プロローグ①
「あ、あの。大丈夫ですか?」
水を汲んで早く家に帰らないと怒られる、そう思っても、川の手前で倒れている女性を無視する事は僕には出来なかった。
水汲み用の桶を地面に置き、うつ伏せで倒れている女性に近づく。
目は閉じられ、ピクリとも動かない。もしかして、とも思ったけど、どこからも血が流れていない。
だから死んでいるっていう事は無いと思う。
「あの、大丈夫ですか?」
試しに肩を揺すっても何も反応しない。
困った。こういう時って、どうすればいいのかな?
「ぃ……ぅ…」
分からないながらも何度も何度も女性の肩を揺すっていたら、女性の口が僅かに開いた。
凄い小さい声だったけど、確かに何かを言っていた。
「も、もう一度言って下さい」
今度は聞き逃さない様にと思って、女性の口に耳を近づけた。
「み………ず……を……」
やった、今度は聞き取れた。
でも、水をって、どういう意味だろう。飲みたいって事なのかな?
「ちょっと待ってて下さい」
地面に置いていた水汲み用の桶を拾い、川まで走った。
「よいしょ、よいしょ」
水を汲み、一杯になった桶を持って女性の前まで行く。やっぱり女性はピクリとも動かない。
「えーっと、お水、お口に入れますよ?」
そう言った後に桶の中の水を手ですくい、女性の口に少しずつ水を流す。
女性はうつ伏せで顔半分が横向きになっているので、ちょっと飲ませ難かった。
それでも僅かに開いている女性の口に向かって水を流し、ある程度の水が口の中に入ったかと思ったその時、ごくん、と女性の喉が鳴った。
「……う、水?」
相変わらず女性の目が開く事はなかったけど、出た声は先程よりもずっとしっかりしていた。
良かった、少し元気になったみたい。
その後、女性の口に少しずつ水を流しては喉を鳴らすという作業を何度か続けた。
そして女性が喉を鳴らして何度目かした後、突然、カッ! と目が開かれた。
「うわっ!」
あまりにも突然だったので、驚いて尻餅をついてしまった。び、吃驚した!
そんな僕を、女性は目だけ動かして見る。ちょっと怖い。
「お主が、水を?」
「あ、は、はい」
「済まんが、もっと水をくれんか?」
「わ、分かりました」
相変わらず女性は少しも動かなかったけど、さっきよりも口を大きく開けてくれた。
手に水をすくい、女性の口に入れる。
そんな作業を繰り返していたら、いつしか桶には殆ど水が無くなっていた。
こんなに飲んで大丈夫なのかな?
「あの……まだお水、飲みますか? もしそうなら汲んできますけど……」
「いや、充分じゃ」
女性はそう言うと、うつ伏せになっていた体を起こした。
「わっ」
真正面から女性と向き合い、僕は思わず吃驚した声を上げてしまった。
「うん? どうしたのじゃ?」
「あ、いえ。その、凄く綺麗だったので、その……」
怖かった、とは口に出せない。
この人は、綺麗過ぎた。何て言っていいのか僕にはちょっと思い付かないけど、今までに見たどんな生き物や景色よりも、綺麗だと思った。
綺麗過ぎて、だからこそ人間っぽく無い。
そう思ってしまった。
「よい、よい。我を畏怖するのは、至極当然じゃ」
何の表情も無く、女性が僕にそう言ってきた。もしかして怒らせちゃった?
「でも! 本当に綺麗で、えっと、その、綺麗だと思います!」
何か言わなくちゃと思っていたのだけど、僕は頭が悪いから、結局それしか思い付かなかった。
本当、駄目だな僕は。
「優しい子じゃのう」
女性はそう言って僕の頭を撫でた。
その手はひんやりとしていて冷たかったけど、凄くすべすべの手だったので気持ちが良かった。
「お主、幾つじゃ?」
「あ、じゅ、十歳です」
「ふむ。名前は?」
「クロードです」
「クロードか。良い名じゃ」
名前、褒められちゃった。誰かに褒められたのは久しぶりだから、凄く嬉しいな。
「あの、お姉さんのお名前を聞いてもいいですか?」
僕の名前を褒めてくれたこの女性の名前が知りたかった。
多分、素敵な名前なんだろうなと勝手に思う。
「ふむ、我の名前か。そうじゃな……」
女性は手を顎に当て、暫く黙りこんだ。どうしたのかな?
「よし、ティナでどうじゃ?」
え、僕に聞くの?
「どうじゃ、良い名じゃろう?」
「えっと、はい。凄く良い名前です」
「そうじゃろう、そうじゃろう」
と、出会ってから初めて表情が変わったのを見た。
その嬉しそうな顔を見て、何故だか僕まで嬉しくなる。
そうか、ティナさんって言うのか。
お互いに名前を交換したところで、ふと疑問が湧く。
ティナさんは何でこんなところで倒れていたんだろう。
「あの、ティナさん。ティナさんが倒れていたのって……?」
この辺はあまり出ないのだけど、もしかして魔物に襲われたのかな?
「ちょいと不覚をとってな。いや何、気にするな」
大した事では無い、とティナさんは続けた。
うーん、ちょっと気になるけど、ティナさんがそう言うのなら気にしないでいいか。
「それよりもクロード、お主のお蔭で助かった。礼を言うぞ」
「いえ、そんな。僕はただ、水をお口に入れただけです」
「それが我にとって何よりも大切な事だったのじゃ」
ティナさんがそう言う。僕の行為でティナさんが助かったのなら、役に立てたのなら嬉しい。
良かった、お使いでこの川に……、あっ!
