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トライアウト

作者: 相川智之

「誠に残念ですが、当球団は来季の契約を更新しないことに決定いたしました」

 電話越しの声は、ひどく冷めていた。おそらくこの電話の前にも、同じやりとりを何度もしているのだろう。プロとしては、必ず覚悟しなければいけない電話。まるで他人事のように、西村哲哉(にしむらてつや)はそう考えていた。

 電話越しの声は余韻も何もなく、書類手続きの日程だけを伝えると、「失礼します」と言って通話を切った。

 無味乾燥な機械音が受話器から漏れる。だがその音は彼の耳元へは届かず、意識は静寂な部屋の中に溶けこんでいた。

 人生が大きく変わったその日、その時の部屋の様子を、哲哉は一年経った今でも覚えていた。それは昼下がりの休日であり、窓辺からは秋の日差しがさしこんでいた。娘の那奈(なな)はリビングでクレヨンを夢中に動かし、彼はというと、第二子を生んでまだ入院中の妻を見舞いに行こうかと、準備をしていた矢先のことであった。

 十月二十四日。その日、哲哉は戦力外通告を受けた。

――パパ?

 あどけない声が、立ち尽くす哲哉を呼びかける。まだ幼稚園に入ったばかりの彼女に、父の異変は分からない。できあがったばかりの絵を早く見てほしくて、那奈はただ催促しているのだ。

 彼は振り返り、床に寝そべっている那奈の前でしゃがんだ。不思議そうに、彼女は父の顔を覗き込む。透き通るような髪に、お気に入りのヘアピンをつけた彼女の頭を、哲哉はぐしゃぐしゃと撫でた。

「もう時間だ。そろそろ、ママのところに行こうか」

 彼の声は、震えていた。

 

 風を切る轟音が響いた。夜の公園、古ぼけた街灯の下、哲哉は無心でバットを振る。入居している団地の近くには、手ごろな公園があった。ジム帰りにそこで素振りをするのは哲哉の日課となっている。現役時代に慕っていたコーチが教えてくれたフォーム通り、忠実に振っていく。

 一年前に戦力外とされてから、この習慣を始めていた。朝早くに家を出ると、夜の七時までは絶対に家へ帰らない。そう、彼は心に決めていたのだ。

 それは哲哉のせめてもの意地。父親が手持無沙汰で家にいる姿を子供たちに見せたくなかったからであった。

 塗装のはがれた時計台を見やり、その日の練習を終える。吐息は白いが、哲哉の身体は汗でぐっしょりと濡れていた。したたる汗を手でぬぐい、彼はバッグから透明なプロテインシェイカーを取り出した。すでにボトルの中には粉末は入っており、それを公園の水道水をそそいで混ぜ合わせ一息に飲み干す。

 高校の頃となんら変わらない習慣。つねに肉体を気遣うことを念頭に置いていた。ただ昔と明確に違うのは、今では投球練習をしなくなったぐらいであろうか。

 汗をタオルでぬぐい、バットをしまう。そのままバッグを背負うと、マンションの階段を上って帰宅する。団地の四階。そこが西村哲哉としての家だった。

 夫婦ともに、もともとこの団地に定住するつもりはなかった。家を購入する資金が貯まるまでの仮屋であるはずだった。そう考えていた頃も、今は懐かしい。

 四階まで上がるのは、足の腱を伸ばすには丁度いい整理運動だった。一段一段、ふくらはぎのストレッチを繰り返していく。ゆっくりと上り切ると、かすかに子どもたちの声が聞こえてきた。奔放に育ててしまったせいなのか、外まで聞こえるさわがしい家庭だった。その声を聴くだけで哲哉の頬は緩んでくる。足取り軽く、彼は重たい扉を開けた。

「ただいま」

 玄関の入り口付近にバッグを置く。いの一番に反応したのは娘の那奈だった。軽やかな音と共に玄関へと走ってくる。肩までの短い髪に、ませたおしゃれな髪留めをつけている。

「おかえりぱぱ!」

 甲高い声とともに抱きついてくる。哲哉は両手を伸ばし、そのまま愛娘を抱きかかえた。

「きょうはようちえんでね、しらゆきひめをしたんだよ」

 那奈は嬉々とした様子で彼に今日の出来事を話していく。なんでもしゃべる、元気な娘だった。

 哲哉はうんと頷きながら片手でシェイカーを取り出すと、リビングへと向かう。廊下をくぐると、すぐにいい匂いがしてきた。ソースを炒めた時のつんとした、舌をくすぐるような匂い。今夜はハンバーグだなと彼は頭の片隅で予想した。

「おかえりなさい、あなた」

「ただいま」

 キッチンから妻の遙香(はるか)が顔を出した。

「先に子供たちとお風呂に入ってもらえる?」

「わかったよ」

 哲哉は手に持っていたシェイカーをいつも通りに流しへ置くと、もう一人の息子のもとへと向かった。

 リビングの狭いフローリングの上には、所狭しとプラレールの線路が敷かれている。それは昨年に生まれた第二子への義兄のプレゼントだった。そのレールの中央に、一歳になったばかりの拓海がゆったりと座っていた。

「たくみ、おふろ!」

 那奈の声に、拓海は首をこちらに向けた。四つんばいに、そしてゆっくりと立ち上がると、一歩二歩とこちらに歩いてきた。ぎこちなく、よたよたと歩いている。

 まだ歩くことは出来ない。三歩目のあたりで、哲哉は駆け寄って空いた腕で息子を抱き上げた。

「うまくなったなぁ」

 返事はなく、拓海は指をくわえたまま。言葉はある程度には理解しているが、まだしゃべるのは難しい。二人を抱えると、哲哉は脱衣場まで運んでいった。風呂場では子供たちを順番に洗っていく。そして二人の体を拭いて服を着せると、哲也はもう一度湯船に浸かった。

