第陸話 胃液の中からお姉さん
旅の身ってのは、自然と持ち物が洗練されていくもんで。
俺の場合、ぶらぶら無計画に進むもんだから、野宿はよくある事。
つぅ訳で、非常食も兼ねて、火打石は懐に常備してます。勿論、火種にするための乾木の薄皮もね。
右の掌に乾木の薄皮を乗っけまして、口に加えた火打石と左手の火打石をぶつけて着火する。
「ぅおッ……手に乗っけて、熱くねぇのか?」
「ええ、まぁ。俺は【鉄丈郎】なんで」
鉄丈郎の肉体はちょいと力めば鉄に変わる。普通の肉体とは作りが違うんで、耐火性も高いんですよ。
「てつじょうろう……?」
「体を鉄に変えられる種族です」
そう言や、舟漕ぎと客の関係だからと名乗りはしていませんでしたね。
……もう、そんな行きずりの関係では済まない事は確実なので、名乗っておきましょうか。
「俺は鉄丈郎の鉄之助です。どうぞ一丁、よろしくって事で」
「ん、あ、おう。アタシは【亜栗鼠跳人郁】の兎芽だ」
ウメちゃんですか。可愛らしい良い名前だ。うんうん。良き良き。
「……さて、自己紹介も済んだ所で、どうしたもんですかね、この状況」
「………………それな」
俺の掌で煌々と燃え盛る火のおかげで、俺らが乗っている小舟の上はどうにか照らせてますが……辺りは闇の帳。
まぁ、それもそうでしょう。ここは、得体の知れない海化生の体内ですし。陽の光なんぞ臨めるはずが無し。
ああ、ここは口か、喉か、はたまたもう胃袋の中か……やれやれ。
綺麗に丸呑みにされたおかげでウメちゃんも俺も舟も無傷ってのは不幸中の幸いって所で。
……しかし、酷い場所だ事。
視界の悪さは勿論、臭いが一番酷い。
そりゃあまぁ、生き物の体内ですから? 多少は仕方無いでしょうがね? ほんときつい。
舟がぷかぷか浮かんでいる黄色い水面全体から臭ってきやがる……唾液だか胃液だか……まぁ、順当に考えりゃあ胃液ですかね? とりあえずこの海化生の体液である事は間違い無し。
腐肉を布団代わりにしてくるまっている様な気分ですよ、まったく……。
「ひとまず、すぐさま命の危機って話にゃあならなそうなのは、せめてもの好都合。笑っていられる状況じゃあねぇのは百も承知ですが、落ち着いて、しっかりと打開策を考えるとしましょう」
急いては事を仕損じる、なんて有名な言葉もありますし?
焦って片付けた仕事よりも、余裕を以てこなした仕事の方が出来は良いもんだ。
浅慮でもがくだけでは、本来ならば拾える命も取りこぼしちまいます。
窮地でこそ冷静沈着、思慮深くいきましょう。
こいつは自慢ではなく実績ですが、今まで鉄之助さんは大抵の事をそうやって乗り越えてここにいますのよって話で。
「いや、落ち着いてって……水面、これ、見た感じ胃液だよな? 舟が溶けたら……」
「その辺は心配無いでしょう。生き物の胃液ってのは、その食性に適したモンしか消化できねぇもんですし」
「しょくせー?」
「あー……まぁ、わかり易く言いますと……」
――「俺の唾液や胃液は、金属ならばどんな堅牢な逸品だろうと分解して消化できますが、普通の方の食事は豆腐だろうとほぼ消化できずにまんま出しちまう」……ってのは、年頃の女子に聞かせるにゃあ、ちょいと下品な話ですかね。
ここは、
「肉食獣の胃袋ってのは肉を消化する事に特化していて、草や木を消化できないモンなんですよ。それと一緒です」
だから肉食獣は肉だけじゃあ補えない栄養素を得るために、草食獣の内臓――そん中に詰まっている消化済の半糞化した草を好んで食べるんだとか?
