俺らのシネマ・田辺シネマ物語
昭和の映画全盛期、街には活気があった!
「見えたんやて、本当やから」「嘘つけ、そんなわけないやろ」 「本当に見えたんやから。団令子のオッパイが乳首まで見えたんや。ほんの一瞬やったけどな」学校帰り、制服姿でカバンを持ったニキビ面の中学生が6人並んで、今か今かと固唾を飲んで見入っている。街にはまだ映画館が5館も6館もあった時代の話しである。彼らが、よく只で見せて貰った映画館、その館主なった友人を応援すべく映画製作に奮闘する友情物語である。
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「見えたんやて、本当やから」
「嘘つけ、そんなわけないやろ」
「本当に見えたんやから。団令子のオッパイが乳首まで見えたんや。ほんの一瞬やったけどな」
「本当に見えた」と、しきりに強調しているのは映画館『田辺シネマ』の息子、高橋健一である。「嘘つけ」と言っているのは、健一の同級生達、男5人である。
彼らは南田辺中学2年生である。そんな筈はないと口先を尖らしているのは、塚本伊助。横でニタニタしているのは、渡辺五郎。
「もし本当やったら」と、興味津々なのは和田豊と雨宮良和。
皆のやり取りを笑いながら聞いているのは、学級委員の長山智史である。
塚本伊助は商店街の漬物屋の息子で、6人の中で一番小柄だが足が速く、クラスのリレー選手である。自分で韋駄天の伊助と名乗っている。渡辺五郎は同じ商店街の肉屋の息子で、身体は大きく、2年生ながら野球部で4番を打つ。和田豊は父親が堺の小学校長をしている。雨宮良和は母親が飲み屋をやっていて、父親はいない。作文がクラスで一番上手い。長山智史は父親が大阪市職員で課長職にある。クラスで一番勉強が出来る。この中では次に出来るのが和田豊である。そして映画館の息子、高橋健一は、絵は上手い。将来、映画館の看板は俺が書くと言っている。
長山は「級長」、和田は「ゆたか」、塚本は「伊助」、雨宮は「雨ちゃん」、渡辺は「五郎」、高橋は中の名前を取って「ハシケン」と呼び合っている。学校からの帰り道も同じ方向ということもあって、6人は仲が良い。
「なんやったら、皆見に来たらええやんか」
「タダ見はあかんゆうて、支配人の山崎さんにこないだ怒られたばっかりやろ」と伊助がまた口を尖がらせた。
「ほなら、みなの分俺が持つわ。カネ払ろうたら文句あれへんやろ」。ハシケンは何としてでも嘘でないことを証明したいらしい。
彼らはハシケンに連れられて、よくタダで映画を見せて貰った。山崎さんは彼らを「只見グループ」と呼んだ。ハシケンは面白い映画があると皆に見せて歓心を買いたいのだ。でも、映画全盛期で立ち見もあった頃、あまりに度重なるので、支配人の山崎さんが皆に注意を与え、ハシケンは父親にきつく叱られたのである。
「まだか?」と伊助。
「もうすぐや、ほんの一瞬やから注意してるんやで」とハシケン。
学校帰りで、学生服を着てカバンを持ったニキビ面が6人並んで、今か今かと固唾を飲んで見入っている。
「そら、今や」とハシケンの掛け声で、皆は一斉に前屈の姿勢になり、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「乳首は見えなんだで」と不満げに喋ったのは豊。
「いいんや、スリップが落ちたとき豆粒みたいに黒いの見えたみたいや」とは伊助。
もういっぺん見てみようということになり、次の部も6人は見たのであるが、見えたかと思ったら、その瞬間パーッと画面が変わり、皆は欲求不満げに映画館を出た。
あくる日、「見えた」と伊助はクラスの他の連中に喋り、映画を奢らされる羽目になった。「見えた」「嘘つけ」の繰り返しで、こうして2年11組の学級の男子のほとんどはこの映画を見たのである。
雨宮は団令子の丸顔は思い出せても、今、映画の題名は思い出せない。みなに訊いても、あるシーンにだけ集中していたので、主演俳優の名前すら思い出せないと笑った。雨宮良和は、ペンネーム『雨野ジュン』を持つ小説家である。今は東京に住んでいて、久しぶりに懐かしいこの町に帰って来たのである。
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梅田から地下鉄谷町線に乗り、天王寺を過ぎた。かっては、この上を南海平野線が走っていた。近鉄百貨店前の阿倍野駅から―新地(遊郭)で知れた飛田間は併用軌道で路面を走り、そこから平野までは専用軌道になる。
一両車両でのんびりと走っており、晴れた日には、枕木の柵に布団や雨具が干してあるような生活感いっぱいの路線であった。昭和55年に、八尾までの地下鉄開通に路線をゆずり、廃線になった。
電車は地下鉄田辺駅のホームに入った。丁度この上が、かっての平野線の田辺駅で、駅は通っている小学校の裏門傍にあった。その駅の近くの路地を少し入ったところで、雨宮の母親は飲み屋をやっていた。客の6、7人も入れば一杯になる小さな店であった。
2階に3畳と6畳の二間あり、母と息子の住いであった。田辺の次が駒川中野で、雨宮はそこで降りた。5分も行けば駒川商店街、今でも、大阪で3本の指に入る繁盛商店街である。その商店街の入口に大きなパチンコ屋がある。ハシケンの映画館『田辺シネマ』があったところである。
田辺シネマは封切館ではなかった。2番館と言われ、封切りより1、2週間、時にはもっと遅れて上映される。その代わり、配給会社に縛られず、「大映」「松竹」「東映」「東宝」の映画がかけられる。全盛期の昭和30年代には東住吉区だけで映画館が9館もあり、田辺だけでも上記の4社とシネマの5館があった。最後まで残ったのが田辺シネマで2年前に閉館した。
2階もあり、最初は2階では洋画をやっていたが、映画の斜陽化とともに成人映画になり、それも落ち目になり、ハシケンが映画館を手伝うようになって、週末は1回上映の名画座になった。6名に同級生で映画に煩い藤川鈴子、原田瑛子の女性二人が加わって『名画選考委員会』が発足したのである。2か月に一度選考会合が開かれ、そのあとは定例飲み会になった。
商店街の中に入ると、昔ほどの賑わいではないが、人通りは多い。幾つかの商店会が寄って商店街を構成している。だからメインの一本の長い通りの商店街ではなく、横にも何本かの通りがあって幅広の商店街である。
メイン通りの中程にひときわ大きな肉屋がある。そこが、五郎の店である。雨宮が学生の頃はこんなに大きな店ではなかった。食肉卸の羽曳野系の直営店が幅をきかし、五郎の店は、肉よりコロッケや串カツ等の揚げ物で持っていた。伊助は「お前とこは、店の隅の3坪で稼いでいる」と冷やかしたものである。
学校帰りに、小腹の足しにコロッケを買い食いしたが、割烹着を着た五郎の母親は、惜しげもなく1個にも1個のおまけをした。そんな店だった。跡を継いだ五郎が大きくしたのである。そしてこの商店街の会長職を長年務めている。
ここから20メートル南に行った針中野市場の中に、伊助の漬物屋があった。伊助の両親は伊勢から電車で通って来て、露店から商店街で店を持つに至った。その味には定評があり、雨宮の母親は酒の突き出しにここの漬物をよく出した。
『渡辺精肉店』の横道を東に100メートル程行った公園そばに会館はあった。ここで通夜が執り行われる。ハシケンこと高橋健一の通夜である。享年58歳。若い死であった。体格のいい五郎が雨宮を見つけて手を上げた。
雨宮は喪主・高橋由美子という字を見てホットした。由美子に「ご愁傷様です」と頭を下げた。由美子は「遠路ありがとうございます」とだけ返事を返した。
何年逢っていないのだろう。あれは雨宮が東京に行く時、ハシケンの家で歓送会をやってくれた時が最後だった。あれからもう、かれこれ10年は経っているだろうと、雨宮は思いながら焼香を済ませた。
五郎、伊助、和田豊、長山らの皆がいる席に腰を下ろした。藤川鈴子、原田瑛子も来ていた。彼女らを入れると、映画『田辺シネマ物語』を作ったメンバーということになる。
「君、この間出した『龍馬慕情』を見たわよ。本が出ないからもう小説家やめたのかと思ってた」と言ったのは、クラスのマドンナだった鈴子だった。鈴子は弁護士をやっている。
「いつから歴史小説を書くようになったの。あんまり面白くなかったわよ」と、遠慮のない意見を言ったのは、関西で劇団俳優をやっている瑛子であった。
雨宮は中学校3年途中で母の実家のある山口に転校して行った。母の男が事業に失敗したのである。みなが再び雨宮を知ったのは、彼がある文芸雑誌の新人賞を取ってテレビに映った時である。早速、長山が音頭を取って「祝う会」をやった。