「ふぅ」

 意図せずに声が漏れる。このひとときが、彼にとって一番の楽しみだった。風呂に入るときも体調管理は徹底としている。体の軸がぶれないようにと、縁に肘をかけることはしない。

 肩まで湯船に浸かる。体は休めているが、心の筋はいまだ張りつめている。実際、哲哉の眼は虚空ではなく正面を注視していた。

――明日。

 明日の正午に、トライアウトが行われる。脱落者を救済する唯一の楽園。無謀と言われようとも、哲哉にはその場所以外、道はない。そこで、闘うしかないのだ。


 自由契約となった彼は昨年、自分を拾ってくれる球団を探すために再雇用の場であるトライアウトに挑戦した。一軍のレギュラーではない哲哉にとって、その門は限りなく狭い。それでも、わずかな希望にすがって臨んだ。

 広々としたマウンドに差し込むは晩秋の陽射し。眺めている観客はわずかばかり。声援はない。それでも意気高く、哲哉は打席に立った。やり直しのないトライアウト。その日、彼は奇跡的にも三本のヒットを放った。

 呆然と外野を見やる。望外の喜びが、胸を突き上げた。七打数三安打と、彼の中では最上の出来映えであった。今までにないほど、彼の心は躍動していた。

 わずか一時間あまりのトライアウトを終え、各自がグラウンドを離れていく。ロッカールームへ哲哉も戻ると、懐かしい顔が出迎えた。

「よお、西村」

「お久しぶりです、渡辺先輩」

 元球団の先輩になる渡辺が、そこに立っていた。緊張した面持ちであった哲哉の顔も自然とほころぶ。

 昨年、彼も同じく戦力外通告を受けており、今回が二回目の挑戦であった。

 昔話もそこそこに、やはり今日の成績について話題が変わった。

「自信あり、といった表情だな」

「俺はまだまだいけると思っています」

 活き活きとした表情で哲哉は言った。事実、今回の結果に彼は自身の能力に対して自信を深めている。彼のそういった表情を見るや、渡辺は思わず顔をそむけてしまった。

 渡辺はトライアウトがどういう場であるものなのかを知っていた。知っているからこそ、哲哉の朗らかな表情を直視できないのだ。まるで漫画のような、大逆転を願う眼を。

「期待するな」

 突然、冷えた声が哲哉に向けられた。哲也の表情がこわばる。

 現実を知らない彼への怒りか、羨望か、諭そうとして出したはずの言葉は、彼の意に反して激情していた。渡辺が口を押えようとも、その絞り出された激昂を哲也は逃さなかった。

「それは」

 哲哉は表情を曇らせ、先輩である渡辺を恐る恐る見つめた。

――ばかげている。

 諦めたのか、渡辺はとつとつと、哲哉の夢を崩す言葉を吐き出していった。

「トライアウトなど、出来レースだ」

 空気が重くなる。すでに、先ほどまでの和やかな雰囲気はなかった。その時の渡辺のまなざしは、投手を怯ませる時だけに見せるもの。その彼のまなざしは今、空を睥睨していた。

「スカウトの取るやつは、もう決まっている。それ以外の選手は、どんなに頑張ろうと、見向きもされない」

 彼の言葉は、考えてみれば当たり前のことであった。ただの一回の成績で、その選手の判断できるわけがない。その年のトータルでの成績を分析し、球団はすでに獲得希望選手の目星をつけている。

 そして球団の多くは事前に他球団と交渉し、放出する選手の獲得を密約している。ただ名目上、トライアウトを設けているだけなのだ。

 だが哲哉も渡辺も、大学を出てから五年間、さしたる成績を残したわけではなかった。ドラフト下位で獲得されてから幾年。代打として何回か出場はしたものの、出せた記録はせいぜいヒットを一つか二つ。残りは凡打であった。それ以外は、二軍での出場回数も乏しい。

 この日本に、たかだがドラフト六位のあぶれ者を取ろうという特異な球団などいなかった。

 トライアウトの間、現役時代に活躍していた選手の周りにはテレビカメラが回っていた。シーズンオフの冬になると、例年のように密着取材が入る。そうして取材した選手の多くは、華々しく球界へと戻っていく。それがお決まりの流れだった。

 逆転劇が起きそうにもない選手に、そういったカメラは近づいてこない。哲也にオファーがないということは、つまりそれが世間の答えであった。

 帰宅した哲哉は部屋にこもり、無心で祈り続けた。握りしめた携帯。ただ、それが震えるのを信じて。

 だが、希望の電話(ベル)は鳴らない。

 月日は流れ、秋季キャンプが終わる十一月の終わり。那奈を寝かしつけた彼は、風呂から出たばかりの遥香を呼んだ。

「どうしたの」

 不思議そうに、彼女は長い髪をタオルで拭きながらリビングに来た。横長のソファに二人が並んで座る。哲哉の真剣な表情に、彼女は自然と口を閉じた。

 言葉をつまらせながら、哲哉が告げたのは冷たい現実であった。秋季キャンプが終わった今、球団が自分を取る可能性はないということ。彼の行く当てはなくなったということ。

 それは稼げる見込みがなくなったということであり、現下、結婚生活においての最悪の事態であった。妻にとって、金を稼げない夫を支え続けるのは難しい。ただただ負担でしかない。彼もそのことは承知していた。彼女とは長い間のパートナーであったが、それでも、彼は離婚を覚悟していた。

