第二話 鳩屋 弐
早春のやわらかい日差しが水面を照らしている。船着き場の脇に植えられた梅の芳香が心地よい。
「おじいさま、着きましたよ」
船を降りる祖父に手を貸しながら、水内沙夜は梅の香りをかいだ。胸いっぱいに広がる甘い香り。
「もう春なのですね」
「沙夜、前を向いて歩かぬと危ないぞ」
腕を伸ばして伸びをする孫娘を心配そうに老人、水内源内は諭す。
「あら、私、もう十八よ。そんな子供ではありませんわ」
「大人は、自分を大人とは言わぬものじゃよ」
ぷいと頬をふくらます沙夜を愛おしそうに、源内はみつめる。
「現にわしなど、まだまだ子供じゃと思っているくらいじゃ」
「まあ」
沙夜は大きな眸を見開いた。
「でも、それは別の話ではありませんの?」
「さあて。どうかの」
源内はにこにこと笑う。齢の割にすっとのびた姿勢や、きびきびとした歩み。和良比創生から続く名家である水内家の品と隙のなさはあるものの、孫に目を細めている白い顎ひげの伸びた顔はどこからみても、好々爺という感じである。
「鳩屋は、久しぶりじゃ。沙夜、ここの湯豆腐は格別じゃぞ。楽しみじゃの」
のれんをくぐりながら、源内は笑った。
和良比の東にある大塚屋から鳩屋まで、晃志郎とおあきは船に乗った。歩くよりは随分早いが、それでも鳩屋に着いたのは昼をとうに過ぎていた。
店に着くと、調査よりも前に、晃志郎は遅い昼飯を台所の板場に用意してもらった。
さすがに料亭の台所は広く活気がある。加えて料理人の腕もいい。おあきの指示で簡単に整えられた膳には、握り飯と香の物、汁物が見栄えよく並んでいた。
「うまい」
みっともないと思いつつも、晃志郎は握り飯を貪り食った。あまりに旺盛な食欲に驚いたようにおあきは握り飯のおかわりを晃志郎に差し出す。
「このような板場でなく、お座敷のほうにご用意しましたのに」
晃志郎は握り飯を頬張ったまま、首を振った。
「お台所は、料理屋の源。まずは、ここを見せていただきたかったのです」
本音であるが、飯粒がついた状態ではいささか説得力に欠ける。
「あの、お嬢様」
番頭風の男が遠慮がちに声をかけ、何事かおあきの耳元でささやいた。
「そう。離れのお部屋にご案内して。お前に任せるわ。私も後からご挨拶に行きます」
おあきの様子を見ながら、晃志郎はそのまま汁物の最後の一滴まで飲み干す。膳には、なめまわしたかのようにきれいな皿が載っているだけになった。
「非常にうまい飯でした。お父上が食欲不振とうかがったが、この台所が原因ではない」
事実ではある。だが、おあきはすべてを見通したかのようにくすりと笑う。晃志郎は気にしないことにした。
「何やらお忙しいご様子。お店を閉めるわけにはまいりませんか?」
「それが……。今日は、一年も前からの予約のお客様で。どうしても断れぬお得意様なのです」
おあきは困ったように顔を伏せた。
「伍平は、病とな。それで、様子はどうなのじゃ」
案内された座敷に座った源内は、主人が病の床にあるとの挨拶を受け、驚いた顔で、番頭の与吉に尋ねた。
「御心配にはおよびません。ただ、主たるもの、お客様に病んだ身体ではご挨拶いたしかねるとのことでございます」
丁寧に与吉は平伏しながら答える。
「御隠居様には、わたくしどもで精いっぱいお世話するよう言いつかっております。どうぞ、いつもと同じようにお楽しみいただければ、とお願い申し上げます」
「さようか。養生しろと伝えてくれ」
源内はひげに手を当てた。与吉の様子はどうも釈然としない。何かを隠しているように見える。
源内は鳩屋の主である伍平とは、二十年来のつきあいがあり、ここに来るのは料理の楽しみもあるが、伍平との語らいのためでもあった。身体が悪いのであれば、見舞いのひとつもしてやりたいとも思う。ただ、それは伍平の病に障りとなりそうだ。ここは、引き下がるべきなのかもしれない。
「まずは、温まるものをご用意させていただきます。しばらくおくつろぎを」
平身低頭で出ていった与吉を見送り、源内は辺りを見回した。
座敷は丁寧に清掃され、梅の切り花が活けられている。真新しい畳には、まだ微かにイグサの香りが残っていた。
障子からやわらかな光が畳に注ぎ込んでいるものの、部屋は冷えており、用意された火鉢を源内と沙夜は囲むように暖を取る。
「このような場所で、気のせいかもしれませんが……」
沙夜が美しい細い眉をよせた。
「なんだか髪の毛がチリチリ致します」
「沙夜もそう思うか」
源内の表情が曇る。
「伍平が病というのも気にかかるが、この肌がざらつく感じはあまりいいものじゃない」
源内は、もう一度部屋を見渡す。
「沙夜、そこの障子を開けなさい」
「はい」
沙夜はすっと立ち上がり、閉じられた障子戸を開いた。
食事を終えた晃志郎は、おあきに中庭へと案内された。
枯山水の見事な庭園である。白い砂が敷き詰められ、その上に見事な朱塗りの橋が架かっていた。
「あれでございます」