雨宮は広島の大学に入ったが中退をし、職を転々として釜ヶ崎に流れて来ていた。とてもみなの前に顔を出せる状態ではなかった。そんな中でも書くことだけは諦めなかった。そして雑誌の懸賞小説に応募したのが『釜ヶ崎人情』であった。釜ヶ崎というドヤ街での仲間たちとの日々を描いたものである。主人公は売れない26歳の漫才師である。当時の彼であった。
こうして再び彼らとの交流が始まったのである。雨宮を除いて同級会は毎年開かれ、その幹事は五郎とハシケンが交代で勤めていた。鈴子、瑛子もクラス会の皆勤メンバーであった。五郎、伊助、ハシケンは同じ商店街同士ということで、毎日クラス会であった。
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雨宮は小学校3年のとき、山口の下関から大阪に越して来た。母親は料理屋の仲居をしていて、そこで知り合った客に店を持たせるという話で大阪に来たのである。雨宮の父親は戦後引き揚げて来て、すぐにコレラになって死んだ。雨宮は父親の兵隊姿の写真しか知らない。
新人賞を取って2、3年は順調であった。ひょっとしたら直木賞候補になるのではと周りも、雨宮自身も思うようになったぐらいである。ピッタと書けなくなった。書きたいものをみな出してしまったら、何もなくなったのである。
無理に何かしら書いてみてもどうしょうもなく、新人賞を取った名前だけで雑誌に取り上げて貰ったが、そのうち原稿を持って行っても、編集者に嫌な顔をされるようになった。
いつしか、ポルノ雑誌に名前を変えて書いたり、その世界の作家の下請けをするようになった。これが結構カネになった。あとは持て余した時間をパチンコとハシケンとこの映画館で過ごした。こうして、渡辺、伊助、ハシケンの飲み仲間に雨宮も加わった。
「お前、あの同棲している女と結婚せんのか。ええ女やないか」と、同棲している洋子に同情してくれたのもハシケンであった。洋子は賞を取るまでホステスをして雨宮を支えた。一緒に住むようになってもスーパーのパートで家計を支えている。その分、雨宮は原稿料を自由に使えた。小説家という不安定な仕事ということもあるが、結婚して落ち着いてしまうと書けなくなるのではと、雨宮はそれを口実にした。
「今でも、書けてないやんか」と、ハシケンは耳の痛いことを遠慮なく言った。
二人に、五郎、伊助を入れて4人は駒川付近でよく飲んだが、ハシケンは飲み出すと止まらない口で、書けなくて悶々としている雨宮とが最後の二人になって、天王寺まで出て来て飲み直し、そんなときは、ハシケンは雨宮のアパートに泊まって帰った。
雨宮以外、結婚して家庭を持ち、子供もある。渡辺、伊助はそれなりのけじめをつけていたが、自由気ままに振舞っていられるのはハシケンと雨宮だけであった。
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4人の会話はまず映画の話から始まる。最近話題になった映画、観た映画の話である。そして町に映画館が5館あった時代の話になって盛り上がる。まず五郎が話始める。
《店の休みは商店街の休みと同じ、月2日だけやった。でも、途中で雨が降って来て商店街の客足が途絶える。すると親爺がこう云うんや、「早じまいして、久しぶりに映画にでも行くか」と――雨が降りだして、母も俺もその一声を待っていたんや。ハシケンとこにいい映画がかかってないときは、親父は東映のチャンバラ、母は文芸ものの松竹や大映の映画を好んだ。母親がある日こんなことを言った。「あの人と映画一緒に行くのん嫌や、恋愛して結婚、ハッピーエンドやろ。『あっからが大変や』と、ロマンもヘッタクレもないねん。私への当てつけとしか思われへん」。そういえば、戦争映画を親父と一緒に観たとき、勝って敵の陣地の上に旗が立つやろ。「あっからが大変なんや、陣地を守るということがどれだけ難しいか、五郎よく覚えておけ」と言っていた。今になったらその2つの言葉の意味ようわかるわ》。
家族で映画、雨宮にはそんな思い出がない。一度、世話をする男と母と自分の3人で難波に映画を観に行ったことがあった。なんの映画かは忘れたが、帰りに鰻屋に入ったのを覚えている。余りにも美味しかったので、真っ先に塗箱を空けてしまった。男が笑って、もうー、一人前注文してくれた。雨宮が男を見たのはその一度きりである。
店の休みの時は、母は必ず外出し、帰りは遅く、酒の匂いがした。
「伊助はどんな思い出がある?」と雨宮が訊いた。
「俺とこは家族で映画観に行った思い出なんてあらへん。知っての通り、ウチは伊勢から通っていたやろ。親は、朝は早く出て行って、帰りはいつも夜の9時、10時やった。俺と妹の世話は、もっぱら、婆ーちゃんがしてくれた。母は婆ーちゃんに悪いと思ったのやろう、学校休みの時は俺らも大阪に一緒や。こっち来ても友達もあらへん、貰った小銭でお菓子買うて、近くの公園で妹と遊んで時間を潰すのがせいぜいやった。そんなときに声をかけてくれたんが、ハシケンやった」
近鉄には鮮魚列車というのがあった。魚介類を一般列車に持ち込むと魚臭など他の客の迷惑になるため、専用列車を走らせたのである。早朝に宇治山田駅を出発して、およそ2時間半をかけて大阪上本町駅に着く。そこから市内のそれぞれの場所に散って行くのである。伊助とこは伊勢駅からそれに同乗する。他の私鉄やJRで運行されていた専用列車も時代とともに廃止されたが、近鉄は今も運行されている。
「ウチの映画館は入り口が国道に面していて、商店街側は塀だけやろ。商店街の入り口やし、何もないのはよくないし、商店街が警察と話しをつけてくれて、露店を出してもええということになった。日曜日になると露店のそばで伊助が淋しそうにしてたから声をかけたんや」と、ハシケン。
「それで、ハシケンとこで映画観たんや。田舎でも公民館みたいなとこで、たまに映画会があったけど、こんな劇場みたいなとこで観たんは初めてやった。商店街で小さな店借りられるようになって、こっちに越してこれたやろう。町に住める。どんなに嬉しかったか」。伊助は少し涙目になった。
「両親は店を軌道に乗せるのが精いっぱい。これで映画でも観ておいでと釣銭籠からなんぼか呉れる。タダで入れてもうて、そのカネでハシケンと買い食いや。ほとんど、五郎とこのコロッケ、串カツや。あれで五郎、お前とこは大きくなったみたなもんや」と伊助が云う。
あの時代、親たちは生活を軌道に乗せるのに精いっぱいだった。みなは、映画館主の息子、ハシケンが優雅に見えて羨ましかった。なにせ、タダで映画を毎日観れる。親爺さんだって「社長」の名前で呼ばれている。
雨宮はハシケンとは特に映画の好みがあった。当然、映画の原作が小説である場合、物語や小説の話になる。
「お前も、映画の原作になるようなのを書け。それには今の悪い連中と手を切れ。才能を腐らせるな」と、ハシケンは雨宮の堕落を指弾し、ハッパ激励する。それがその後、結果的に雨宮の東京行に繋がったのである。雨宮に激励とエールを送ったハシケンではあるが、すぐその言葉の後で、映画の行き詰まりを嘆いた。それは映画業界全体であり、個人の映画館経営の行き詰まりを意味した。経営の行き詰まりは家庭にもさざ波を起こした。
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通夜の席はいつしか皆で作った『田辺シネマ物語』の話になっていった。
「今から思ったらよう、映画みたいなもの作れたと思うわ」と、地下鉄西田辺駅前で歯科医院を開いている豊が言った。
「雨ちゃん、お前が悪いんや。映画を作ろうなんて突飛でもないこと言い出して…」と、伊助が雨宮のグラスに酒を注ぎ足しながら言った。
「『映画を作るから、出てくれへんか』と言われた時は、ホンマにびっくりしたわ」と言ったのは、主演女優をつとめた瑛子であった。小ぶりな顔に似合わない大きな眼がアンバランスな魅力で、華奢な身体を包む黒いワンピースがどこか浅丘ルリ子を思わせないでもない。もうーすぐ、60にならんとするのに、40になったばかりと思わせるのは、人に見られることを仕事にしてきたからであろうか。
「瑛子ちゃんならわかるけど、私にまでお声がかかったのには大事件どころではなかったわ」と言葉を次いだのが、黒いスーツ姿が理知的な鈴子であった。
「鈴ちゃんのお陰で映画が作れたみたいなもんやった」と五郎が云うと、
「なんちゅうても、資金をどうするやろう。銀行との交渉、寄付、カンパ、興行収入からの分配方法。さすが弁護士先生やったなぁー」とは、鈴子と級長コンビを組んだ大学教授の長山であった。
「先生言うたら、大学の学生たちに鑑賞券を先売りしてくれた金額も大きかったなぁー」と雨宮が言った。
「1000円の券300人でなんぼになるんや」と、伊助が五郎の顔を見た。
「一十百千万…、30万円や。大きかったなー。どうして集めた?」と五郎。
「『僕の友人の小説家が監督するいい映画です』とゆうただけや、講義の学生は何かを察知したんと違うか」と長山が言う。長山の授業科目は芸術論であった。