 哲哉と遙香の付き合いは、たどれば中学時代までさかのぼる。いつも夢ばかり追いかけていた哲哉を、彼女はいつも当然のように応援していた。時にはマネージャーとして、恋人として。陰に陽に彼を支えていたのだ。

 哲哉もそれに応えようと、野球に全身全霊を注いだ。好きな野球で、遥香の笑顔が見られる。打席に立てば、彼は格好よく見せることに必死だった。

 中学、高校は何もかもが順調であった。立ちはだかる困難は、努力すれば切り抜けられるものばかり。遥香と哲哉は二人三脚で手を取り合い、困難のすべてに打ち勝ってきたのだ。

 だがその努力も、二人で誓い合ったプロへの夢も今、ついに果てた。なんということはない。それは大海を知らない凡人の宿命。哲哉の努力はもう、実を結ぶことなどない。それが何を意味するかが分からないほど、二人は若くなかった。

 遥香に話し終えた哲哉は、両手で口を覆っていた。それは心理学でいう防衛行動。実際、彼の心は妻に見せられないほどに黒ずんでいた。

 現実を直視すればするほど、彼の心には悔しさがにじみ出てくる。咆哮、発狂したくなる。まったくもって、どうしようもないほどに。

 今まで、哲哉は自分の力を信じていた。ここで終わるはずがないと。中学、高校で一番(エース)を張り続けていたのだ。そんな男が、ここで見捨てられるはずがない。だが、その誇り高き矜持はくずれていく。あの頃のあふれていた想い、夢が、彼の心を苦しめる。

 ふと、体にぬくもりを感じた。顔を上げれば、哲哉の体は妻のその小さな体に包まれていた。

「哲くん」

 柔らかなささやき。今、唯一の支えである彼女の声はいとおしかった。遙香の濡れた髪が頬をかすめる。哲哉は首もとを絡めるかよわい腕を握りしめると、ただそのあたたかさに甘えた。

 

 家族との夕食を終えた午後八時。諸用の電話を済ませると、哲哉は子供たちを寝室へ運んだ。幼稚園で借りてきたという絵本を子守唄代わりに読み聞かせる。遊び疲れていたのか、那奈は十分も経たずに眠りへと入った。

 哲哉の中では、子供の遊び相手は父なのだと考えている。那奈とは公園でよく遊び、拓海ともゆくゆくは野球をしたいと思っていた。

 プロの選手にさせたいとまで、彼は思っていない。野球とは違う幸せも、ようやく分かる歳になってきた。ただ哲哉は、公園で息子と野球をしている父子がうらやましく感じていた。そしていつかは自分もするのだと、密かに心の中で決めていたことだった。

 拓海も無事に眠り、哲哉はリビングへと戻る。中央のテーブルでは、髪を後ろでまとめた妻が日記を書いていた。

「今日も書いているのか」

「ええ。今さぼったら、未来の私たちに叱られるでしょう?」

 遙香がくすりと笑う。彼女の正面に座り、哲哉は日記を覗きこんだ。今日のできごとが事細かに書かれている

「今日はね、拓海が七歩も歩いたの。どこにも掴まらないでよ。私、感動しちゃった」

 まるで我がことのように、遙香は嬉しそうに話した。子供の成長は、二人の楽しみだった。その感動を残しておこうと、遙香は那奈が生まれてから育児日記を書き始めた。いつか子供たちが巣立っていった後、二人でその日記を読み返していく。もう一度、今の気持ちをよみがえらせる。それが次の楽しみになるのだ。

 子供の話からご近所の話、幼稚園ママの話。遙香は他愛ないことを話し続けた。それはなんとない日常の風景。明日のため、遙香なりの気遣いだった。

 できればこのまま、哲哉は妻の優しさに甘えていたかった。それは彼ならずとも、苦境に立った者が等しく感じる逃避本能。だが、それは未来を食いつぶしているにすぎない。多くの先人たちも、歴史の中でこう言い残している。おろそかにした時間の報いは、必ず降りかかってくると。

 哲哉は意を決した。

「遙香。大事な話を、しても良いか」

 刹那に、彼女の笑顔が消えた。日記帳を閉じ、彼のほうへと顔を向ける。

「もしも、もしも明日だめだったら、俺は就職しようと思っている」

 こぼれた言葉は、肌身の現実。彼の目指した浮かれた未来ではない。

「そう、なの」

「同期が口をきいてくれて、電子機器の部品工場で雇ってもいいと言ってくれた。給料は少ないが、お前たちを養うくらいはある」

 彼が言った後、長い沈黙が部屋を覆った。その間、引き留めるための言葉を遙香は語らなかった。彼女もまた、いや、家計を任されているからこそ、今の現実をより知っているのだろう。

 現在の生活費は、哲哉が選手時代に稼いだ年俸一千万ばかりと最初の契約金数百万。それを切り崩しての生活だった。娘の入園費用なども、そこから出ている。それも、いつまでもつかは分からない。拓海が小学校に上がるまでは、遙香にパートをしてもらうのも難しい。

 哲哉の肉体も、限界は近かった。来年には三十歳となり、スポーツ選手としての盛りは斜陽となっていく。

――あきらめろ。その声が、胸の中で大きくなってくる。決断する時は、すぐそこまできていた。

 うつむく哲哉とは対照的に、彼女の心はすでに決まっていた。だから次に紡ぐ言葉も、ただ慰めるために発したものではない。うまくいかないのが人生。どうしようもない時、一緒にいたい人として彼を選んだのだ。遙香は嘘偽りを持たず、言った。

