初めての討伐
「あれがチーブか」
震える手と激しい鼓動、痛む胃を何とか抑えながら草むらに隠れ、それが一体である事を確認する。
カントより西の街道を出て程なくすると平原が広がっている。
この周辺はチーブがよく出没する場所と聞いたが、早速目的の魔物に遭遇する事が出来た。
チーブには、正確に言えば魔物全般に当て嵌まるらしいのだが、個体差があるらしい。
だが俺の目の前にいるその魔物は、体長百五十センチ程度で、垂れ下がった両腕は地面に丁度つく程度という、平均的なチーブの風貌だった。
例えるならば二足歩行する巨大な猿だ、とウィルさんは言っていたが、爛々と光る赤い目に指の先に長く伸びる鋭利な爪を見るに、どう考えてもそんな生易しい表現で語れるものでは無かった。しかしそれは、今までに魔物を見た事が無いからこその、俺個人としての感想なのかもしれない。
そもそも俺がいた村周辺では、人間が魔物に襲われるという事は殆ど無かった。
というのも、故郷であるイスタ国は気候と肥沃な大地に恵まれている第一次産業中心国であり、国を挙げて農業や鉱業を奨励、保全に重きを置いている。
そしてそれは農作物、鉱山採掘に加えて人的にも被害をもたらす魔物討伐においても例外では無い。
イスタ国は二百の領土に分かれており、そのそれぞれに名主と言われる統治者がいる。基本的にはその領土々々で名主が統治しており、或いはその領土々々によって政策や税率も違うのだが、その二百の領土の中の最大領土にして最高の軍事力を保有している大名主、トール・ヴァニスが王という名目の下に他の名主を束ねている。
そのトール・ヴァニスが各名主に共通政策として組み込んだのが、『魔物討伐においてのみ、大名主の許可を仰ぐ必要無く軍を出兵させる事を認める』というものだった。
その政策のお蔭で、魔物の出現報告があれば即時で各名主によって軍が編成、討伐されている。
領土内の損害が直接名主自身の損害に繋がるので、当たり前といえば当たり前だった。
であるからしてイスタ国の第一次産業の従事者は、俺の様に一度も魔物を見た事が無いという人間も多い。
一応の記憶にある限り二度ほど俺がいた村の周辺に魔物が出没したとの噂があったのだが、時を置かずして名主によって討伐された。
魔物を見るのは初めてであって、ましてや討伐など。
今までの俺はそうだったが、今日から魔物を飽きるほど見て、討伐しなければならない。臆している場合では無い。
深呼吸を数度繰り返す。
落ち着け、落ち着け、落ち着け。
ウィルさんに学んだ事は頭の中に入れた。
それを引き出しながら戦わなければ、それ即ち死あるのみ。
緊張で思い出せず、体を動かせず、屍をこの平原に晒す訳にはいかない。
俺は生きる、生きるのだ。魔物を倒し、金を、生活を手に入れる。
入れてみせる!
よし、行くぞ!
魔物に気付かれない様に心の中で気合を入れ、その勢いを以て魔物に向けて足を踏み出す。ただし、なるべく足音を立てない様に。
まずはチーブに接近する事が第一の関門だ。
チーブは獲物や人間を見ると、助走をつけて先制攻撃をするのを得意とするらしい。
直線的で尚且つ大振りなその攻撃は避け易いそうなのだが、敏捷性に欠ける俺には避けられるかどうか若干の不安がある為、慎重に物事を運ぶ必要がある。
右手に狩猟用ナイフを携え、チーブの真後ろから徐々に接近して行く。
まだ気付くなよ。そのまま、そのまま……。
と、突然チーブが体ごと振り返り、俺を見据えてきた。
気付かれた!
