あなたは、どうですか。
これは私の自己満足によって書かれた小説です。完全な、私自身の実話です。嘘だと思うでしょう、話を盛っていると思うでしょう。けれど、これが私の真実なのです。疑ってくれてもかまいません。ただ、それでも読んでほしいと、私は思います。たった二十年、されど二十年。私はこうして生きてきました。あなたはどうですか。
はじめに。
この小説を読んでいるあなたへ。これは私の、ただの自己満足として書いているものだ。たった二十年と少しを生きただけの私では、書けることに限りがあるだろう。そしてその人生に、どれだけの価値があるだろう。私の人生は、一人目の人にとっては壮絶だろう。また、二人目の人にとっては拍子抜けするようなものだろう。これを読んでいるあなたに、こんな人生を送っている者もいるのだと、心の片隅でもいい、置いておいてほしい。同情してほしいわけではないのだ。ただ知っていてほしいという、私の自己満足なのだ。そして、どうかと願う。少しでも同じ境遇の者がいるのなら、これを読んで少しでも励みになれば、と願う。そうでない者にも、願う。人によって幸福の定義は違えど、少しでも幸福を感じてほしい。これは、そんな私の自己満足だけで出来ている、その辺の石と変わらないものだ。
第一章 女と母、子と母
人によって、物心がついた時期は様々だろう。一番古い記憶のことを、物心がついた頃と言う人もいれば、記憶はあまりなくとも、言葉を話せるようになった頃だという人もいる。私は専ら前者である。さて、私が物心ついた時、それはまだ幼い、五歳の誕生日を迎えて一月ほどたった頃だろう。私に、父という存在の記憶はない。親類の話では、生まれて一月ほどで離婚したのだそうだ。それを知ったのは、小学校の高学年頃であったが。それは置いておくとして、その頃の私にとって、大人の男性というものは、保育園の園長のみだったのだ。今思えば、随分と狭い世界であった。そんな私に、園長以外の男性と初めて出会う機会が出来た。母に、恋人ができたのだ。
母は若くして兄を生み、その後十か月後に私を生んだ。それからというもの、子供二人を育てるために夜の仕事をしていた。そんな母に恋人が出来たことは、良いことなのだと、幼いながらに思ったものだ。保育園で聞く、父というものが自分にも出来たのだと思っていた。彼の名は、智明という。ともくん、と呼んでいた。身長は百八十くらいだろうか。小さかった私は、彼を仰ぎ見る度に首を痛めていたような気がする。体格のしっかりとした男性であった。ともくんは、とても優しい男性であった。父がいなかった私も、兄も、忙しい母に代わって遊んでくれるともくんがとても好きだったのだ。
付き合いだして、半年くらい過ぎた頃だろうか。母が病に倒れた。高熱が続き病院に行っても、医者は風邪が長引いたのだろうといって薬を処方するだけであった。二日ほど経ったある日、母の体に発疹が沢山できた。慌てたともくんは祖母に電話をした。祖母は祖父とともに飛んでやってきた。救急車を呼び、私と兄は祖母と共に家で留守番をしていた。母は、スティーブンスジョンソン症候群であった。それから、私と兄は祖母の家で一か月以上過ごした。その間、見舞いに行くこともできなかった。
二か月ほど経った頃だろう、祖母が見舞いに行きたいかと聞いてきた。
「行きたい」
と私は間髪をいれずにそういった。祖母はそんな私を見て何故か泣いた。病院へは、車で一時間ほどかかった。東京タワーが病院の窓から見えたことは覚えているが、名前は覚えていない。ただ、とても大きな病院だった。エレベーターで六階まで上がって、一番隅の病室だった。ベットは、カーテンによって閉め切られていた。
「ママ、来たよ」
と私はいった。兄は私の後ろで祖母と手を繋いでいた。
「よく来たね、大変だったでしょ」
と、母はいった。カーテンがゆっくり空く。そこに今までの母の面影はあまりなかった。焼け爛れたように瘡蓋まみれの唇。腫れあがった瞼。まだ若く、綺麗だった肌は荒れ果てていた。私は何も言えなかった。これは私の母なのかと思うほど、その姿は悲惨であった。
「ごめんね、怖いでしょ」