「私はどんな結果でも、あなたについていきます。だから、がんばって、哲くん」

 彼女は微笑む。それは高校生のころから変わらない、哲哉の糧となる笑顔だった。彼も笑う。吹っ切れたような笑顔。

 何を恐れていたのか。愛する人が今、身を挺してくれた機会。与えてくれたチャンス。自分が作ってきたのではない。彼女もまた寄り添って、歩んできたのだ。勝つ。勝たねばならない。

 哲哉の意志は固まった。彼の生き様は、まだ朽ちてはなかった。


 十一月の朝はいつにもまして寒かった。窓の外を眺める哲哉は、肩を縮こまらせる。木枯らしは吹きすさび、まるで彼が外に出ることを(こば)んでいるようだった。

 スーツに着替え、朝食をとる。野菜の入ったスープと納豆。今朝の献立を考え、彼女は昨日のうちにスープを作ったのだろう。

 一息つくと、バットケースとエナメルバッグを肩にかけて玄関へと向かった。妻が見送りに出てくれる。いつも通りの風景。

「いってらっしゃい」

「ああ、いってくる」

 哲哉は扉を開けた。そのまま駐車場に止めてある車に乗り、球場へと向かう。

 その年は、彼が所属していた環洋ナサールズの二軍球場で開催されることになっていた。神奈川県にある球場への道筋は、まだ覚えている。

 それは哲哉の中に残る懐かしい記憶の一つ。あの頃は、一軍へ這い上がるために必死だった。コーチに頼み込んで夜まで練習していたこともある。何度も怒鳴られ、そのたびに意地を張ってぶつかりもした。

 彼を二軍のころから指導してくれた喜多川(きたがわ)コーチは、まだ在任しているはずであった。もしかしたら、今回のトライアウトを見ているのかもしれない。親身になって練習に付き合ってくれた手前、会うことに抵抗はあった。それでも、顔見せだけはしたい。彼にとって最後の恩師である。けじめぐらいはつけたかった。

 球場へは十時ちょうどに到着した。トライアウトは十一時から開始予定であり、それまでは練習時間として球場は開放されていた。割り当てられたロッカールームに荷物を詰め込むと、哲哉はまず廊下に張られている参加者リストを見に行った。今年の参加人数は四十三名。前年の六十名には及ばない。

 今年は自由契約(クビ)になった選手が少ないのか、それともあきらめた選手が多いのか。だがいずれにせよ、ここが狭き門であることには変わりはない。

 哲哉は野手リストを指でなぞっていく。先輩である渡辺の名をそこに求めた。昨年ともに闘った先輩であり、同じ苦境に立つ戦友でもあった。彼もまた、家族を抱えている。このトライアウトに懸ける想いは同じのはずだった。

 しかしそこに、探していた先輩の名はなかった。呆然とする。そしてもう一度、なぞっていく。だが何度見直そうとも、そこに渡辺の名はない。

 無情な世界だった。また一人、球界から男が消えていく。その引退には惜しむ者もなく、呆気ない。渡辺の引退を、どれほどの人が知っているのか。

 分かってはいたことだった。彼が入ってきたときも、その代わりに去った選手がいたのだ。その番が、渡辺に回ってきただけ。

 哲哉は高ぶる感情を理性で抑え込もうとした。だがそう合点しようとも、(おのの)く身体を鎮めることはできない。震える肩をおさえ、哲哉はロッカールームへと戻った。

 すでに参加者たちはグラウンドへ向かっており、部屋の中はまばらだった。使い古されているロッカーを開け、ユニフォームへと着替える。

 暗黙の了解として、選手たちは最後に所属していた球団のユニフォームでトライアウトにのぞむ。グラウンドの上はてんでばらばらのユニフォームを着た選手たちが群がっている。喜劇か否か、それはまるで野球ごっこをしている様に見える。

 スパイクのひもを締め、哲哉もグラウンドの前に立つ。入る前の一礼。一塁側の客席が来場用に開放されており、多くの人々が贔屓の選手を応援しにやってきていた。

 すでに多くの選手がストレッチやトスバッティングを行なっている。

 テレビで見た顔ぶれも多くいた。数年前には首位打者(リーディングヒッター)に輝いた選手もいる。過去にどれだけ活躍しようと、今できなければ意味がない。それが勝負の世界であり、みなが知っていることであった。一時代を気づいた男たちも入念に体をほぐし、鋭気にみなぎっている。

 ふと、バックネット裏に見覚えのある顔が見えた。

「喜多川コーチ!」

 哲哉が駆け寄ると、眼鏡をかけた男は反射的に振り向いた。そして彼を認めると、相好を崩した

「久しぶりだね西村くん」

「ご無沙汰しております」

 一通りのあいさつを済ませる。哲哉の気持ちとは裏腹に、喜多川の口数は少なかった。ここに哲哉がいる理由を、彼は痛いほど知っている。やはり、いくばくかの影が喜多川の心に差し込んだ。

「すまなかった。私の力が足りないばかりに」

「いえ、コーチのせいではありません。期待に応えられなかった自分の責任です。コーチは、よく指導してくれました」

 哲哉は無理にはにかんだ。それがまた、喜多川のレンズの奥へと突き刺さっていく。

 最初に哲哉獲得を提言したのは、喜多川だった。大学時代最後の秋季リーグ、哲哉は三本のホームランを打った。それ自体に、驚きはない。だが彼が打ったのはすべて変化球。その軌道に合わせたバットコントロールに、喜多川コーチは注目したのだ。これからまだ伸びる。そう、喜多川は賭けた。

 それから二人三脚での練習。だが、哲哉の限界はそこまでだった。いつまでも快音は響かず、ため息だけが増えていく。哲哉は天才などではなかった。ただの凡人だったのだ。そう球団が判断したのが、昨年の秋。