「そうだ、お使い!」
水を汲んで、早く家に帰らなきゃ!
「ふむ、何やら急ぎの様じゃな。クロードよ。一つ聞くが、またこの川辺に来るか?」
「えっと、はい。お使いでここには毎日来ます」
「そうか。本当ならばすぐにでも何か礼をしたいのじゃが、我は体を治す為にこの場を離れられん。済まんが礼は後日、またここに来たらにしよう」
「いえ、そんな。僕にお礼なんて……」
「何を言うか」
ぺしっ、とデコピンをされる。撫でる様なそれはくすぐったく、全然痛く無かった。
「よいな? 必ず我の礼を受けるのじゃぞ?」
「……はい」
「後、出来れば他の人間には我の事は内緒にして欲しい。どうじゃ?」
ティナさんは人差し指を自分の口に当て、そう言った。
「はい。絶対に言いません」
僕がそう言うと、ティナさんは頭を撫でてくれた。
それから僕は毎日、水を汲みに来ては川辺でティナさんと会った。
そしてそんな毎日を繰り返していると、いつしか水汲みのお使いが無い時でも暇を見つけてはティナさんに会いに川辺に行くようになった。
農閑期だからといって仕事が無い訳じゃないけど、その時期よりはずっと仕事が少ない。
だから何よりも楽しみだったティナさんに会いに行った。
こんな事思っちゃいけないんだけど、家にもあまり居たくなかったし。
この日もそうだった。
お仕事もお使いも終わったので、ティナさんに会いたい一心で川辺に向かった。
「クロード」
ちょいちょい、と僕に向けておいでおいでをするティナさん。
見た目や雰囲気は大人なんだけど、仕草が時々子供っぽい。
でも、そんなティナさんは凄く可愛らしいと思った。
「おはようございます、ティナさん」
「うむ、おはよう。……ん? 頬が腫れておるぞ?」
そう言い、ティナさんは僕の頬に手を当てた。
「えっと、はい。ちょっと失敗しちゃって、それで……」
「……ふむ。少しじっとしておれ」
そう言った後、ティナさんの手が青く発光する。その光が消えた後、頬の痛みもまた消えた。
ティナさん、ヒーリングが使えるんだ。凄いや。
「ありがとうございます、ティナさん」
「よい。ところで、何故頬を張られたのじゃ?」
……どうして分かったんだろう。ぶたれたなんて一言も言っていないのに。
「えっと、言われた事が出来なかったから、です」
そう、言われた事が出来なかった。
だから僕が悪いのであって、ぶったお母さんが悪いのでは決して無い。
「それは、難しい事なのか?」
「いえ。僕の年齢ぐらいなら、誰でも出来る事です」
お兄ちゃんだって僕の歳には出来た事、それが僕には出来ない。どうあっても、出来ない。
「でも、仕様が無いんです……」
そう、仕様が無い。出来ないのも、ぶたれるのも。だって僕は……。
「僕は、出来損ないだから」
「出来損ない?」
「はい。そうです」
村の皆から、ううん、僕だってそう思っている。
「ふむ、それはどういう意味じゃ?」
「ステータスが、その、低くて。だから……」
「ステータスか。どれ、手を貸してみい」
ぐいとティナさんに掌を掴まれる。どうしたんだろう?
「む、全ての能力値が『2』か」
「え、分かるんですか?」
吃驚した。ステータスを調べる結晶無しでそんな事が出来るなんて、そんな人初めて見た。
「ふふん、我は特別なのじゃ」
得意気なティナさん。凄いです、と僕が言うと、ティナさんは益々得意気になった。
最初に会った時と比べて随分色々な顔が見られる様になった。それが僕には、ちょっと嬉しい。
「しかし、全ての項目で『2』か。ふーむ」
と、再度ティナさんに言われる。
吃驚した事で意識がいかなかったけど、ティナさんにステータスの事を知られちゃったんだよね。
そう思うと今更ながらに怖くなった。
もしかしたらティナさんも、村の皆みたいに僕を扱い出したりするのかな?
それは……凄く、嫌だな。
「よし。クロードよ、先延ばしにしていたお礼の件じゃが、ようやく決めたぞ」
ティナさんが何て言うのかおっかなびっくりしていたけど、ティナさんは変わらない様子で僕にそう言ってきた。
「これからお主に、様々な事を教えよう」
「えっと、様々な事、ですか?」
「そうじゃ。生き抜くのに必要な事、それをお主に伝えよう」
「……でも、それは」
こんな僕に出来るのだろうか。覚えられるのだろうか。
「クロード。いくら我であっても、レベルアップさせずにお主の体や頭を成長させるのは無理じゃ。しかしそれと知識を詰め込むという事は全くの別物じゃぞ」
「知識を詰め込む、ですか?」
「そうじゃ。お主は物事を覚えられないのでは無く、覚え難いのじゃ。であれば、何度も何度も反復して頭に覚えさせれば良い」
覚えられないじゃなくて、覚え難い。
ティナさんのその言葉を聞いて、もしかして僕はただ努力が足りなかっただけなのかもしれないとこの時思った。
「クロードよ、字は書けるか?」
「……ごめんなさい、書けません」
「そうか。ではまず、そこから教えようかのう」
何てことも無い様子でティナさんはそう言った。