まぁ、旅路の中で聞いた受け売りですがね。
とにかく、生き物の胃ってのは、それぞれの生活に適したもんしか消化できねぇ様にできている訳で。
俺達を呑み込んだ生き物、牙の形状からして肉食の者だってのは想像できますし……仮に雑食だったとしても、海の者が木を食べる必要がある生活をしているとは思えませんって話で。海藻類と陸の木じゃあ大分勝手が違うでしょうよ。
「そう言うもんなのか……なら、落ち着いても大丈夫だな」
おうおう、ウメちゃんは腹が据わっとりますな。
普通のお嬢ちゃんなら、今の理屈に理解納得はしたとしても、それでも気分的に怖がりそうなもんだのに……本当に安心したって様子だ。
……おや? そう言えば……、
「と言うか、ウメちゃん、随分とけろりとしていますが、この臭さは平気なんで?」
「臭さ?」
俺に言われて、ようやくウメちゃんは辺りの臭いを意識したらしい。鼻をすんすんと鳴らし始めた。
獣人は人系よりも獣系に近い生理機能を誇るもんで、つまりは鼻が良いのが相場でしょう? 獣人ほどではない嗅覚の俺でもうんざりするこの臭さ、ウメちゃんが平気そうなのは何だって……、
「うーん……まぁ、言われてみると確かに臭ぇな。母ちゃんのへそみてぇな匂いがする」
どうやら、普段から随分と刺激的なもんを嗅いでいるらしい。
ふむ……にしても、だ。こんな美少女な娘さんを産み落とした女性のへその匂い、それに類似する香り……そう考えると、この悪臭への不思議と不快感が薄まった様な?
「時にウメちゃん。御母上は、美女であったり?」
「ん? おう。ド美女だ、ド美女。アタシも父ちゃんも、母ちゃんよりイイ女は見た事が無いぜ!」
成程、そんな御仁のへそが臭い訳が無い。
つまりそれに類似するこの臭い……否、匂いも、当然に同然。
よし、最早へっちゃら。匂いは何も気になりません。
我ながら、便利な鼻を持ったもんだ……って、ん?
「? どうしたんだよ、急にきょろきょろして」
「……金属の匂いがしますね」
「はぁ?」
悪臭が気にならなくなったおかげで、嗅覚に余裕が出て来た途端……間違い無い、金属の匂いだ。しかも二方向。距離があるらしく、種類までは特定できませんが。
「金属? ………………んな匂い、しねぇけど」
「まぁ、金属だの土くれだのの匂いに関しちゃあ、鉄丈郎の鼻は逸品ですからね」
そっち方面に限定すりゃあ、俺の嗅覚は獣人にだって負けませんよ。
「ふぅん……でもよ? 金属の匂いがするからどうだってんだ? どうせアタシらと似た境遇のもんってだけだろ?」
ええ、まぁ、妥当に考えりゃあ、俺らと同様に呑まれちまった船の外装か積荷、または金属系の漂流物って所でしょう。
……ただ、それにしたって妙な点がありましてね?
――二方向から感じる金属の匂い。その内のひとつは――【下】だ。
海化生の胃液の水面、その下から、胃液の匂いに混じって――こちらに近づいてきているって話。
そして、俺が匂いの正体に推測を立てるよりも早く、そいつは浮上した。
「うぉおう!? 何か出た!? ザパァーって!? ザパァーって!」
「こいつは……」
黄色い胃液の水面を穿って現れたのは……のっぺりとした楕円形の鉄塊。それもかなり大きい。こっちの小舟じゃあ一〇隻並んだって太刀打ちできない大きさだ。
正面にはぺかーっと景気良く輝く二つの大目玉、頭にゃあ、先っぽに透明な硝子板を嵌め込んだ筒が跳ねっ毛みてぇに伸びている。
「て、鉄のオバケか!? オバケなんだな!? どうしよう、塩は持ってねぇ!」
「落ち着いてください、ウメちゃん。こいつは鉄の船ですよ」
鉄の船の中でも帆を持たず、重駆動絡繰車の様に絡繰の機械的動力で進む【機動船】と呼ばれるブツ、その潜水航行型。
それが、こいつの正体でしょう。正面の光る目玉は【爛噴】――南蛮じゃあ一般的だと言う硝子の提灯、頭から生えてんのは外の状況を見るための窓って所で?