 喜多川が推薦してから五年。その時、哲哉は信じていた道を失った。

「思えば私が、君の人生を狂わしてしまったのだろう」

 喜多川がうつむく。

「私にはなんの権限もない。だから、頑張れとだけ伝えておく」

「ありがとうございます。精一杯、やらせてもらいます」

 一礼して、哲哉は立ち去る。会話をするだけで、彼の胸は痛んだ。一年という時の流れは予想以上に大きく、二人の間に厳然と隔たりとしてそびえたっていた。昔のような師弟関係には、戻れそうにはないのだろう。

 ベンチに荷物を置くと、哲哉はグラウンドの一角で入念にストレッチをおこなった。しばらくすると、一人の男が彼の前に立った。

「おい西川、暇そうだな」

 突然の呼びかけに哲哉は驚いたように顔を上げる。声の主は、元同期の寺田であった。とたん、哲哉の顔は無表情になる。彼は寺田という男が嫌いだった。

「何か用か、寺田」

「練習に決まっているだろう。早く立ち上がれ」

 そう言うや、寺田はボールの入った籠を哲哉に押し付けた。他に同じ球団だった者はおらず、代わりの練習相手はいない。哲哉はしぶしぶ、寺田と組んで練習を行った。

 寺田はかつて強打者として名を馳せ、甲子園の優勝を経験している。それゆえか、高卒でドラフト一位に取られたことを鼻にかけていた。歳は同じだが大卒で入ってきた哲哉を軽んじており、以前はあいさつもろくにしてこなかった。その不遜な態度は相も変わらない。

 二人はトスバッティングを行ない、フォームを確認していく。寺田は後輩にひけらかすかのように、自らのバッティング理論を語りだしてきた。その切り口は傲慢な理論から、先輩を含めたレギュラー陣への非難に移っていく。誰彼構わない傲岸な態度への苛立ちを抑えながら、哲哉は何か参考にならないかと頷いて聞いていた。

 実際、寺田のフォームはコンパクトであり、破壊力に満ち満ちていた。それがまた、哲哉にとって悔しかった。

 午前十一時。「ただいまより、シート打撃に入ります」とアナウンスが入った。いよいよ、本番だった。

 ベンチへと戻る。マウンドには、早くも先発投手が立っていた。投手は打者六人ずつで交代していく。一方、打者の持つチャンスは七打席。

 プロならば三打席に一度でも打てれば充分だが、トライアウトは違う。

 トライアウトに出る投手からの三割など、プロに通用しない。一流の投手から三割を打って初めて評価されるのである。それは、前回のトライアウトで厳然たる事実として理解した。

 この一年間で何も実績のない者が採用されるためには、その全てに結果をださねばならなかった。それを熟知している者は、バッティング以外にも守備や走力を見せるために守備でも気合が違う。

 ひるがえって、トライアウトの投手評価も同じである。トライアウトのバッターから打たれる程度では話にならない。全員を抑えてはじめて、評価するかどうかが決まるのである。

 ウグイス嬢が投手とバッターの名前を呼ぶ。マウンドに立ったのは、四十二歳のベテラン投手。哲哉の少年時代に球界のエースと呼ばれた男であった。

 対してバッターは無名の若手。おそらく育成枠で採用されたものの、即座に見切りをつけられたのだろう。

 ピッチャーが振りかぶる。往年と変わらない豪快なフォーム。投げた。バッターが構える。白球。ボールを真芯で捕えていた。天高く飛び、レフトスタンドに飛び込む。ホームランだった。

 球場が拍手喝采に湧く。一時代を築いた投手に、かつての姿はなかった。三振を()り続けた剛速球は見る影もない。落ちぶれたのだ。

 それからもその投手は打たれ続けた。哲哉を含め、ほぼ全員のバッターに安打、四球を許し、打ち取れたのもフェンスぎりぎりのセンターフライ。かつての面影はなく、ただまばらな拍手とともにマウンドを降りていった。

 彼の挑戦は終わった。去り際の後ろ姿は、哀愁に覆われていた。それでも哲哉には、情を移す気にはなれない。余生のある大投手にかまっている暇はなかった。

 バッティンググローブを外し、哲哉はベンチへと戻る。

「よかったな、ちょろいのと当たって」

 寺田が笑う。他の選手の視線が痛い。哲哉は何も言わずにベンチへ腰を下ろした。

「あれは打てて当然だな」

 寺田はまだにやにやとしながらグラウンドを眺めており、哲哉の冷たい視線には気づいていなかった。

「少しは相手を認めたらどうだ」

 哲哉の問いには答えず、寺田はただ鼻で笑うとバットを持ってグランドへと出ていった。ネクストバッターズサークルは特に決められておらず、次のバッターはベンチ前で待つことになっている。

 寺田の番となり、バッターボックスへと入っていく。甲子園ではホームランバッターとして名を馳せ、そのままプロ入団した男。さすがに場数を踏んでいるのか、構えには覇気が満ちていた。

 投手もその並々ならぬものを感じたのか、投球フォームがこわばる。その初球、ぎりぎりのボールゾーン。寺田は振らない。選球眼は確かだった。彼の余裕ある構えに、鬱屈としたものが哲哉の中に築かれていく。

――当たるな。

 第二球。ストライクゾ-ン。寺田の振り上げた左足が大地を踏みしめる。乾いた音と同時に、鋭い打球は外野へと飛ばされた。フェンス直撃の二塁打に、球場が湧いた。二塁にスライディングした寺田の表情も、まんざらではなさそうであった。