「試験にどんな問題を出したの?」と鈴子が訊いた。
「最近観た感動作品について記せ」やと長山が答えた。五郎が「悪いやっちゃなぁー」と言ったので、全員笑った。
通夜の席で笑い声が上がったので、他の客がみなこちらを見返った。
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「お酒足りてますか」と、お銚子をお盆に乗せて現れたのが、由美子であった。
「故人は賑やかなのが好きな人でしたから、遠慮なさらず」と、みなに酒を注いで回った。
「あの時の映画の話をしています。由美子さんも座られてはどうですか」と豊が言うと、伊助が豊の袖を引き、豊はしまったという顔をした。
「あの時は大変でしたね。健一にはいい思い出になったみたいですよ。又、手が空きましたら後ほど…」と、由美子は答えて、他の席を回った。婦人服店をやっていて、洋装姿しか見せなかったが、黒い喪服がよく似合っていた。
「由美子さん、いつまでも綺麗やね。その綺麗な由美子さん役をやらして貰って光栄やったわ。でも、難しかった。私かて、映画は初めてやったけど、劇ではなんぼも役をやったわ。でもあんなに難しかったのは初めてやった」と言った瑛子の言葉に、一同思い当たることがあって、しばし無言が続いた。
「でも、あの映画があんなに受けるとは思わなんだわ。雨ちゃんのアイデア賞もんのお陰やなぁー」と、みなの気を取り持つように言ったのは、元祖「ひょうきん族」の伊助である。伊助は皆が黙り込んだり、深刻になったときはじっとしておれない。下手なジョークを飛ばしたりしては、皆に軽蔑の目で見られる。
ちょこまかと文句を言うくせに、仲間の誰か同士が諍いになると、これまた身も世もないぐらい心配し、仲直りを懇願する。気持ちはわかるので、伊助に免じてことが収まることが多かった。
雨宮は映画作りに至った経過を、皆の話を聞きながら思い出していた。
ハシケンの映画への情熱と、映画館を続けていく困難さを聞かされているうちに、何とか応援する方法はないだろうかと考えるようになった。雨宮が小説を書くようになったことと、田辺シネマはあながち無関係でない。ハシケンのおかげで随分タダで映画を見せて貰った。いつしかそれが物語を書く栄養素になっていったのは疑いない。
田辺シネマはハシケンの父、高橋健吾が昭和28年に作った。戦地経験のある健吾は38度線で分断された朝鮮は必ず戦争になると読んでいた。戦争となると真っ先に兵士が必要な物は何だろうと考えた。寒い満州経験から軍用毛布を思いついた。闇で儲けたカネを泉州での毛布生産に費やした。目論みは見事に当たった。世の中は徐々に落ち着いてきていた。娯楽に飢えた人たちを慰めるもの、戦前、映画好きだった健吾は映画に目をつけたのだった。
駒川商店街の入口にある銭湯が売りに出ていると知った。銭湯の主は株に手を出していて、スターリンの死による暴落で大損したのである。商店街に娯楽施設が出来ることは、ええことやとした五郎の父親が仲介の労を取った。五郎の父は小さい見せながらも商店街の役員をやっていて尊敬されていた。そんなこともあって、両家はそれ以降、親戚同然の付き合いとなった。
『社長の健吾さん』と支配人の山崎さんは呼ぶ。みなは「社長」だけでいいのにと思うが、みなも、山崎さんと同じように、ハシケンに向かっても「お前の親爺」とは呼ばず、『社長の健吾さん』とからかい半分に呼んだ。
雨宮が通った頃のシネマのスタッフは、売店は母親の加代さんが、映写技師は二人、一階はベテランの木本さん、蝶ネクタイにベレー帽、いつも身だしなみをきっちりしていた。二階は見習い中の吉田君がカメラを担当、木本さんを師匠と尊敬していた。切符のもぎりや、清掃は雑用係の若い花子さん、はち切れんばかりの身体をミニで包んでいた。山崎さんは定年退職で、花子さんは結婚して途中でやめたが、木本さんと吉田君は閉館まで続いた。
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雨宮は30代のほとんどを、田辺シネマで過ごしたみたいなものである。天王寺にあるアパートを朝遅く起きる。卓袱台の上には洋子が朝ごはんを用意して、スーパーに出ていた。机に向かって原稿用紙を取り出すが、30分もしたらペンを置く。
着替えて天王寺駅に向かい、平野線に乗る。電車はのんびりと下町を走る。20分もすれば駒川中野である。何より運賃は区間に関係なく100円。廃線されるまでこの値段であった。
パチンコ屋に入る。雨宮のパチンコの腕はいい方である。何がしかは稼ぐ。昼を商店街の食堂で済ます。たいていは親子丼かカツ丼である。本屋をぶらりーと覗いて気に入った本があれば買う。新聞を取っていないので、喫茶店に入って今日の新聞を念入りに読む。本を買ったときは、1時間ほどはそれに目を通す。
それから、田辺シネマに出向く。2階で成人映画を1本見る。花子さんに「好きねぇ」と言われれば、「何しろ目下はポルノ作家なので」と答える。下に降りて、かかっている映画を見る。つまらない映画の時は眠る。誰にも邪魔されず映画館は時間を潰すのにピッタリの場所であった。
見終えると、支配人の山崎さんや、撮影技師の木本さんらと少し話す。青年の吉田君や若い花子さんらをからかうこともある。売店の加代さんにコーヒーを驕って貰う。仕事をしないスタッフみたいな者である。
映画館主は暇な職業と思っていたら大間違いだった。掃除係は花子さんになっているが何しろ広い。椅子の数だって大変だ。それを一つ一つ丁寧に拭く。これをハシケンが手伝う。看板書きもハシケンの担当である。館内にいないと思うと、ポスター貼りに出かけている。催事があるときは宣伝カーで街を走る。館内にいるときは切符のもぎり、社長室で『社長の健吾さん』と打ち合わせや事務をとる。雨宮の相手をしている暇などない。ただ、夜は遅出の健吾さんと交代という形で早く引ける。
それから、雨宮と飲みに出かける。行きつけの店に遅れて五郎や伊助が来る。二人は1時間ほどで帰る。飲み足りないときは、二人天王寺に出てまた飲む。終電に遅れたときは、ハシケンは雨宮のとこに泊まる。雨宮がハシケンの家に泊まることはない。雨宮のギリギリの礼儀である。
二か月に一回は名画座にかける映画を決めるために皆が集まる。当然その後は飲み会となる。それの繰り返しで10年を過ごしたのである。その間、雨宮がまともな作品として出した本は3冊しかなかった。
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『社長の健吾さん』と雨宮は何回か飲む機会があった。その時、シネマの創業の話を雨宮は聞いた。
健吾は奈良の木津川村の出身である。今でこそ車で行けるが、戦前はバスも通らない山奥の寒村であった。小学校を出るとすぐ本町の繊維問屋の丁稚に行かされた。健吾は何故か上の人に可愛がられるとこがあり、活動写真と称した頃、活動写真好きの主人のお供をして映画を見る機会に恵まれた。なんと面白いものと感じ入った。そのときは、まさか映画館を経営するとは思ってもいなかった。
ただ、いつまでも使われるのではなく、将来は自分で商売をしたいと思っていた。徴兵で満州に行かされたが、内地に帰って来て姫路の部隊でトラックを運転していた時に終戦になった。
健吾の運はこの日で変わった。そのまま部隊に帰ることなく、トラックを運転して大阪に向かったのである。戦争に負けても一向に悔しくも、悲しくもなかった。「俺の時代が始まる」と思ったのである。そもそも、この戦争は負けると思っていた。負ける戦争で死ぬのはアホやと思った。昭和14年、満州でノモハン事件に遭遇している。ソ連の戦車部隊にコテパンにやられたのである。そのとき、アメリカと戦争したら勝つ見込みはまずないと確信したのである。兵隊の階級もない。旦那も丁稚もない時代が「よーい、ドン」で始まったと思ったのである。
健吾には思う人があった。終戦となって「どうしているのだろう?」と、やたら気になったのである。本町の元の勤め先のお嬢さんであった。
行ってみると店は焼けてなく、近在の知っている人に行き先を聞くと、主人の奥さんの実家が奈良の平群にあり、そちらに身を寄せているとのことであった。トラックを奈良に向かわせた。主人一家は再会を喜んでくれた。それが縁で近在から食料物資を調達しては大阪で売り捌いた。トラックは貴重な戦力となった。主人は「息子もいるわけでもないし、このまま田舎で百姓を続ける」と言った。こうして健吾の「お嬢さんを下さい」は快く受け入れられたのである。戦前だったらまず、無理だったろう。
戦後の混乱期を話す健吾の話は面白く、もし父が生きていたら戦後をどのように生きたのだろうかと、重ねて聞いた。