実物を見るのは初めてですが、壊染から恵土に渡る時に、船乗りさん達が話題にしているのを聞いた事がありますよ。
船乗りさん達曰く、「船乗りってのは『船が沈みません様に』と必死にあれこれ願を掛けるもんだのに、南蛮や恵土にゃあ、そもそもから沈んで進む船があるらしい」と。
「船ぇ!? このツルッと丸くて何かぎらぎら光っててぴょろっとした筒の付いてる鉄の塊が!?」
「まぁ、奇抜ではありますね」
っと、潜水機動船の上部、外装の一部が内から押し上げられて開いた。
構造上、船内と船外を行き来するための戸は必要だ。おそらくはその戸でしょう。そこが内から開いたって事は……、
「……外れ。残念。……でも、こんな所でお坊さんや小さな女の子に会うだなんて、予想外」
ほう、こりゃあこちらとしても予想外。
どんなたくましい船乗りさんが出てくるものかと思えば……潜水機動船の上から、俺らに向けて降ってきた声は、まるでそよ風に揺れる風鈴の音色が如くって所で。
要するに、耳に好い、落ち着きのある女性の声。
「お、おぉおお……変な船から、変なネーチャンが出て来た……」
変なネーチャン……まぁ、そうですね。潜水機動船の上に立って俺らを見下ろしている御仁は、珍妙と言えば確かに珍妙な風体の女性だ。
まず頭。黒々とした髪は、まるで野郎みてぇな短髪。禍の国の外じゃあ女性が髪を短く切り揃えるってのも珍しくないそうですが……この国で生まれ育った者の常識で考えりゃあ、女性らしい面構えに短い髪ってのは違和感のあるもんで。
服装も、着流しにした黒い着物の上、舶来物らしい派手な意匠の真っ赤な外套を肩から羽織っている。帯に差し込まれているあれは……片手で扱える南蛮式の小型鉄砲ですね。
ふむ。うむ、うんうん。
はい。そうですね。確かに身なりは妙なもんですが、面の端麗さは、町ですれ違ったならば三度は見返したい程。
禍の国じゃあ見慣れない女性の短髪も……鋭いって程じゃあないが少なくとも弱々しくはない堂々とした彼女の目付きにゃあ不思議としっくりきている。
んでもって、着衣の上からでもわかるくらいにゃあ体の肉付きも上等、いや、御前上等だろうと伺える。
これは……本能が訴えていますね。「このお姉さんとは懇ろにならねば」、と。
「どうも、見知らぬお姉さん。俺は鉄之助と申します。旅の者ですが、こんな所にいるのは、まぁ、おそらくお姉さんと同じ理由ですよ」
大方、そちらも潜水航行中にこの海化生に呑まれちまったって所で……、
「へぇ、つまり、敵なんだ。お坊さんの癖にろくでなし」
「えッ……ちょ、ちょいとお待ちを!? 何故に鉄砲をこちらに向けるんで!?」
すごい、お姉さんの表情は眉ひとつ動いちゃあいないってのに、殺気が噴出するのだけはハッキリとわかった。
帯から鉄砲を抜き取ってこちらに向ける動作も、妙に手馴れている。早い上に、動作音がほとんどしなかった。
……このお姉さん……もしや、とんでもなく危ない方なんでは……!?
とりあえず、錫杖を手放して両手をあげて敵意は無い事を主張しつつ、鉄砲とウメちゃんの間に立つ。袈裟の内側、お姉さんに見えない範囲で体を鉄に変えておく。
ウメちゃんも物騒な気配を悟ったんでしょう。俺の腰の辺りに遠慮無くしがみついてきた。
うん、生存本能が敏い子は、守り易くて良いですね。
「だって貴方達、同業者、なんでしょう? なら仕方無い。私、荒事は嫌なのだけれど、死ぬのはもっと嫌だもの。殺される前に殺すのは、海の常套」
「殺……!?」
な、何やら、とんでもない誤解があると見ましたよ……!
「……失礼ですが、お姉さん、何者で?」
「私? ……名前は津波忌」
お姉さんは殺気と銃口を下げる事無く、ひんやりとした冷たさを覚える程に落ち着き払った声で名乗り、そして、
「職業は、一応――【海賊】、かな」