 そして哲哉の二打席目。これはバットの端に当たり、かろうじてのポテンヒット。三打席目はフルカウントからの四球。確実に一歩ずつ、前へ進んでいく。だがそれは哲哉だけではなかった。他の打者もまた、必死の形相で次へと繋いでいた。いまだ気を抜くことは出来ない。ミスの許されない状況に、哲哉の顔は次第にこわばっていく。一打席、一打席と精神は削られていく。

 積みあがっていく成功が、重荷となる。気づけば、指の感触がなくなるほどにバットを握りしめていた。彼が凡退をしないのを見て、寺田の表情は徐々に暗くなっていく。

「必死だな」

「あたりまえだ」

 無理に茶化してくるのを、哲哉は無愛想に返す。寺田は前の打席に凡退していたからか、そのあてつけを哲哉にぶつけた。

「余裕がねぇな。血迷って結婚なんざするからだ。適当に遊んで捨てておけば、そう追い込まれることもなかっただろ。馬鹿だな」

 寺田は悪びれる風ではなかった。哲哉の苛立ち、それに彼が気づくことはない。彼の中ではただ正論をふりかざしているだけ。哲哉の家族への想いなど、一顧だにしていない。

「せいぜい頑張りな」

 そう言って寺田はグローブを掴むと、守備へと向かっていった。

 四打席目。哲哉は震える手を抑え、バッターボックスに立った。ピッチャーは数年前にセーブ王にまで輝いた男。故障が原因で戦力外となり、奇跡的に復帰したようであった。その奇跡も哲哉にとっては、災厄でしかない。

 第一球、ピッチャーが構える。振り上げた足。風が、突き抜けた。動くことは出来なかった。それほどまでに、彼は球を目で追えなかった。

 バットでホームベースを叩き、哲哉は辛うじてポーカーフェイスを保つ。だが、心臓はこれ以上に無いほど高鳴っていた。

――打てない。打てるわけがない。

 恐らく、この投手にはもう獲得球団はいる。ただそれでも、一球たりとも手を抜いていない。

 第二球。またもストライクゾーン。遊び球はなく、真っ向から勝負に出る。この時、すでに哲哉は見抜かれていた。初球、彼は手を出さなかったのではなく、出せなかったということを。

 慌てた哲哉はがむしゃらに振る。当たれと祈るばかりに。それで当たるわけなど、無い。

 振り遅れ、みじめな大空振り。

 カウントはツーストライクと追い込まれる。あと一球。奈落の底、そのわずか手前。硬直した体を動かしてほぐし、何とか構えなおす。

 改めて、プロとの厳然たる差を哲哉は見せつけられた。もはや恐怖ではなく情けなさが、彼の涙腺を通ってにじみ出てきた。

 この一年間、遙香にどれだけ多大な苦労をかけてきたかは知っている。それなのに。その成果は今、ただの二球で崩れ去った。せめて何か、応えなければ。当てるだけ。

 ピッチャー構え。しなるように、腕は振り下ろされる。球はストレート。しかと目でとらえ、バットを当てにいく。

 鈍い音。それと共に、打球はピッチャーの足元を抜けた。一瞬の静寂。

 二塁手が動く。哲哉はすぐさま、走り出した。

 打球は真芯に当たらず、威力はない。二塁手は同じくトライアウトの受験者。この当たりを止めれば、高い評価を得られる。だから必死に、二塁手は怪我も構わずに跳びこんだ。土が口に入りながらも、グラブはボールを逃がさない。

 哲哉も意地だった。走る。わずかな可能性に賭け、一塁へ。二塁手から送球される。悪あがきのヘッドスライディング。

 審判が腕を振り下ろした。観客席から溜息が漏れる。

「アウト」それが意味するのが何かを理解するには、少し時間がかかった。コールされたとき、彼の意識はただ、虚空を彷徨っていたのだ。

 彼の戦いは終わった。

 それからの哲哉の打席は、ことごとく地面を這う凡打。挽回を試みるたびに、その全てが空回った。もはや最後の打席では、バックネット裏のスカウト達は彼を一瞥さえしなかった。

 対して寺田は一度凡退があったものの、そのあとをきっちりと決めスカウト達の注目を集めた。

 十二時を過ぎ、アナウンスが流れる。全日程が、終わったのだ。選手、観客達は一斉に帰っていく。

「この分なら採用されるな。いや良かったよかった」

 にたにたと笑いながら、寺田がベンチへ戻ってくる。昨年にも結果を残している彼は、明日にでも球団から声がかかるのだろう。みじめな思いを抱えそうな気がして、彼は一人ひっそりとその場を去った。

 ロッカールームへの足取りは重い。吐き出したい胸の重みが、足枷となって前へ進むことを拒む。家族への謝罪。親不孝への謝罪。追いかけた夢を諦めることの、自分への謝罪。いよいよ直視したくない現実が前に立ち塞がり、彼の弱った心は立ち止まれと命ずる。

 過ちは何だったのか。中学も高校も、彼は野球一筋であることを選択した。それが哲哉の選んだ道。嫌になったこともある。辞めたくなるほどの練習もあった。

 プロに入ってからも、休日平日は野球だった。果てしなく続く苦難の道。がむしゃらに突き進んでいく。それほどまでに、夢中だったのだ。どうしようもないくらい、好きだったのだ。

 才能もないのに、馬鹿らしい。何千、何百万という人々がこの道を目指しているのだ。哲哉の努力など、それに比べれば歯牙にもかけられないのかもしれない。

 進めば進むほどの、苦行。家族にも、不幸を背負わせた。定まらぬ生活。それは、哲哉自身が地に足をつけず好きに生きた代償。夢への羽ばたきをやめ、大地を踏みしめた今、ようやく自分もその代償を背負った。これからは、その償いの時なのだ。