が、チーブとの距離は既に五メートルも無い。
チーブが走り、トップスピードに到達するまではこの倍以上の距離が必要だそうだ。
ここまで接近すれば例え此方に向かってきてもその威力は半減するだろう。
とはいえ、先制攻撃はされたくない。
俺は即座にチーブに向かって走り、一気にその距離を縮めようとした。
「グオオォォォオ!」
と、チーブが咆哮する。
鼓膜から腹にかけて響くその声を浴び、僅かながらに怯んでしまったが、歯を食いしばって行動を続ける。
未だ咆哮を続けるチーブのその大きな口からは鋭利な牙が覗いており、爪による攻撃同様、牙を利用した噛みつきの攻撃にも注意しなければならない。
よし、大丈夫。俺は冷静だ。
大よそ一メートル半の距離をあけ、半身にして対峙する。
それを見たチーブは左足を俺に向けて踏み出し、大きく右腕を振るった。
「っつ!」
瞬間、バックステップ。チーブの爪は俺に触れる事無く、胸の前を通過した。
よし、よし。この距離ならチーブが足を踏み出した瞬間、バックステップすればまず俺に届かない。
汗がこめかみを流れたが、それを拭いている余裕など無い。
全力で腕を振るったにも関わらず、態勢を崩さないチーブから片時も目を離さず、集中もまた切ってはならない。
距離はそのままを維持し、一回、二回とチーブの攻撃を避ける。
この三度の攻撃でチーブが足を踏み出し、その腕が俺の胸を通過する速さが大よそ一定である事が分かった。
ナイフを握る右手に力を入れる。次の攻撃で動こう。
「さあ、来い!」
その数秒後、チーブが俺に向けて足を踏み出してきた。
バックステップ。直後ナイフを振り上げ、力を込めて振り下ろす。
「らぁ!」
が、空を切る。
外した!?
態勢を整え、すぐにチーブとの距離を確認。
その間、チーブは俺に向けて咆哮はしたが、攻撃はして来なかった。
ウィルさん曰く、チーブは連続で攻撃をしない。
噛みつきはその限りでは無いらしいのだが、腕を振るう攻撃においては、少なくとも次の攻撃に移るのには数秒かかるらしい。
事実、目の前のチーブはそう行動した。
俺がフックでは無く、チーブを相手に討伐しようと思った理由もここにある。
例え今の様に俺の攻撃が外れても、すぐに態勢を整えればまた同じ様に相手を迎え撃つ事が出来るからだ。
チーブが足を踏み込む。迫り来る爪をバックステップで躱し、ナイフを振り下ろす。
「ふっ!」
が、手応え無し。クソッ、また外した!
態勢を整え、再び相対する。狙いは変わらずに手の付け根だ。
どうやら、チーブの手と手の付け根には繊細な神経で繋がっているらしく、ある程度深く傷つければ、その手及び腕が動かなくなるらしい。
チーブ討伐の一連の流れとしてはつまり、まず最初にチーブの両腕を使えなくする。
そして使えなくなった一瞬の隙を突いて心臓に向けてナイフを突き立てる、という事になる。
狩猟用ナイフとはいえ、刃渡りは三十センチ程度ある。斬りつけられないという事は無い筈だ。
まずは片腕をと思い、ナイフを振り下ろすが、一向に手の付け根を斬りつけられない。どうにもタイミングがズレる。
よし、あとほんの少し早くナイフを振ってみよう。
「ガアアアァア!」
チーブが吼え、俺に向かって足を踏み出してきた。よし、今度こそ!
「おぁ!」
気合一閃、ナイフを下ろす。手応え有り!
「グアアアァァァァアア!」
チーブの絶叫。ナイフが抉ったのは右手の付け根。
チーブの右腕がだらりと力無く下がった。
「よし!」
鼓動が跳ねる。よし、よし、よし! 上手く行った!
残るは左腕のみ、そう思い、チーブの次なる攻撃を待った。
「っらぁ!」
何度目かの攻撃。遂にチーブの左手の付け根を斬りつける事に成功した。
「グググァァァアアア!」
チーブは両腕をだらりと下げ、天に向かって咆哮した。
今だ!
今度は俺がチーブに向かって足を踏み込み、ナイフを心臓に向けて突き立てた。
鈍い感触。ナイフはチーブの胸を貫通し、背中を飛び出した。
「うおおぉぉああ!」
危ねえ!
突き立てた直後、即時で後ろに飛び下がる。
一拍を置いてチーブの牙が俺のいた場所を襲う。
ヤバかった、あと一秒遅かったら体に噛みつかれていた。
「グ……オ……オ」
その噛みつきが最後の力を振り絞った攻撃だったのか、胸を突かれたチーブは徐々に前のめりになり、やがてうつ伏せに倒れ込んだ。
ドスン、という音が響き渡る。
「勝った……のか?」
息を荒くしたまま、倒れたチーブに近づく。足でチーブの体を揺するも、何の反応も無い。
チーブを見下ろす。手も足も震え、視界も若干ぼやけている。
そんな状態だったが、俺は立っており、チーブは倒れている。
思わず唾を飲みこんだ。
チーブは俺が突き立てたナイフにより、事切れた。
つまり俺が、勝利したのだ。
「……っしゃあ!」
全身から喜びが込み上がってきた。
やったんだ、俺が。俺が魔物を討伐したのだ!
俺は今この時を以て、名称だけで無く、本当の意味での冒険者となった。