《あんたの賞を貰った作品読まして貰いましたよ。健一の机の上に置いてあったもんだからね。面白かったです。あんなのを映画にしたらはやるのにね。業界も目がおまへんなぁー。小説家さんやからなんぞの参考にして下さい。そら闇屋はよう儲かりましたよ。でもしょせん闇屋いつまでも続くものではおません。天王寺で土地の売り物がありましてね、インフレでお金の値打ちは持ってればどんどん下がります。それで土地を買いました。その頃、銭湯も壊れたり、家風呂もなく行水で凌いだりしていました。それで風呂屋をしょうかと思ったのですが、ただの風呂屋じゃ面白くない。温泉に行った気分になってもらおうと、脱衣部屋のついた家族風呂を作って『有馬』としたんです。それはよう繁盛しました。2ヶ月間、行列が切れなんだほどです。それがね、あらぬ方向に使われるようになったんですわ。住宅事情が悪く、親戚同居、間借りが当たり前の時代です。男と女の密会場所になってしもうたのです。大人しい加代がこの時だけはえらい反対したんです。『カッコ悪うて、外も歩かれへん。この子が大きゅうなったときどないしはるんですか。やめてやなかったら実家に帰ります』とカンカンですわ。夫婦別れしてまでするもんでなし、渋々、ぜひと言う人があって売ったんですわ。その人今、ホテル王とか言われて、大阪で何軒もラブホテル持ってますねん。わては映画館主で青息吐息ですわ。笑える話でっしゃろ》
健吾は小さい体で、温和な目をしていて、どこにそんな行動力があるのかと思わせるが、才覚という賢さを持っている人だと雨宮は思った。そして、笑っていいのか、どうか迷ったが、笑って「それは惜しいことをしましたね。でも、それやったらハシケンは跡を継がなんだと思いますよ」と言った。
「そうですねん。彼奴が学生時代、2階をピンク映画*に変えましたんや。なんせどこも大入りです。彼奴が『映画館の堕落や』と言いよりまして、『経営も分からんのに、偉そうな口聞くな』と喧嘩してしてもうて、彼奴が跡継がんゆうて、アパレルに3年程勤めたんはそんなことがあったんですわ。それ以来、あれは私を嫌っているようです。今は一生懸命頑張ってくれてますので、そろそろ代譲りしょうかと思ってます。ただ、映画業界もこの先どうなるのか…心配したりますわ。わたしはええ時代も経験しましたから悔いがありませんけど…」。
その時の社長健吾さんの寂しそうな顔を雨宮は覚えている。ハシケンはアパレル時代に由美子と知り合い、結婚するために跡を継ぐことを了承したが、結局、シネマを愛しているのだと雨宮は思った。
この話をもとに、『ホテル王になり損なった男』というタイトルで、雨宮は小品を書いて、これは雑誌に取り上げられた。
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結婚の経緯としてハシケンはこんな話を雨宮にした。
同じ会社で、テキパキと商品企画をこなす由美子をハシケンはいいなぁーと思った。由美子はハシケンより一つ上である。短大卒で入社しているからハシケンより3年の先輩になる。
映画に誘った。由美子は同僚として、「断るのも…」と思って渋々それに付き合った。都心のロードショーかと思いきや、ローカル電車に乗って下町の映画館である。由美子は「あかんわ」とすぐ断ろうと思った。
「ここ僕の家がやってます」とハシケンが云うと、「何坪あるの?」と由美子が訊き、坪数を答えるとそれで話は決まったと。
ハシケン一流のジョークであろうが、しっかりものの由美子を見ていると、あながちジョークでもないと雨宮には思えた。その証拠に、由美子は結婚しても映画館を一切手伝うことなく、商店街に向かった一角を婦人服の店にした。なにせ、商店街で一番広い敷地を持つのはシネマである。敷地にはことかかない。
ハシケンの母、加代さんは色白の丸顔で、雨宮は自分の母親と違う育ちの良さを感じていた。みながタダ見と知っていても愛想よく、なけなしの小遣いで買う彼らに、飴玉をおまけしてくれたのである。その加代さんも62歳で亡くなり、後を追うように、1年後に社長健吾さんも68歳で亡くなった。ハシケンは立て続けに両親を亡くした。
ハシケンは母親の葬儀には身も世もないような泣き方をしたが、父親の時は涙を流さず、喪主をつとめた。諍いがあったにしろ、悲しい筈はなかろう。後をやっていかねばならない責任感がそうさせていると雨宮は思った。ハシケンだけでなく雨宮も、そしてみなも寂しさを禁じ得なかった。
懐かしい少年時代の思い出がつまったシネマ、雨宮にとっては成人になってからもお世話になったシネマ、何とか一肌脱ぎたいと思ったのである。
「ハシケン、みなで映画を作ろう。題は『俺らのシネマ』や、この映画館を自分らが作った映画でいっぱいにするんや」。
ハシケンは「お前、気でも違ったんか」という顔をして、「どないして作るんや」と尋ねた。
「俺にいい考えがある。任しておいて、とりあえずみな集めよう」と云って、集まったのが例の上映選考委員会のメンバーである。ともかく、ハシケンには元気になって貰いたかった。
みなからは色々と反対や疑問が呈されると思ったが、雨宮の説明に「おもろい、いっちょやろ」と簡単に決まった。みなも雨宮と思いは一緒だったのだ。それと何より、自分たちの思い出を作りたかったのである。
この歳になるまでの長い間の友情の記念を作ってもいいと思ったのである。ただ一人、当の本人、ハシケンだけが「ホンマに出来るんかいなぁ?」とキョトンとした顔をしていた。みなが48歳の時である。天皇の病状が伝えられ昭和は終わろうとしていた。
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平成に入って映画制作の準備がスタートした。雨宮が考えた映画は映画館主の置かれた苦境、そして映画好きな仲間たちがそれを応援するという、そのまんまのストーリーで、それをドキュメンタリータッチで描こうというものであった。
勝算はあった。ヒントになったのが、イタリア映画の『ニューシネマパラダイス』である。昭和63年に公開されたこの映画は、監督ジュゼッペ・トルナトーレの作品で、イタリア映画の久々の復活を印象付けた話題作であった。
ローマで映画監督になった中年男性(監督の分身)が、親しかった村の映写技師アルフレードの死を知らされて、映画に魅せられた少年時代、恋を知る青年時代、を回想する物語である。
村にあるたった一つの娯楽施設は、広場にある教会を兼用した小さな映画館だった。そこで映画好きの少年トトと映写技師アルフレードの友情が始まる。彼との交流を通じて少年は大人に成長していくのである。成長のためには、島を、村を出ることを勧めるアルフレードの言葉*(末尾に注釈あり)が感動的である。
映画館で旧式の映写機が回り出すと、アメリカ映画に出てくる信じがたい豊かさや、保守的な村ではありえないロマンティックな男女関係など、村人たちが目を丸くして見るような外の世界が写しだされる。新作の輸入映画のかかる夜、村人たちはみな映画館に集まり、スクリーンに声援を送り、また教会の謹厳な司祭が削除させようとするラブシーンのある箇所では、揃ってブーイングを鳴らす。この小さな映画館で見せる村人たちが素晴らしい表情を見せる。監督トルナトーレは、実際の村人たちを観客役のエキストラとして使ったのである。
脚本もトルナトーレが手掛けた。シチリア島で育った彼が自らの体験を基に周囲の人々の記憶を紡ぎながら描いた脚本が、この映画を手作り感のある味わい深いものにしている。また、エンニオ・モリコーネの音楽が素晴らしく、作品に色を添えている。
村の小さな映画館は田辺シネマであり、村はみなが育った田辺の町であり、商店街である。実際、商店街の人々がエキストラとして協力してくれたのである。勿論、団玲子のオッパイ場面も入る。この役は、彼らの母校の生徒達が担ってくれた。主だった俳優は瑛子の劇団が担ってくれ、劇団の中には映画出演経験の俳優もあって、小道具、音声等の裏方の手配も彼らがしてくれた。
木本さんはシネマの映写技師役と、実際のカメラを担当して貰った。「私は映す方のカメラマンで、撮る方のカメラマンではありません」と最初は断っていた木本さんであったが、やはり映像に携わる者の心が動いたのであろう。「会社の為ですからやってみます」と承諾し、フィルムの編集には自信があると言ってくれたのである。
戦前、戦後のニュースからの映像や、実際の映画の映像もふんだんに使い、ナレーションは藤川鈴子にした。ナレーションの文案も任せたが、『温泉事件』の件は必ず入れるように、雨宮は言いおいた。彼女の文学的センスと声は素晴らしく、これは大成功であった。