と母はいった。兄が泣いた。祖母が慌てて兄を引っ張って病室から出ていく。私は母と二人で残されたのだ。
「大丈夫」
と私はいった。母はそれに、
「ありがとう、優しいね」
といって笑った。笑った拍子に唇の瘡蓋が剥がれて血が流れる。その血が母の顎を伝って首元の服を汚していく様を、今でもはっきりと覚えている。その後少し話をして、病室を出た。帰りのことはあまり覚えていない。ただ、ともくんとは一度も会わなかった。
見舞いに行ってからまた二か月くらい経った。その間に何回か見舞いに行った。少しずつ母の容姿が元に戻っていくことに安堵した。結局、肌は荒れ果てたままであったが。母が退院をする日が決まったのは、桜が散って緑の葉がところどころ見えるようになった頃。祖母の家から、漸く自分の家に帰ってきた。そこにはともくんもいた。ずっと会っていなかったので、私はとても嬉しくて、何度も話しかけていた。夕方、母が帰ってきた。大きな荷物を抱えて、祖父の車で帰ってきた。
「ただいま」
といって荷物を下ろす母に飛びついた。母はずっと強い力で抱きしめてくれた。そのあとは私と兄で母を囲んで眠った。その間、ともくんはあまり話さなかった。
一か月、経った頃だろうか。梅雨が始まって、洗濯物が部屋を狭くさせる。その頃、異変が起きた。夜中に怒号が響くようになった。母の金切り声も一緒に聞こえるようになった。テーブルに傷が出来ていた。コップが何個か割れていた。ともくんと母が、度々喧嘩をするようになったのだ。時には母が痣だらけになる日もあった。ともくんはあまり話をしてくれなくなり、家の中の空気が悪くなった。兄と私は夜の間、布団に包まって耳を塞いでいる日が増えるようになった。母は気丈にも笑っていてくれたが、日に日におかしくなっていった。私たちを叩くようになったのだ。閉じ込めるようになったのだ。兄は、電気を消したトイレに半日閉じ込められたことがある。私は裸足で外に夜の間中だされたこともある。何度謝っても家にいれてくれなくなった。そんな生活が、三か月くらい続いた。
ある日の夜。またともくんと母が喧嘩を始めた。初めはいつも通りだったが、そのとき母が初めて家を飛び出した。私たちはとても驚いて、そして恐怖した。その頃には、大好きだったともくんが恐怖の対象だったのだ。ともくんは飛び出した母を何度か言葉で詰ると、寝室に入ってきた。私も兄も、体を固くして必死で眠ったふりをした。
「おい」
と、ともくんがいった。前の優しい言葉ではない、威圧するかのような声で私たちに声をかけてきた。
「起きてるだろう、あいつを連れ戻してこい」
と、ともくんは私の被っていた布団を無理矢理引きはがしてそういった。居間に続く襖に一番近くにいた私の髪を引っ張った。私は飛び起きて靴も履かずに母を追った。家を出るとき、兄の泣き声が聞こえた。
母は家から近い公園で泣いていた。私は近くまで走って行って、一緒に帰ろうといった。
「いや」
と母はいった。そのまま私を突き飛ばした。擦りむいた掌から少し血が滲んだ。
「また殴られるのはいや」
と、母は泣き喚いた。私は困った。けれど、家で兄がともくんと居るのが怖かった。母の手を何度も引っ張って帰ろうと泣くと、はっとしたかのように母が私を見た。
「ごめんね、帰ろうね」
といった。少し前までの母のようであった。手を繋いで一緒に帰る中、無言ではあったが、久しぶりに繋いだ母の手は相変わらず安心した。家に帰ると、兄が頬を腫らせて泣き喚いていた。ともくんが、兄を殴ったのだ。私はそれに、幼いながらに激怒して、ともくんに靴を投げてしまった。ともくんはそれに怒って、私の髪を引っ張った。そのまま引きずられて、気が付いたら柱に頭を叩きつけられていた。とても痛かった。母が悲鳴を上げて、ともくんに飛びかかった。私と兄は寝室の隅で震えていた。
数日経って、母が兄と二人で出かけて行った。ともくんは帰ってきていない。私はテレビを見ながら待っていた。夕方の四時頃、ドアが開いた。
「おかえりなさい」
と私はいった。返事がなかった。
「なんだ、お前だけか」
と、ともくんがいった。母でも、兄でもなかった。私は恐怖した。身体が無意識に震えると、ともくんが私の近くに来た。
