悪魔の歌声
ラルフが部屋に戻るとバネッサはテーブルをかたづけていた。
「彼、帰っちゃった?」
バネッサは笑いながら聞いた。
「帰ったわよ!」
「なかなかナイスガイね。ルックスは言うまでもないけどあなたのこと真剣よね、この幸せ者。あまり幸せそうだからちょっと意地悪しちゃった」
「永遠に眠りたいってへこんで帰ったわよ!」
バネッサはケラケラ笑った。
「でもひどい話よね、あなたたちがカップルだなんて全女性にとってどれだけ大きな損失だと思って?」
「地球規模で考えたら、人口増加にともなう食糧難を回避するいちばんの手段よ、ゲイは」
「あはは、やっぱりディベート部伝説のラルフ先輩にはかなわないな」
「寝室を用意したわ、今夜はもう休んだ方がいいわ」
「ごめんなさい」
急に真顔でバネッサが謝った。
「いろいろうまくいく人が羨ましかったの。愛されている人も」
「アタシたちだっていっぱい辛いこと乗り越えて今に至るのよ。今夜は何も聞かないわ、おやすみなさい」
ラルフはバネッサのおでこにキスをした。
「おやすみなさいラルフ」
翌朝、エヴァンは遅い時間に目覚めた。頭が痛い。会社勤めをしていた頃なら完全に遅刻だ。
先日、実家に帰省してゲイをカミングアウトしたエヴァンだけど、仕事を辞めたことまでさすがに言えなかった。
あとでよく考えたら仕事を辞めた報告など、ゲイのカミングアウトに比べたら百万分の一くらいの些細なことだったとちょっと悔やんだ。
エヴァンは会社勤めをしながら物書きを目指していた。いくつかの賞の候補にも名前が並ぶようになり小さな連載の仕事も得た。そこで思い切り仕事を辞めて物書きに専念することにした。まだまだ十分な収入というにはほど遠いが、それでも精神的には充実していた。もちろんその背景にはラルフという得がたい心の支えの存在が大きかった。
コーヒーをいれてPCを立ち上げ書きかけの作品を開いた。だけどキーボードに乗せた指は一向に動かない。
「Shit!」
今、執筆中なのは私小説なので今朝みたいに気分が乗らないと全く書けない。ラルフに会いたいと思ったが愛しい恋人の部屋にはおぞましい悪魔が棲みついている。
「Shit!」
再びつぶやいた。こんな気分のままじゃ一行も書けそうもない。
熱いシャワーを浴びて外に出ることにした。目的もなく町をぶらつく。自称小説家、実はゲイのフリーター、そして弁護士のひも。今日はやけに自虐的だなと嘲えてきた。
それでも穏やかにふりそそぐ日光と風は、エヴァンのクサクサした気分をいくぶん和らげてくれた。今夜はラルフにこっちに来てもらおう。それともふたりでジムにでも行って体をいじめてこようかな? とにかくラルフに会わないと。今頃ラルフはスーツとネクタイの戦闘服で正義の旗を振りかざしているんだろうな。でも傍聴席ではあの悪魔が笑っているんだ。ふいに悪魔の笑い声が天から降り注いできた。
「Shit! あいつの声まで聞こえるなんて」
いや、幻聴なんかではない。笑い声ではないが悪魔の声は確かに聞こえてくる。前方の人だかりから。音楽にのって。
ラルフほどではないが長身のエヴァンが覗いてみると、まさしく悪魔娘のバネッサがストリートバンドを従えて歌っていた。
恐ろしいほどの声量で、全身で。エヴァンは鳥肌が立った。思わずスマホを向けてしまっていた。その時はあとで悪魔祓いにでも使おうなどという邪な動機ではなく、純粋に動画として残したい衝動に駆られたのだ。
地獄のデスボイス。断末魔の悪魔の雄叫び。力強く、もの悲しく、聞く者の魂にダイレクトに響いてくる。
何曲目かを歌っている時、ついにエヴァンと目が合った。
悪魔の目がちょっと笑ったような気がした。昨夜のような皮肉たっぷりの笑顔ではなく、いたずらがバレた子供のような笑顔だった。バネッサは歌いながら目でエヴァンにサインを送ってきた。
「ソコニイテ」