東住吉区内は戦災にもあわず、昭和30年代のレトロな所が多く、撮影場所には困らなかった。また、平野線や当時の街を移した映像を木本さんがどこからか入手してくれ、上手に編集してくれたのである。それと、雨宮が遊び半分で、上映委員会のみなの様子を撮っていた8ミリもシーンの一コマとして挿入した。
瑛子はハシケンの妻、高橋由美子を演じた。瑛子は、最初はその役を渋った。知らぬ人ならまだしも、よく知っている人を演じるのは難しいことを理由に挙げが、「難しいけどやってみる」になった。ところが、瑛子が雨宮の脚本を読んで、ちょっと考えさせてになった。結果は雨宮の説得に瑛子は応じた。彼女の役者根性がイエスと言わせたのだろう。
当の高橋由美子は、この映画製作に反対した。
「皆さんが主人を応援して下さるのは大変有難いのですが、私は映画館の継続には反対しています。私が婦人服店をやっているから何とかやって行けてますが、先行きは心配しています。借金がかさんで土地も取り上げられるようにならん内にやめてと主人には言っています」と、制作責任の雨宮にきっぱりと言ったのである。他にも、脚本の内容に問題があるのだろうと雨宮は思った。
由美子に頭が上がらないハシケンであったが、こと映画に関しては頑固であった。ハシケンは由美子の反対を押し切った。
こうして雨宮が考えた映画はスタートした。あとは資金面だけとなった。完成までにはみなの仕事の合間を調整してであったから1年を要した。撮影のあとは反省会と称して必ず飲み会になり、飲み会はさしずめシネマで見た映画の感想会となった。
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みなで、自分の昭和の一押しの映画を語ることがあった。
ハシケンの一押しの映画は小栗康平監督*、宮本輝*原作の『泥の河』であった。
宮本輝の第1作品で、これで太宰治賞を取って文壇デビューを果たした。小栗康平も映画監督第1作品にこれを選び、日本アカデミー賞最優秀賞、監督賞に輝いた。雨宮が『泥の河』を読んだとき、俺が映画監督やったら絶対これを映画に撮ると思ったものである。ちなみに、この年の主演男優賞はこの映画に出た田村高廣で、船で客を取る母親役をやった加賀まりこは助演女優賞を取っている。これだけでも、原作、映画ともにいい作品であったことが伺える。
めったに女優を褒めないハシケンが、「加賀まりこがむちゃくちゃ綺麗なんや。この一作だけで女優やめてもええぐらいや」と、えらいほれ込みようであった。
ハシケンの熱の入った名解説が始まった。
《大阪の安治川河口を舞台に、河淵の食堂に住む少年と、対岸に繋がれた廓舟の姉弟との出会いと別れを描いた作品や。時は昭和31年、場面は食堂に毎日立ち寄っていた荷車引きのオッチャン(芦屋雁之助)が橋を渡る。そのとき向こうから来たトラックに驚いて馬が暴れる。オッチャンは荷車の下敷きになって死んでしまうところから始まる。大阪でもまだ荷馬車があって、トラックに変わっていく時代をこのシーンで表してるんや。よく朝、食堂の息子、信雄は置き去りにされた荷車から鉄屑を盗もうとしていた少年喜一に出会う。喜一は、対岸にやってきた船に住んでおり、銀子という優しい姉がいる。父、晋平(田村高廣)は信雄にあの舟に行ってはいけないと言うんやが、しかし、父母は姉弟を不憫に思って夕食に呼んで、暖かくもてなす。楽しみにしていた天神祭りが来て、小遣いを貰って、喜一と一緒に祭りに出た信雄は、人込みでそれを落としてしまう。しょげた信雄を楽しませようと喜一は強引に船の家に誘う。喜一はランプの油に蟹をつけ、火をつけ蟹が逃げる様子で信雄を楽しませようとする。蟹は舟べりを逃げた。蟹を追った信雄は隣の部屋の窓から喜一の母の姿を見てしまうんや。男と女の姿を。見られた母親は、次の日船を出す。自分の子供に暖かく接してくれた家族にせめても出来ることなんや。喜一と姉を乗せた舟は岸を離れる。「きっちゃーん!」と呼びながら追い続ける信雄は、悲しみの感情をはじめて自分の人生に結びつけるんや。子役に対する演出が素晴しく、切のうてな。これを、小栗は白黒で撮っている。子供らを見守る周辺の大人たちの生活の中に微かに戦争の匂いを忍ばせて、反戦をさり気なく語り、田村高廣がこの辺を上手く演じてる。親父もこの映画を見て『これやから、映画館はやめられへん』と泣いとった》
雨宮は少年、信夫とハシケンが何故か重なって思えたのである。長い交友関係であったが、いちばん、それを大事に考えていたのはハシケンではなかったかと、雨宮は振り返って思うのだった。
「そんなええ映画かいな。見たかったなぁー」と、皆は声を上げ、何かの折に観ようということになった。
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五郎が挙げたのが、黒澤監督の『天国と地獄』であった。
誘拐身代金事件ものである。犯人の山崎努は貧しい環境に暮らすインターンで、自室の窓から、丘の上の豪邸が見える。裕福な暮らしをしている会社重役の権藤(三船敏郎)に対し、一方的に憎しみを募らせる。丘の上の豪邸がさしずめ天国で、下から見上げる安アパートが地獄というところか。
普通の誘拐ものと違ったのは、拐った子供が一緒に遊んでいた権藤の会社の運転手の子という設定になっていることだ。間違いだったと分れば、返されるやろうと思っていたら、犯人は3千万円要求して来る。権藤には払う義務はない。でも殺されでもしたら道義的な責任は残る。な権藤には払えない事情があった。自社株を買い占めて経営権を握ろうとしていて、明日までに5千万円送金しないといけない事情があった。その間で悩み、気持ちは揺れ動く。
誘拐ものといえば、現金の受け渡し方法であるが、犯人が指定したのが『特急こだま』であり、車内に電話がかかり、犯人から『酒匂川の鉄橋が過ぎたところで、身代金が入ったカバンを窓から投げ落とせ』という想定外の受渡し方法を指示される。犯人は『7センチ以下の厚みのカバン』と指定してきていたが、それは『こだま』の車中で唯一、洗面所の窓が7センチ開くからという凝った設定になっていた。
この映画を観た乗務員が試したところ、実際に7センチであったと話題になった。
権藤は指示に従い、その後子供は無事に解放されたものの、警察は完全に裏をかれ、身代金を奪われて犯人にも逃げられてしまう。ただ、そのカバンには焼却処分したときに黄色い煙が立つように仕掛けてあった。犯人はアパートの焼却場でカバンを燃やす。権藤の家に詰めていた捜査陣の前に、下からその黄色い煙が舞い上がる。白黒映画であったが、この煙の場面だけがカラーで写し出されたのが印象的であった。
次に長山が黒沢ばっかりで悪いがと断って、『生きる』を挙げた。「知っての通り余命いくばくとなった市役所の役人の主人公が、最後の仕事と関わった児童公園のブランコで『命短し恋せよ乙女…』とゴンドラの歌を歌いながら死んでいく。僕の親父も市役所の役人やったからよけいなんや。志村喬が渋い演技を見せている」
伊助が挙げようとすると、鈴子が「待った、当てるわ。黒沢監督の『7人の侍』か『用心棒』やろう」と言うと、伊助からは思わぬ名前が挙がった。
「えらいショックを受けた映画があるねん。今村昌平監督の『日本昆虫記』や。終わった後も1時間ぐらい頭がド~ンとしてた」
「それ、成人指定やなかった。いつ見た?」と瑛子が聞くと、
「阿倍野のアポロで、高校1年のとき、左幸子が立ちションしながら、目の前のたんぽぽの綿毛をフーと吹き飛ばす最後のシーン、なんだか女の生命力と言うか、強さを象徴していて、無茶苦茶ショックやった」と語った。
「その晩、寝れたか」と五郎が訊くと、「寝れなんだ。あくる日も頭がボーとしとった。授業中も女の先生が左幸子にダブって困ってもうた」と、伊助は皆を笑わした。
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雨宮は「黒沢が2人か、やっぱりすごい監督なんやなぁ」と思った。そして自分の一押しとして、ネオレアリズモ、リアリズムの方法で現実を描写するイタリア映画の『自転車泥棒』を挙げた。
《アメリカの映画見ててようわからんことがあったんや。黒人の親子が中古やけど自動車で帰ってくる、でっかい電気冷蔵庫を開けて、大きな牛乳の入ったボトルを出してきて飲む。家かて古いけど部屋数もあって広い。そして「うちは貧乏や」と言う。どこがや?俺の家には車もなければ、冷蔵庫は木に銅板貼ったやつや。部屋も3畳と6畳の二間。この辺が違うとさっぱり映画はわからんことになる。この映画では、やっと仕事が見つかったら通う自転車を盗まれる。父親の仕事が見つかって喜んでいた子供が父親と一緒に自転車を探す。敗戦後のイタリアの貧しさが風景の中に映し出されて、当時の日本と重なる。こっちの方がなんぼかしっとりと来る。今時の自転車を放置する輩を見ると、頬っぺた叩いたろかと思う。昔はイタリア映画やフランス映画に味のあるのがあったけど、金をかけたハリウッド映画が幅をきかすようになって、面白ろうない。カネをかけたらええとは限らんわ》と自説を主張した。