「この間は、靴を投げたな」
と、ともくんが私の胸倉を掴んでそういった。人は、恐怖し過ぎると声すらでないらしい。私は固まって、ともくんをじっと見つめることしかできなかった。ともくんはそんな私の足を持つと、狭い部屋の中で振り回し始めた。何度か背中や腕をぶつけた。痛くてうめき声をあげると、ともくんは鬱陶しそうに舌打ちをして、私の頭をテレビに叩きつけた。がんという音が頭の中で響いた気がする。動けなくなってぐったりする私に満足したのか、ともくんがまた家を出た。耳鳴りがした。キーンという音と、じぐじぐとした痛みを感じる。頭を触ると、血が出ていた。動けなくて、そのままじっとしていた。日が暮れた頃、母と兄が帰ってきた。母が、悲鳴を上げた。
熱がでた。それはそうだ。結構な怪我だったのだ。けれど病院には行けなかった。ともくんが行かせてくれなかったのだ。痛みと熱で朦朧とする中でも、ほとんど毎日怒号が響いた。さすがに、その時は手をあげられなかった。私たちにとって、ともくんは完全に恐怖の対象であった。そして、それは男性にもであった。初めてといってもよい大人の男、という存在が恐怖の対象だったのだ。仕方がないといえば、そうであろう。けれど、そんな生活もあっという間であった。母の友人が助けてくれた。その人も男性であったので、私たちは最初とても怖かった。けれど彼は、私たちを保護してくれた。母も、付き合いの長い相手だったからか、緊張をといていたという点も大きかったのだ。彼は大きな車を使って、私たちの服や小さな家具を運び出してくれた。家も、用意してくれた。前の家よりもずっと狭かったが、それでも安心のできる場所が手に入ったのがとても嬉しかった。
母はあの時から、時々癇癪を起すようになった。けれど、前のように優しいときもあったので、私たちはなんとかなっていた。母は引っ越してきてから、また夜の仕事を始めていたのであまり家にいなかったことが大きい。小学校もそこから近いところに通いだしていた。保育園を卒業するとき、余裕なんてないのに、焼き肉に連れて行ってくれた。家族三人での食事が、とても嬉しかった。勿論、前のように手を挙げられることもあったが、そのたびにごめんと泣いて謝る母を責めることなんてできなかった。その後、母はがむしゃらに働いて、お金を貯めた。私が一年生の夏休み、これで引っ越しをしよう、といって、今よりもずっと広い都営住宅に引っ越した。初めて自分の部屋をもって、私も兄も喜んだ。
そこでも母は頑張っていた。癇癪を起しても、私たちに手をあげても、それでもちゃんとした家族だった。きっと、この頃、母は限界を超えて頑張っていたのだろう。それが決壊したのは、私が小学校三年生の頃であった。
母に新しい恋人が出来たのだ。名を慎という。相手も一度離婚をしていて、子供が二人いた。一人は女の子で兄と同い年、もう一人は私より年下の、小学校一年生の男の子だ。女の子は愛、男の子は正樹という名前であった。私はその二人を歓迎した。勿論、恋人である男性も歓迎した。母は、恋人が出来てからとても明るくなったのだ。正樹に関しては、初めての年下だったこともあり、弟のように思っていた。母は慎くんと結婚したいのだと言っていた。それほど、二人は仲がよかった。勿論、私たちも仲がよかった。けれど、それもすぐに壊れてしまった。母が、妊娠したのだ。母は慎くんとの子供をほしがったが、慎くんはそうではなかった。生みたいという母を連れて、産婦人科に行った慎くんは、その子供をおろさせた。母は、この時に壊れたのだ。
それからは酷いものであった。母は部屋に閉じこもり、何もしなくなった。声をかけても返事をしてくれなくなった。食事を作ってくれなくなった。私が風邪を引いたら怒るようになった。けれど、正樹や愛になにかあると、私と兄を放って、何日も家を空けるようになった。その間、私たちは冷蔵庫に残ったものでしのいだ。
けれど、それでも母を嫌いになることなどできるわけもなく、私たちは自分たちでできることをしていったのだ。母から金食い虫だなんだといわれながらお金をもらい、スーパーで食材を買ってきて料理をした。それも簡単なカレーやシチューであったが。兄はサッカーをやっていたので、洗濯を手伝ってくれた。私はいつも、学校からすぐに帰ってきて、三人分の食事を用意していた。慣れないことをやるために、友達とは遊ばなくなった。ただ、そうするしかなかったのだ。