おあきの指した先に掘り返した跡があった。丁寧に補修し、遠目ではわからぬようになっているものの、白い砂に茶色の土くれがまじっている。庭の脇にめぐらされた土塀には、爪で引っ掻いたような跡があった。
「あの建物は?」
庭園に沿った渡り廊下の先に、まだ真新しい数寄屋造りの離れがあった。
「半年前に普請したものです。客室としても使っておりますが、奥は父が隠居部屋に使いたいと申しまして」
「隠居、ですか?」
晃志郎の言葉に、おあきは赤くなった。
「私、来月に婿を取ることになっております」
おあきの疲れた顔が一瞬華やいで見えたが、その表情はたちまちに曇った。
「このままでは、それもかなわないかもしれませんけど」
晃志郎は真新しい建物をじっと見つめた。派手な飾り気はないが、枯山水の庭と調和して、清々しい佇まいを感じさせる。
が、同時に晃志郎は、その建物から少なからぬ違和感を感じていた。
「お父上は、あちらの建物にお住まいで?」
「はい」
「物音がするというのは、その渡り廊下のあたりでしょうか?」
高床に作られた廊下は、美しい木目を生かされた板張りで、畳一畳分ほどの幅がある。廊下のヘリには、なめらかな手すりがつけられていた。
「そうです」
おあきが頷くのを確認すると、晃志郎は庭を注意深くまたぎながら渡り廊下の床下を覗き込んだ。枯山水の石が混じらぬように並べられた大岩の奥に、無垢な土が見える。
「潜ってもよろしいか?」
晃志郎はおあきが頷くのを見て、体を折るようにして床下に入り込んだ。薄暗く、やや湿っぽいにおいが鼻をつく。肌にチリチリとした感覚があった。
──あるな。
晃志郎は窮屈な状態で脇差しから笄を抜いた。黒塗りの笄に朱金の鳥が舞っている。
「照魔」
小さく発した晃志郎の言葉に薄暗い中にポッと、赤い色の灯がともった。
「一、ニ、三、これで全部か」
赤い色の灯を拾い集めて、もう一度晃志郎は辺りを見回す。笄を脇差しにしまうと、手のひらに載せた赤い色の灯は消え、黒々としたものに変わっていた。晃志郎はそれを握りしめたまま、床下から這い出た。
「音の原因はこれですね」
晃志郎は着物の裾に着いた土を軽く払うと、おあきに拾い集めた黒いものを見せた。
「なんですの? それは」
覗き込もうとするおあきを晃志郎は目で制した。
「星蒼玉と呼ばれるものです。うかつに触ってはいけません」
晃志郎は丁寧に三つの玉を懐紙に包んだ。
「これは、五つの玉を使ってひとを呪う呪法です。ただバラ撒いているところをみると、素人のようですが」
「呪い、ですか?」
「何か心当たりはありませんか?」
晃志郎の言葉に、おあきは怯えながら首をかしげた。
「わかりません」
懐紙を懐にしまいながら、晃志郎はもう一度離れに目をやった。
「あ……」
すっと、しまっていた離れの障子が開いて、おあきが息を飲むのが分かった。
好々爺とした武家の老人と、美しい娘が不思議そうにこちらを見ている。
「おあきさん。そんなところでどうしたのだね?」
「御隠居様……」
おあきは泣きそうな顔になった。
沙夜の記憶より、おあきは痩せたようであった。まだ若いはずの肌は荒れ気味で顔色も悪く見える。
おあきとともにいた浪人は赤羽晃志郎と名乗った。
晃志郎と名乗った男は、沙夜達が離れにいたことに驚き、部屋を変えるようにおあきに指示をする。部屋を変わることに異存はなかったが、祖父の源内は事情を聴きたがった。
「私的なことでございます。ご勘弁を。水内さま」
お秋はひたすら頭を下げ、説明を拒絶する。
「水内さま? 封魔奉行の?」
男は水内という名に驚いたようだった。
「わしが奉行だったのは、もう十年以上も前じゃ。もはや気楽なただの隠居のじじい。そうかしこまることもない」
源内の言葉を聞きながらも、おあきは頭を伏したままだ。
「おあきさん。ここはきちんとお話ししたほうがいい。奉行所以外の人間が封魔をすることは別段、法に触れることじゃない。封魔の依頼を頼んだことで、あなたが後ろ暗く感じることは何もありません」
晃志郎の声は優しいが、しっかりとした口調だった。
「今、術を使った気配があったが、使ったのは赤羽どのか?」
源内の問いに晃志郎が頷く。
「お話しすることに異存はありませんが、今回のことは俺が仕事としてお受けしております。とりあえずは、お手出し無用に願います」
強い意志を感じる大きな瞳で、晃志郎は源内を見据える。祖父をこんなふうに自信に満ちた目で見る人間を沙夜は知らなかった。
「もちろんじゃ。それに仕事は急いだほうがよさそうじゃ。とりあえず話はあとで構わんが、仕事っぷりを見学させてもらうのは構わないかな?」
晃志郎は困ったように首をかしげたが、否とは言わなかった。
「沙夜、おまえも後学のために見ておきなさい。封魔の現場は教本通りにはいかぬもの。覚悟だけはしておくことだ」
「はい。おじいさま」
いつでも加勢できるように心の準備をしろと、源内は言っているのだ。沙夜は胸にしまってある小太刀にそっと手を当てた。