瑛子が挙げたのは『エデンの東』
「ごめんな、そのアメリカ映画を挙げて。厳格な父親との葛藤。その父親に認めて貰いたいジェームス・ディーンの気持ちがよく出た映画よ。それより何より、ジェームス・ディーンがええわ。好き。ここの社長さんにポスターもうて、毎日キッスしてたら、そこだけ禿げてもうた」と、みなを笑わせた。
鈴子は、「私もアメリカ映画で『風とともに去りぬ』。マーガレット・ミッチェルの小説で読んで感動していたせいもあるけど、ヒロインのスカーレット・オハラがいい。やっぱり映画は俳優やね。ヒロインの生き方が好き。特に着ていく服がないとき、ベルベットのカーテンを引きちぎって身に纏うとこが痺れるの。過去にメソメソしないで立ち向かって行くとこがね」
「まるで、鈴ちゃんそのものやね」と、瑛子が相槌を打つ。
鈴子は離婚を経験している。女の子が一人いる。結婚相手は名前を出せば関西なら誰もが知っている食品会社の2代目であった。青年実業家と女性弁護士の結婚と少し話題にもなった。その食品会社が食品事故を起こした。初期の対応がずさんで、死亡者こそ出さなかったが、重傷の中毒患者を多数出した。
その被害者団体の弁護を鈴子が所属する弁護士事務所が担った。鈴子はその先頭に立ち、会社のずさんな管理体制を暴き、厳しく責任を追及した。離婚した相手とはいえ、子供の父親である。鈴子の心中はいかばかりであったろうか。会社は多額の補償責任を負い敗訴。結局、会社は競合大手の傘下に吸収され、旧経営陣は全て責任を取らされた。
トリは豊である。
「僕は『俺たちに明日はない』やな。大恐慌時代の実在の銀行強盗であるボニーとクライドの、出会いと死に至るまでを描いた犯罪映画で、アメリカン・ニューシネマの先駆的存在として有名なんやけど。ともかく題名がええ。原題は『ボニーとクライド』実話やから向こうでは知ってる名前やろうけど、日本では何や?になる。こんな題で誰が見に行く。日本で考えるとこれが『俺たちに明日はない』になる。見に行きたくなるやろぅー。観に行きたい映画は題名で決まる。今度の映画ええ題名考えんとな、雨ちゃん頼むぜ」
学校からみんなで見に行った映画の話が出た。木下恵介監督の『二十四の瞳』に皆泣いたこと。デズニーの『白雪姫』を見て、戦前にカラーでこんなアニメが作られていたと知って驚いた話。
他に、作品としては昭和41年の『男と女』、43年の『卒業』の名前も出た。みなの青春時代の映画である。俳優としては、ヘップパーン、『第3の男』のオーソン・ウェルズ。女性陣からはアランドロンの名前が出た。
ちなみに、カメラを担当した木本さんは、「みなさんは、名監督や俳優の映画をあげてらっしゃるが、松本清張原作『砂の器』をあげたいね、撮影の川又昻*が素晴らしかった。映画は総合芸術じゃけ、裏方さんも忘れんで欲しい」と、制作する映画での私の役割も忘れないでとアピールした。
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資金計画担当者はハシケンと鈴子が担った。でも実質は鈴子が取り仕切った。
制作費を1千万円、プラス予備3百万円とした。申し合わせ事項は、各人負担は最初の切符引受の10万円負担のみ。前売り券販売と借入で調達し、利益を出す事業と位置づけた。
「鈴ちゃんの銀行との交渉はさすがやったね。ウチの土地では、追加担保がない限りこれ以上貸せませんという銀行を説得したんやから」とハシケンが言った。
「銀行員はそれが儲かるとなると貸します。そら、裁判官相手の方がどんなけ難しいか…。きちんと予想損益を出して利益が出ることを証明したらええだけ。『一館で客呼んでもたいしたことありまへんやろ、全国に配給出来ませんのか?』と銀行の人が言ったでしょ。それが良かったのね。配給せんとあかん。それで全国の映画館主に趣意書を書いて出したのね。みんな苦労の思いは一緒やと思ったの。完成したら上映して欲しいと書いてね。意外と反響があってね。中には僅かですがと、カンパが入っていたりして、びっくりした」と鈴子。
「反響があった映画館の手紙を見せて、これが担保ですには驚いたわ」と、一応資金担当者でもあったハシケンが云った。
「鈴ちゃんが、『配給してくれる映画館はこれだけあります。配給を教えてくれたのはお宅です。流石、一流の銀行は違うと思いました。一流は言った言葉に責任を持って下さい!』と言ったら、銀行は黙ってしまった。あの時はスーとしたわ。弁護士先生の押しとバッチはすごいと思たよ」
「使えるものは何でも使わんとね。ハシケン、あんたの交渉はあかん。経営者失格や。あんな弱腰でどうする。借りてやるぐらいの態度やないと。でも、お陰で利益が出る計算書が出来たわけ」と、鈴子は少し鼻高であった。
「僕かて協力したんやで。あそこの支店長に協力してくれなんだら、預金をよそに移すゆうたんや」と豊。
「そら、歯医者さんは金持ちやからな」と瑛子。
「それだけやのうて、金持ちの患者さんにあの銀行はケチやと言いふらすと言えと鈴子は言うねん」
「言ったら、支店長どない答えよった」と瑛子。
「支店長笑って、シネマさんはええ友達持ちはったなぁーやて」と豊。
「そこにまだ援軍や、商店街の会長と会計係の登場。支店長これには参ったと言わんばかりに、『そない、いじめんとって下さい』と協力約束してくれた」とは、商店街会計係伊助の話。商店主たちの預金量は無視できなかったし、何より店頭で悪口を言われることが耐えられなかったのである。これも鈴子の入れ知恵であった。
「悪いやっちゃななぁー。人を脅す弁護士か」と長山が言うと、
「弁護士って正義の味方みたいに思われてるけど、ヤクザな商売よ。私なんて可愛い方」と舌を出した。
「皆のおかげや。感謝や」とハシケン。
「せやな、タダでいっぱい映画見せてもうたお礼や」と一同。
かくて、映画は完成したと言いたいところだが、ひと悶着が起きた。例の雨宮の脚本である。
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その問題の個所とは、ハシケンの妻、由美子が不倫をする個所である。瑛子が役を渋った個所でもあり、由美子が映画作りに反対した理由の一つでもあった。
ハシケンがとんでもないことを言いだしたのだ。
「雨ちゃん、実はな、由美子が不倫しょってん。映画館をめぐってうまいこといってないんや。特に両親が死んでからはあいつ遠慮がのうなってな」
「思い過ごしと違うか。仮にそうでも映画制作とは関係ないやろ」と聞かされた雨宮は驚き困惑し、そう言うしかなかった。
「思い過ごしも何も、冗談でこんなこと言えるか。ええ映画作りたいんや。映画館主の悩み、苦労を通して、映画の素晴らしさを謳うんやろう。ドキュメンタリー風といえば、リアリズムやろ。嘘が入っとってはアカンのん違うんかなぁー」とハシケンはポツリと言った。
「奥さん了承か」
「アホか、そんなん言えるか」
「でも、後でどないなるか考えたことあるんか」
「そらある。でもな、俺らが作る一生に1本の映画やろ。ええ映画をお客さんに観て貰いたいんや。今のままやったら、あんまり綺麗ごと過ぎる。お前も作家やろ」。
雨宮はハシケンのこの映画に懸ける思いに、首を縦に振ったのである。
それを瑛子に言うと、「雨ちゃん、アホ違うか、夫婦別れ起こさせて作る値打ちがある映画か。みんなの記念になる映画がそんなんやったら私辞めさせて貰うわ」と、ごてたのである。雨宮はみなに図った。誰も喋らない沈黙の会議であった。半時間も経った頃、長山がこう切り出した。クラスでも問題が起きて膠着状態になったときは、長山の一言が解決してくれることが多かった。みなは長山から出る言葉を待った。
「この映画の趣旨はいろいろあるけど、ハシケンを応援することが一番や。そして制作の責任者は雨宮や。二人の決定に任せ、僕らは応援するだけや。僕はハシケンと由美子さんを信じてる」ときっぱりと言い切った。
それで、瑛子も納得し、「いい映画を作る」に決定したのであった。カメラマンの木本さんは脚本を読んで、「ホンマでっか。これ撮るんですかぁ」と驚いた。雨宮はこのことによって、この映画は深みを増したと思っている。
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かくて、かくて映画は完成したのである。これがテレビの本当のドキュメンタリー番組で『苦悩する映画館主』という題で取り上げてくれたのである。こうして前評判は上々であった。田辺シネマでのオープニングセレモニーにはハシケンは出来るだけ楽しんで貰いたいと『泥の河』との二本立てを主張した。みな賛成!
