思ったときには、僕は後ろによろけていた。
誰のか知らないけど…机に座り込む。
あの足は…大きさも、それらしくて。
「マナミ、…ちょっとこっちへ」
「あ、ソウ…」
それだけしか言うことができずに…そのままソウに引っ張られるようにして廊下に出る。
教室から少し離れると…人が大分少ない。
「…見たか?」
深呼吸。
頭が落ち着く。
…吐き気は増すばかりだけど。
「うん、…白猫の足みたいだね」
「…中身も想像つくだろう?」
少し小声で話し合う。
「白猫の…死骸だろうね」
「それで、言いにくいんだが…」
「あれ、校舎裏のあの子だろうね」
頭が大分落ち着いてきた。
そう…あれは、どう考えても…校舎裏に居た、小さな白猫…だと思う。
「多分、そうだろう。…大丈夫か?」
「問題ないよ」
そう、何も問題ない。
徐々に、吐き気もひいてきた。
「…、なら、心配は"ザザザ"」
「嘘は僕には無駄だって、…教室戻ろうか」
「すまない…」
「何が?」
「いや、…」
ソウはそれだけ言うと、黙りこんでしまった。
教室に戻ると…皆追い出されていた。
廊下で、教師…僕らの担任が大声で注意している。
「相談した結果、警察に来てもらうことになりました!皆さん…この教室には入らないでください。荷物などは後から渡します」
生徒達が、ざわついている。
「後、他のクラスの生徒さんは、皆さん自分の教室に戻ってください!平常通り、授業を進めます」
それだけ言うと、それぞれのクラスに生徒を押し戻す。
残されたのは…僕らだけ。
三十人くらいの…生徒。
「皆さんは、とりあえず視聴覚室に行ってもらいます、…新垣さんだけはこちらへ」
と、一人激しく泣いている女子を呼ぶ。
何故か…ソウが前に出る。
「先生、私も…あの猫の事を知っています。…話せることがあるかもしれません」
「本当ですか?…では、鈴木さんもこちらへ」
「…後、彼も」
と、僕を手招きする。
…しかたない。
「ええ、では、鈴木君も職員室に行きましょう」
ソウが、新垣さん…の背中を支えながら、四人で職員室に歩いて行く。
…周りの生徒の野次すら…ろくに聞こえない。
新垣さんのスカートが血で汚れていたので…ソウが手伝ってジャージに着替えた後、職員室の隣の…応接室に四人で入る。
まだ、新垣さんはハンカチで涙を拭いている。
「…新垣さん、つらいようならば、保健室で休みますか?」
担任の…斎藤先生が新垣さんを気遣う。
いつもは、爽やかな笑顔で…若々しい先生の顔が…曇っている。
「…っ…へ、…平気っ…です…」
しゃくりをあげながら…それだけ呟く。
「…分かりました、では先に…お二人にお聞きします」
「あの猫のことですね?」
生徒三人と先生が向き合うようにして…ソファーに座る。
「僕から話します…あの猫について」
斎藤先生に、猫が今までどこに居たか、いつ見かけたか…等のことを話していく。
先生は、黙ってそれを…時折頷きながら聞いていた。