 ようやく、哲哉はロッカールームへ辿り着く。スーツへ着替えた彼は荷物を抱え、ロッカールームを出た。もう二度と来ることのない廊下。

 その廊下を歩いていると、一人の男に声をかけられた。

「しょぼくれた顔をしているな」

「喜多川コーチ……」

 哲哉が振り返る。そこには帽子を目深にかぶった中年の男。球団ジャケットが似合う、紛うこと無き恩師だった。

「私の知っている西村は、もっとがつがつしていたはずだ」

 眼鏡の奥が光る。

「人生に、けじめをつけたところです」

「……ふむ。君はなにがなんでも野球をやりたい子だと思ったのだがな」

「それも、終わりです。私にも、守らなきゃいけないものがあるんです」

 そう言われると、喜多川は俯き押し黙った。それから意を決したように、ふたたび西村に目をやる。

「もしかしたら、今から言うことは君を最悪の道に追いやるかもしれん。だがそれでも、言っておきたい。これは君の野球人生の、ラストチャンスだ」

 それから淡々と、喜多川は語りだした。

 

 

 スーツへと着替えた彼はこの日、家へ帰ることはなかった。ネットカフェで黙々と、パソコンをいじり続けた。

 今日、喜多川に言われたことを調べていたのだ。哲哉が生き残るすべは、野球統計学(セイバーメトリクス)にある、と。

 セイバーメトリクスは、野球の複雑な確率や選手の能力を評価する米国発祥の独自の統計学である。日本では慣習や思い込みで取られるバントの非有効性を導き出したり、偶然性を排除した選手の純能力を指標する計算式を発明したりするなど、メジャーリーグの発展に多大な貢献を果たしていた。

 哲哉の所属していたナサールズの次期監督は、アメリカでこのセイバーメトリクスを習熟したものだった。ナサールズは万年Bクラスにとどまり、球団の改革が声高に叫ばれていた。そしてこの監督による新体制でもって、球団を大胆に変えようとした。

 セイバーメトリクスは発展段階であり、それゆえに今も従来の常識を次々に打ち壊している。喜多川が哲哉にかけさせたのはそこだった。

 今はまだ眠っている新常識があるはず。その解法を見つけられたならば、そこに活路がある。

 翌朝。妻は何も言わずに迎えてくれた。逃げだしてしまったことも、妻の勘というもので察していた。

 遙香は「おかえりなさい」とだけ声をかけた。その言葉だけで、涙が溢れそうだった。「ただいま」の言葉を、哲哉は口に出せていたかは覚えていない。ただ、その言葉にのせるはずだった想いの分だけ、抱きしめていたはずだ。

 その日、彼は遙香にある一つの決断を告げた。二月の末まで、各球団が行なう春季キャンプまで野球を続けたいということ。それは希望的観測に縋ったものではなく、勝算を最大化した計画。哲哉の今までの経験と、情熱。それが導き出した唯一の解法。

 遙香は頷き、これで最後という約束をして三ヶ月の猶予を得た。

 女々しい行為。そうなじられても文句は言えない。これで最後と言っていたのに、待ってくれと泣きつく。勝負の世界でそんなことは許されない。最初で最後。好きなもののために、プライドは捨てるのだ。

 そして許してくれた妻への愛を、忘れない。後々のことを考え、拓海を保育園に入れて遙香はパートをやると言ったのだ。男が働くのだと旧式の考えに凝り固まっていた彼はそう反論すると、こっぴどく怒られた。

 二人三脚。みんなで家族を幸せにしていくんだと、彼女は熱を込めて言った。

 三ヶ月。彼は再びトレーニングを始めた。喜多川にも伝え、それに見合ったメニューを忠実にこなしていく。

 妻の出す料理も、タンパク質を中心とした筋肉増強を促進するものだった。

 繰り返すハードトレーニング。その内容は、野球をかじったことのある者が見れば全くの暴挙。だがそれが彼の唯一残された道なのだ。王道を通る資格は消えた。それでも遥かなる高みを望むなら、獣も通らない隘路を進むしかない。それは筆舌に尽くしがたい、天山雪後(てんざんせつご)の険路。

 彼は黙々と、登り続けた。妻も子供たちも、応援している。彼は決心していた。絶対に這い上がると。

 子供たちとの交流も断った。だめな父親であることは分かっている。人を犠牲にする夢。それでも、人生最後だからと、責任は全て自分が受けきると、決心していた。これでだめなら、俺は生涯を捧げて家族に尽くすのだと考えていた。

 年が明け、一月の初旬。トレーニングの成果は、徐々に現れ始めていた。わずか三ヶ月。それで、今までの自分の野球を全て変えるのだ。まだ、時間は足りない。

 朝七時から、夜十時まで。その前後にはストレッチがある。そのような毎日がえんえんと続いた。

 そして春季キャンプ当日。再び、トライアウトの行なわれた球場へと向かった。そこで、二軍に混じった入団テストが行われる。名目上はトライアウト合格者向けの最終テスト。あれから、三ヶ月が経過していた。

「待っていたよ」

 球場へ着くと、気さくに喜多川が声をかけてきた。

「うむ、どうやらメニュー通りに、鍛えたようだね」

「これが、最後の野球ですから」

「そうなるかどうかは、ここでの君の成果次第だ」

 口元を上げ、不敵に笑う。哲哉の背筋が思わず伸びた。

 哲哉はロッカールームで着替えさせられ、グラウンドへ向かった。一礼し、グラウンドへ入る。二軍の選手たちがストレッチをしている中、他球団のユニフォームを着ている選手も少なからずいた。トライアウトで見た顔であったり、全く知らない外人であったりした。