『俺らのシネマ』の題名にクレームを出したのは伊助であった。
「豊が云ってたやろ、題が大事やと。たしかに俺らのシネマやけど、お客さんはそうではない、主役はやっぱり『田辺シネマ』や」。それに物語をつけて『田辺シネマ物語』に決定した。物語とはなんともないように思われるが、雨宮が調べると、映画の題に物語が使われたのは新藤兼人の『愛妻物語』と小津安次郎の『東京物語』の2本しかなく、いずれも大ヒットしたのである。『物語』が新鮮に感じられたのである。
雨宮は新人賞を取った時、宮本輝と雑誌上で対談したことがあった。映画製作の趣旨とセレモニーを説明した招待状を送った。当日、出て一言挨拶を貰えることになった。ハシケンへの雨宮の贈り物であった。
銀行の支店長、長山の学校の学生たち、エキストラで協力してくれた商店街の人々、瑛子の劇団の面々で立錐の余地もなかった。そしてどこかの新聞社の記者とカメラマンも来ていた。ドレスアップした由美子も店の顧客たちとともに会場に来て、華やかさを添えていた。壇上には田辺シネマ館主高橋健一、制作責任者雨宮良和、来賓には作家宮本輝が並んだ。司会は藤川鈴子がつとめた。
由美子がスーツ姿の夫を見るのはアパレル時代以来である。その頃を思い出してなんだか夫が若く見え、少し胸がワクワクした。挨拶するときにドジらないでと手を合わせた。出来上がって夫の晴れ舞台を見ると、映画製作に反対したことを少し後悔した。
「父、高橋健吾がこの田辺シネマをオープンさせたのは、昭和28年です。以来、地域の皆様に愛されて35年続けてこれました。最近の映画事情は決してよくありません。『頑張れ!』と昔の仲間が素敵な贈り物をしてくれました。いい映画を提供するために今後も頑張っていく所存です」と、他のメンバーを壇上に上げた。
そしてあの、団令子のおっぱいの話を初めた。会場は沸きに沸いた。
「ここの二人の女性は自分ので足りますので、誘いませんでした」と笑わせ、
「まー、あの頃はそれほど見るのに苦労したわけです。あの年の昭和33年が映画観客動員数は11億人でピークでした。今は2億人を切っています。東住吉で残っている映画館は当館だけになりました。今の映画は乳房を出すのはおけんたいです。乳房が隠されている時代は入場者が多く、見せれば見せるほど客数が減って行きます。この比例函数をどう理解したらいいんでしょうか。どっかの学者先生に解明してもらいたいと思っているほどです。『アホな話をして…』と会場に来ている妻に笑われていますので、この話はここまでにします」。聴衆は会場の由美子の方を見遣った。
「併映します『泥の河』は大阪が舞台で、僕の一番好きな映画です。そして父の好きな映画でもありました。父はここに出ている田村高廣が大好きな人でした。僕は監督をしている小栗康平は天才だと思っています。その彼が第一作に『泥の河』を持ってきました。その原作者の宮本輝さんに本日は来ていただき、感動に震えています」と挨拶を締めくくった。
藤川鈴子に紹介された宮本輝は、パニック障害を起こし、小説家になるしかなった経緯を面白く語り、最初の作品『泥の河』が太宰治賞を貰い、芥川賞を貰った次回作『蛍川』が、実際はついた先生の評価が低くオクラにした作品だったことを紹介し、「人生は皮肉な幸運を含んでおり、必死のパッチで何とかなるもんです。この映画が幸運をもたらすことを願っています」と挨拶を終えた。
最後に雨宮は手短に制作の意図を語り、関係者への感謝を述べて挨拶とした。
映画が始まり、由美子の件に触れたところで、由美子は席を立った。雨宮は仕方がないと目を映画からそらさなかった。
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映画製作後のその後であるが、ハシケンは家を出た。家を出たといっても、映画館の事務所を住めるように改造して住み着いた。シネマは、一時は持ち直したが、大きな流れを変えることは出来ず、1階をパチンコ屋に貸したが、2階を名画座として、ハシケンの映画に対する情熱は薄れなかった。
ただ、酒が過ぎ、肝臓を壊し、命を縮めた。由美子とは娘の結婚を機に五郎の取りなしで籍だけは戻した。娘は駒川商店街の仏壇屋に嫁いだので、父親の洗濯や食事の面倒は娘が見るようになった。これは由美子の言いつけであった。由美子は娘と、息子を結婚させ、沿線にもう1軒店を出した。
五郎のとりなしのことであるが、五郎はハシケンに大きな借りがあった。五郎の浮気がばれて、奥さんと別れ話になったのを、必死になって止めたのがハシケンであった。五郎が雨宮に話した話である。
五郎の浮気相手が悪かった。店の若い従業員であった。五郎曰くは、手をつけたのではない、娘の方からサインが出たというのだ。ハシケンは大して変わらんと怒ったという。
「店のため、必死になって働いてきて、そのお返しがこれですか」と、奥さんは完全に頭に来てしまって、五郎がいくら謝っても「別れる」の一点張りで、困り果てて、ハシケンに相談したのである。ハシケンは一緒に謝ったると云い、奥さんにこう言って、両手をついたのである。
「僕は、一生浮気は絶対にしません。誓います」
「健一さんに誓ってもうても…問題はウチの主人ですよ」
「そうです。僕がせんのやから、五郎がすることは出来んのです。僕に、相談持ちかけておいて、約束破るようやったら、友達の縁を切ります。いや、そんな男は生きてる値打がないから、僕が殺します」
そんなや変なやりとりがあって、ハシケンの必死が通じたのであろう。なんとか奥さんのお許しが出たと云うのである。
「あんた、女を裏切った上に、さらに友達を裏切るようなことはしはれんやろうね。もしそんなことがあったら、わたしが死にます」と念を押されて、五郎は「俺はハシケンに殺され、嫁さんには死なれるんや」と、もー、こりごりやと、雨宮に語ったのである。懲りた五郎は、商売一筋に励み、精肉店の家業を活かして焼肉チェーンを5店持つオーナーになったのである。
雨宮はその映画製作がきっしょうになって、腐れ縁を断ち切っての再出発を決意した。丁度、その映画を評価した東京の大手書店の映画部から話があった。映画を2、3本撮ったが、やはり柄ではないと小説に戻り、年に2、3冊コンスタントに本を出している。同棲洋子とは結婚して、子供も一人出来た。
漬物屋の伊助は渡辺を助け商店街の会計を続け、郊外に息子のために支店を出した。
歯科医のチョイ役で出演した和田豊は、そのマスク姿が素敵と女性客が増えた。「俺はマスクしてんと、ええ男やないんか」とむくれたという。
長山智史は翌年から又、厳格な教授に戻り、学生たちから煙たがられた。
藤川鈴子は映画後、刑事から民事に切り替え、テレビに辛口コメンテーターとして出るようになり、独立して梅田の一等場所に事務所を構えた。
原田瑛子は、その演技力が認められ、映画やテレビにも顔を出すようになり、娘の婿をいびるドラマで姑役を演じ人気を博した。
通夜の席では映画制作の苦労話や、思い出が語られ、尽きることがないようであった。席を変えて飲み直そうとなった。その時、由美子が現れ、「雨宮さん、ちょっといいですか」と隣室に招いた。
「雨宮さんには本当に親しくしていただいて、お礼の言いようもありませんわ。その雨宮さんにあの映画のことで大変失礼なことを言いましたね。主人がこうして亡くなってみて、あの映画があってどんなに良かったか改めて思いました。残すならいいものをという主人の気持ちも今ならよくわかります。なんと心の狭いことだったのでしょう。その時の失礼を許してください。そして皆様にお礼を申し上げて下さい」と、座敷に手をついたのであった。頭を上げたその顔には一筋の光るものがあった。雨宮は明日の葬儀の時間を確認して辞した。
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次の、場所では皆、けっこう酒もまわり、映画の話よりは誰と誰が好きだったとか、学生時代の思いで話に花が咲いた。
「大人しそうにして、時々悪いことするのが豊や。小学校のとき給食の食器をプールの水で洗った事件があった。アルマイトの食器を網籠に入れて運んで、洗い場で粗洗いして給食場に戻すのやけど、籠ごとプールにつけてジャブジャブとやたの。それを保健の女先生が見ていて、駆け寄っていきなりビンタ」と鈴子が言うと、
「そら、ビンタ喰うわ。お前とこの医院、衛生観念大丈夫やろうなぁー」と五郎が言う。
「それに懲りて、徹底しております」と豊が答えた。
「ハシケンはそっけないとこがあったけど、優しかった」と瑛子、「せやなぁー、ちょっと掴みどころがなかったなぁ」と伊助。「人一倍友達思いやったのも彼奴やった…責任感も強かったし」と五郎。