そんな生活の中、母は慎くんとの交際を辞めなかった。それほどまでに好きだったのだろう。けれど、私は慎くんが嫌いになった。愛や正樹すら嫌いになった。あの二人が遊びに来てもそっけなくした。酷いことをしていると自覚はあっても、やめられなかったのだ。母は、二人が来た時だけ食事を作ってくれた。一緒にテレビを見てくれた。けれど、私と兄のことは見てくれなかったのだ。まるで、その二人が自分の子供であるかのように扱う母が、少し嫌いになった。そんなある日、ある事件が起きた。私が四年生になった夏休み、愛と正樹の二人が一週間ほど泊りにきたのだ。嫌だと思いつつ、母の料理が食べられるのが楽しみだった
一緒に夏休みの宿題をしていたとき、正樹が私の取っておいたガムが欲しいと言い出した。四つしかなかったが、それを皆で一つずつ分けて食べた。少し経って、正樹が
「味がなくなった」
といった。私はそれに、宿題をしながら
「これは風船ガムだから、膨らませて遊んでもいいし捨ててもいいよ」
といった。正樹はそれをきいて、部屋から出て行った。私は気にせず、宿題を続けていた。その時だ。部屋の襖が音を立てて空いた。驚いて振り返るよりも早く、強い力で背中をけられて、胸を机にぶつけた。むせる私を見下ろしていたのは母であった。
「あんた、味がなくなったガムを噛んでろって正樹にいったんだってね。酷い子ね、そんな子は家にはいらないしご飯を食べる資格もないね」
と母はいった。私は唖然としながら見上げていた。そんな私を母は引っ張って素足で外に放り出した。私は泣くことも出来ずうずくまるしかなかった。まだ昼前の出来事であった。
どれくらいそうしていただろう、ドアがゆっくりと開いて、そこには兄がいた。兄は私に母のところに行くようにと言って、背中をそっと押してくれた。蹴られたことを気にしてくれたらしい。部屋に行くと、母がそこに座っていた。私は何も言えず俯くしかなかった。母はそんな私に近づいて、こういった。
「ごめんね、愛が違うって教えてくれたよ。勘違いだったね」
といって抱きしめてくれた。けれど、そのとき私は何も感じなかったのだ。母は、私の言葉を聞かずに外に放り出したのに、愛の言葉は聞いたのだ。そのときから、私と母の間に亀裂ができた。結局、お昼ご飯はなかった。
四年生の冬、母が慎くんと別れた。慎くんが、私たちの扱いに気付いたのだ。けれど、これがいけなかった。母が、手首を切ったのだ。
夜中に目が覚めた。今思うと、虫の知らせというのだろうか。何故か胸騒ぎがして、母の部屋にいった。そこは血まみれたっだ。私は悲鳴を上げた。兄が飛び起きてきて、大きな声で泣き始めた。私は泣きながら救急車を呼んだ。何度もどもりながら説明をした。電話口から聞こえる声は酷く単調で、所詮他人事なのだと思い知った。私がなんとか母が手首を切ったのだと伝えると、
「あなたは彼女とどういう関係ですか」
と聞かれた。娘だというと、何歳だと聞かれた。十一歳だというと、相手はとても同情してきた。かわいそうに、つらかったでしょう、と。そんなことはどうでもよかった。さっきまで冷たかった口調が変わって、それが気持ち悪かった。救急車は、それから三十分くらいして漸くきた。
病院には祖父母がきた。祖母は泣いていた。祖父はどうしてこんなことになったと私を問い詰めた。兄は泣いていて、話せる状況じゃなかったのだ。祖母をそんな私を抱きしめて、
「この子を責めないで」
といった。そこで漸く、私は安心したのだ。
母は一面をとりとめた。二日経ち、対面したとき母は狂っていた。
「どうして死なせてくれなかった。あんたは私を苦しめるのか」
といわれた。そのとき、私は完全に母を母ではないのだと見切りをつけた。母は、女であった。
読んでいただいたこと、ありがとうございます。いかがでしたか。どう思いましたか。これが私の普通なのです。きっと、理解できないでしょう。でも、それでよいのです。事実は小説より奇なり。