 哲哉が見渡していると、背後から英語が飛び交うのが聞こえた。振り返る。青い瞳に金色の髪。大柄な外人が監督のジャンバーを着ていた。

「彼がうちの新監督、ショーウォルターだ」

 喜多川が小声で紹介する。ショーウォルターが一瞥した後、通訳が前に出た。

「これよりテストを始めます。方法はトライアウトと同じ。打者は七打席、投手も七人の打者と勝負してもらいます。それでは呼ばれた順に、打席に立ってもらうようお願いします」

 通訳はそう言うと、あとを喜多川に託した。監督は二言ほど告げると、バックネット裏へと向かっていった。

 喜多川が投手と野手の順番を告げていく。哲哉の番は最後だった。

 順繰りに選手が打席に立つ。みな、いずれかの一芸に秀で者達ばかりであった。新たな何かを見つけるために、監督も必死なのだ。

「次、西村哲哉!」

 喜多川が高らかにその名前を呼ぶ。一打席目、バッターボックスに入り、構える。途端に、笑い声が聞こえてきた。

――なんだ、あの構え。

 参加していた選手の全員が好奇な目で見、ささやきあっていた。

 哲哉はバットを短く持ちながらもバッターボックス後方に立ち、膝と腰はかなり落としてパワーバッターのように構えていた。

 ピッチャーもへらへらと笑っている。まるで野球初心者を見るかのように、舐めきっていた。

 第一球。ストライクゾーン。哲哉はしかと目でボールを捉える。そしてありえないほどのアッパースイングで、ボールを叩き上げた。

 宙へ浮かんだボールは深々と外野の奥へと向かい、ファールグラウンドに落ちていった。

「ファール!」

 審判のコールが響く。場内が静寂に包まれている。

 第二球。またもバットはボールを捉え、叩き上げる。今度はバックスクリーンへとボールは飛び、その手前で失速。センターフライで打ち取られた。

 第二打席。哲哉はまたも外野フライ。三打席目。外野フライ。

 その頃になると、みな状況を察しだした。

 ――なんだ。見かけ倒しか。

 そう、ささやきあう声が出てくる。実際、大柄な哲哉の体格と構えとは裏腹に、打球は飛ばない。

 ライバルが消えたとばかりに、皆は彼に対して興味を失っていった。ただ一人、バックネット裏の男を除いて。

 ショーウォルター監督は通訳に伝えると、投手の交代が告げられた。マウンドに立ったのは、ナサールズの絶対的エース、眞島であった。

「ショーウォルター監督からの伝言です。今打席に立っている打者は引き続き、こちらがやめと言うまで眞島と対決し続けるようにとのことです」

 通訳が伝えると、選手たちはざわつきだした。なにが起こっているのか全く分からないという表情だった。

 ただ、喜多川と哲哉だけが状況を理解していた。そして、今が正念場であるということも。

 眞島は剛速球だけでなく、多彩な変化球も持ち合わせている。当てるだけでも至難の業だった。

 だが四打席目、哲哉は変化球に合わせてコンパクトなスイングで当て、そして押し上げた。ボールは上空を飛び、またも外野フライ。

 事ここにきて、周りの選手たちもなにが起きているのか理解し始めた。哲哉はただの一度も、ゴロを打っていない。打球全てが、外野にだけ飛んでいく。

 これが、哲哉の出した答え。

 外野フライ専門のバッター。犠牲フライが必要な場面ならば、まず百パーセント成功する。その独特にアレンジされたアッパースイングがそもそも、内野ゴロを許さなかった。そして短く持ったバットが、球の変化に合わせていく。

 トライアウトの時に一度たりとも三振にならなかったこと。そのバットコントロールを喜多川は知っていたからこそ、この技を教えた。低く構え、身体がぶれることはない。

 外野へは飛ぶが、短く持ったゆえに威力はない。外野を抜けることはない。だが何度勝負しても、ことごとく外野へと飛ばされた。

 哲哉の意図を知った眞島は、低めへとボールを集め出した。上へ押し上げるのが一番難しいコースであった。ここで縦に変化するボールを投げれば、まず打たれることはない。

 だが、哲哉はそれを全てカットした。わずかにバットへ当て、ファールで粘っていく。そしてコントロールがずれ、浮き上がったボールを外野へと押し上げた。

 打球は強風にあおられファウルラインぎりぎりを飛び、そしてレフトスタンドへ吸い込まれていった。

 勝負は決した。

 ショーウォルター監督がやめの合図をだし、哲哉の打席は終わった。

 

 十一月も半ばになり、ふたたびあの冬がやってきた。その日は飲み会もそこそこに、コートを巻きこみながら家へと走る。今日は家族に会いたい。そんな気分だった。

 住む家はまだ、ぼろぼろのマンション。一軒家が買えるようになるまで、そこで辛抱するんだと妻に言われてしまった。頭の上がらない哲哉は、しぶしぶ承諾。あいかわらず、子供たちの声は外に漏れているままだった。

 四階までの階段を一段飛ばしで上がっていく。扉の前で息を整える。きゃっきゃとさわぐ那奈たちの声。

 哲哉はその日のウィニングボールを手に持ち、扉を開けた。


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[一言] ひさしぶりにしびれる作品を読ませていただきました。感謝します。
[良い点] 素晴らしい!徹底したリアリズムと映画「ロッキー」や「マネーボール」のような展開。夢を持つことだけが語られ、それを叶えるための努力が軽んじられている現代において、この小説の持つ厳しさに胸を打…
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