「気のあかんとこもあって、甘えたで…由美子さんに甘えてたよね」と鈴子が雨宮の方を見た。
「それは言えてる。死んだらええように言われるから、俺も早よ死のう」と雨宮。「お前が死んでもええように言う奴はこの中にはおらんよ」と伊助。
雨宮がハシケンを好きなのはそんな性格もあったが、話すとき人の目をじっと見る。そして話し出すとき、目をそらし、ふと遠くを見る。そんなちょっとした仕草が好きだった。
「瑛子を好きやったのは、雨ちゃんとハシケンやった。瑛子知ってたか?」と伊助が切り出した。
「言ってもらわんもんわからんわ」と瑛子が答えると、
「瑛子を好きやったのは二人だけやなかったわ。じょうさんいたわ。男子学生の半分はそうやったんと違う」と鈴子が言う。
「えらい、オバーに言って貰っておおきに。鈴ちゃんかて、あんなに頭が良くなかったら三分の一ぐらいあったんと違う。あんたの上におれるのは長山君だけやもん」
「せや、鈴ちゃんが瑛子ぐらいの成績やったら、俺、立候補したで」と伊助。
「みな情けないなぁー。頭と違って男の値打ちはもっと下やで」と五郎が言うと、
「そやな、保健室で養護教員の先生に見せたぐらいやからな」と豊。
「お前やろ、変なこと言いふらしたのは、あれはな『いんきん』がひどいと言うと、先生がズボン脱げゆうたんや」と五郎。
「パンツまで脱げゆうたんか」と豊が切り返す。皆拍手。
段々、話は下に降りていくのも気の置けない仲間同士なら仕方がない。
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瑛子が隅の席に雨宮を誘って話し出した。
「由美子さんの役やったやろ。難しいだけでなく、困ってしまったの。やってたら、由美子さんの気持ちがようわかってきて、女同士やろ。由美子さん映画館のせいにしてるけど違うと思う。その時ただ燃えたのよ。雨ちゃん、わかるでしょう。女だって男と同じ、そのときしたいのよ。女の浮気だけどうして重大に考えるの?男は浮気で軽いもの、女は不倫で倫に非ず。男の浮気相手は女性よ、そうでないのも最近あるみたいだけど…」と瑛子は笑って、グラスを飲みほした。
「そしたら今度はハシケンの気持ちもようわかってきて。切のうなってね。切のうなったら、なんだかハシケンに抱かれたくなってね、誘ったの。ハシケンの気持ちは学生時代からわかっていたし。女って自分を好いてくれる人はどこか離したくないのね。そのくせ言い寄られるとつれなくするの。女って残酷な生き物よ。だから私は肝心な人も決められないで、希望じゃなかったけど生涯独身。雨ちゃん、あそこのとこの脚本、よう書けてるわ。さすが作家さんやと思った。ハシケンは映画館が上手く行ってなくて、由美子さんにおんぶに抱っこやったから、いじけちゃってぇ…」
雨宮に酒を注がせて、瑛子は話を続けた。
「ハシケン『うんー』とか唸るから、『やられたらやり返してスッキリしたらええやんか。何時までもウジウジして。由美子さんも可哀想やわ。私ってそんなに魅力ない?』」と言ってやったの。
ハシケンどう言ったと思う。『瑛ちゃん、おおきに、男冥利に尽きるわ。せやけど、俺はやり返すと言うのは、なんや好きやないねん』、ハシケンは由美子さんに未練なの。それ聞いてね、由美子さんに嫉妬した。あの時抱いて欲しかったわ。ハシケンも雨ちゃんもいい格好しいのあかんたれや」と、瑛子は雨宮の胸に顔を寄せて泣きじゃくりだした。
それを見て「ようー!御両人」と伊助が囃したので、瑛子は泣き止んで、「伊助、私を抱く勇気あっか」と、追いかける振りをした。
「俺は気の強い女は、嫁さんでたくさん」と言ったので、皆は笑ってお開きとなった。
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2013年、11月、『2年11組古希の会』が行われ、50名中22名が出席した。幹事の労を取ったのは五郎であった。生きていたら出席したであろう何人かの名前が読み上げられ、その中に高橋健一の名前があった。
そして、今回、最大の話題提供者は原田瑛子で、彼女が昨年結婚したことである。結婚相手は35歳若い、テレビドラマのあのイビられる婿殿であった。皆はイビるべく手ぐすねを引いているが、例によって瑛子から30分遅れると電話が入った。
今日、アトラクションとして映画が上演される。あの団令子の映画の題名が分ったのである。1959年仲代達也初主演の『野獣死すべし』 *である。老いてもなお、腕が確かな木本映写技師がそのフィルムを探し出して、映してくれるのである。団令子で、もし見えなかったら、瑛子が自分のを見せると息巻いている。
*の注釈資料
小栗康平:1981年に『泥の河』で映画監督デビュー。以降、ほぼ10年に1、2本のペースで作品を発表する。作品数こそ極めて少ないものの、その特異な作品世界が高く評価されている。まずはピンク映画の世界に飛び込んだが、ほどなく浦山桐郎の下に弟子入りする。その後、フリーの助監督として、山本迪夫、大林宣彦、篠田正浩らの助監督を務めた。
1990年、島尾敏雄原作の『死の棘』を発表。小説家・敏雄の不倫を知った妻が発狂すると言う私小説を映画化した、非常にショッキングなドラマである。原作者の島尾は、大島渚や篠田正浩らからの同作の映画化の依頼を、頑なに拒否していた。ところが処女作『泥の河』を賞賛し、小栗には映画化を認めた。同年5月の第43回カンヌ国際映画祭では、グランプリと国際映画批評家連盟賞をダブル受賞した。俳優は松坂慶子、岸部一徳。
宮本輝:『泥の河』『蛍川』に『道頓堀川』を入れて、川三部作が代表作とされる。ライフワーク小説に『流転の海』がある。
サラーリマンをしていたが、パニック障害になり、電車で通勤が困難になりだした。ある日、雨宿りで書店に入った。当時評判になっていた作家の本を何気なく読んだ。
「これなら、俺でも書ける」と思った。作家なら電車に乗らなくていいが小説を書くきっかけになった。
ピンク映画:1950-60年代、テレビの普及で職を奪われたニュース映画や教育映画関係者達が糊口を凌ぐためにお色気をテーマにした短編・中篇映画を制作し、これを、同じく衰退しつつあった小規模なニュース映画専門館に供給されていった。
1961年の新東宝倒産が一つの転機とり、新東宝の経営を追われた大蔵貢が大蔵映画を設立。1962年に協立映画製作、大蔵映画配給の『肉体の市場』が公開。「成人指定」「独立プロ製作」「劇映画」という3つの要素を満たした最初の作品として、この『肉体の市場』がピンク映画第一号とされている。大蔵映画と新東宝のピンク映画界の二大会社が成立する。また、一般の劇映画を経験した若松孝二などの監督やスタッフが、次々ピンク映画に参入してきた。特に若松は「若松プロ」を設立し、ピンク映画と言うよりは問題作と言われる作品を発表した。
1980年代前半、早撮り、低予算の手法でたくさん制作され、ピンク映画は最盛期であったが、1980年代後半はアダルトビデオに市場を奪われ衰退、さらにピンク映画に対する映画業界による自主規制などからメジャー系制作会社は次々に撤退。1988年の日活ロマンポルノの撤退も含めて、1990年代には市場が大幅に縮小した。
ピンク映画の出身には若松孝二、崔洋一のような「大家」から黒沢清、周防正行のような「作家主義」の監督までおり、日本映画においてピンク映画は一時期、映画関係者の養成機関的な役割も果たした。
川又昂:松竹大船撮影所で小津安二郎作品の撮影助手を経て、33歳の若さで撮影監督に抜擢される。 以降、同世代の大島渚、野村芳太郎監督らのコンビで98本に及ぶ作品で撮影監督を務める。代表作は、『青春残酷物語』『砂の器』『八つ墓村』『疑惑』。日本アカデミー賞撮影賞を受賞した『事件』『鬼畜』『黒い雨』など多数。
映画『野獣死すべし』:大藪春彦の小説。幾度となく映画化された。初作は1959年、仲代達矢、1974年、藤岡弘が主演。現在では1980年の松田優作の主演作品として認知する人が多い。団玲子は楠見妙子役で出ている。
『ニューシネマパラダイス』アルフレードの言葉:
この場所から出ろ。
ここにいると自分が世界の中心だと感じる。
何もかも不変だと感じる。
だが2、3年も他にいると、何もかもが変わってる。
頼りの糸も切れる。会いたい人もいなくなってしまう。
一度ここを出たら、長い年月帰るな。
年月を経て帰郷すれば、友達や懐かしい土地と再会できる。
今のお前は私より盲目だ。
人生はお前が見てきた映画とは違う。
人生はもっと困難なものだ。
行くんだ。お前は若い。
もうお前と話したくない。
お前の噂が聞きたい。
帰ってくるな。
私たちを忘れろ。
手紙を書くな。
ノスタルジーに惑わされるな。
自分のすることを愛せ。
子供の時、映写室を愛したように。