第95回 フォンの親父
緑の芝生の絨毯が、穏やかな風に静かに波打つ。
ザワメク草の葉の音と合唱する様に、セミ達の鳴き声が響く。薄雲が張り、青白く見える空を飛び交う鳥達が、甲高い声で鳴き、辺りにその声がこだまする。
芝生の絨毯には綺麗に整えられた道幅の広い道が一筋だけ伸び、そこをフォン達一行が歩いていた。大きな鞄を背負ったフォンは、更にルナの荷物も背中に担ぎ少々つらそうに表情を歪める。そのフォンの隣りにはルナとカインがいて、フォンの事を心配そうに見つめていた。
一方、先頭をゆくティルは地図を睨んだまま何処までも伸びる一本道を足早に歩く。その少し後ろを歩くワノールも地図を見ながら、目的地であるグラスター王国の首都レイストビルの場所を確認する。地図を見れば見るほど、その距離の遠さを実感するためワノールは頭を抱えため息を吐く。そのワノールの苦悩も知らず、ウィンスは流れる風を肌に感じ嬉しそうに笑っていた。
「アハハハッ。すげぇ〜っ。こんな風の香りあの村じゃ絶対に嗅げない香りだ!」
歩きながら何度もクルクルと回転するウィンスを、冷たい目付きで睨むワノールは更に大きなため息を吐いた。
最後尾からその様子を見据えるフォンは、苦笑し呆れた様に言う。
「流石のワノールも、もう呆れて何もいえないって感じだな」
「そうだね。ウィンス君って、独特の雰囲気があるって言うかさ」
「まぁ、オイラも時々絡み辛いって感じるけど、ウィンスって独特の雰囲気があるのか」
一つ謎が解け納得するフォンは、目を細めてウィンスの背中を見据える。楽しそうに微笑むカインは、フォンの向う側に居るルナに目をやる。一瞬、ルナと目が合いカインはニコッと微笑む。すると、ルナは少し会釈する。
その後、沈黙が続きセミの鳴き声と鳥の鳴き声が交互に響き、近くに聳える木々の葉がざわめいた。茶色のフォンの髪が穏やかな風に微かに揺れる。薄らと流れる汗でフォンの服は少し湿っていた。それは、皆同じだが、フォンの汗は異常な程だった。この汗の原因は未だ癒されていない背中の傷だ。今は厚手のコートと鞄で見えていないが、実際は血が滲み服にべっとりと付いているのだ。
「ハァ…ハァ……」
「大丈夫? 大分息が上がってきてるけど」
「大丈夫。ちょっと、暑いだけだよ」
「僕、荷物持ち変わろうか?}
「きにするなよ。オイラは全然平気だって」
白い歯を見せニコッと笑ってみせるフォンだが、その笑みは少し引き攣って見えた。少しフォンの事が気になったルナがふと振り返ると、フォンの服の裾から血が滴れているのが見えた。この時、ルナはフォンの背中には酷い傷があるのだと感じ、フォンの前に立ち歩みを止めた。
「どうしたんだ? ルナ。早くしないとティル達に話されちゃうぞ」
「何言ってるんですか! 早く荷物を置いて服を脱いでください!」
「エッ! る、るるるルナ! なに言ってるんだよ! こんな所で服を脱ぐだなんて!」
ルナの言葉に妙な考えを頭に過ぎらせ、カインは焦りだす。オロオロとするカインは頭を抱え戸惑いながらフォンとルナを交互に見る。表情を変えず真剣な面持ちのルナに、フォンは痛みに堪えながら明るく微笑み、軽い口調でルナに言う。
「いきなりどうしたんだよ。こんな所で服を脱げだ何て。まさか、オイラに何かする気じゃ!」
「冗談は止めてください! フォンさんは背中に怪我しているんですよ!」
「ハハハハッ。何言ってんだよ。オイラが背中に怪我を? それは、笑えない冗談だぞルナ。さぁ、行くか」
笑いながらそう言うフォンだが、歩みだそうとするフォンの目を確りと見つめるルナの目は若干だが潤んでいた。そんなルナの目に見つめられ、フォンは諦めたようにため息を吐き、笑みを浮かべるとゆっくり荷物を降ろした。慌てていたカインは冷静さを取り戻し、先行する三人を呼び止めに行った。
荷物を降ろしたフォンは渋々とルナに背を向け着ていた厚手のコートを脱いだ。コートの下は滲み出した血で真っ赤に染まりシャツの上からでも分かるほど痛々しい傷が浮かび上がっていた。その傷を見るなりルナは顔を顰め、ゆっくりとフォンのシャツをめくり上げた。薄らとした赤い血が背中を流れ、日の光に少しテカる。
「どうして言ってくれないんですか。こんなに酷い傷を負ってるのに」
「大した事無いと思ってたんだけどな」
「大した事ない傷でも、私に言えばちゃんとした処置くらいしますよ」
「けどさ、あんまり心配掛けたくないしさ。ルナもその力を使うと相当疲れるんだろ?」
少々ルナを気遣うようにフォンが言う。背中の傷に右手を翳すルナは、悲しげな表情を浮べた。背を向けているフォンは、そのことには全く気付いてはいない。
「私は、何も言ってくれない方が心配です。本当は怪我をしてるんじゃないかって、心配で心配で――」
「ごめん。何か逆に心配掛けたみたいで」
「本当です。これからは、ちゃんと言ってください」
「うん。そうするよ」
明るく笑顔でフォンはそう言った。その顔はルナには見えないが、何と無く想像は出来る。それは、フォンがいつも笑っているから。
それから、フォンの背中の傷を治療するのに時間がかかりこの日は結局これ以上は進む事が出来なかった。その為、草原の草を少しむしり焚き火を起こした。もちろん、その火を熾したのはカインで、焚き火は赤く綺麗に燃え上がる。
傷を治療するので大分疲れが出たのか、ルナは一足先に眠りにつき、フォンとカインは焚き火の傍に座り楽しげに話をしていた。
「オイラさ、幼い頃に井戸に落とされてさ。深くて暗くて、何も見えないんだ。上を見上げると円く切り取られたように空が浮いてて、もう怖くて怖くてさ。多分、その時からだと思うな虫が苦手になったの」
「虫が? 今の話しに虫なんて出てこなかったけど」
「実は、そん時井戸の中に沢山虫が居てさ、その虫たちがオイラの服の隙間から入ってきてさ。気持ち悪いのなんのって――。う〜っ。思い出すだけで背筋がゾッとするぞ」
「それで、虫が……。でも、よく井戸から出られたね。誰も気付かなかったんでしょ?」
不思議そうにカインがそう言うと、フォンが何か思い出す様に目を閉じゆっくりとした口調で言う。
「確かに村の人は誰もオイラが井戸に落ちたのに気付かなかった。しかも、井戸はもう何年も使われてなくて発見される確率は殆どゼロに等しかった。でも、親父だけはオイラが井戸に落ちた事に気付いてさ。もう、泣いて助けを求めたね」
「へ〜っ。良いお父さんなんだね」
「んにゃっ。あんまり良い親父じゃなかったな」
複雑そうな表情をするフォンは、昔を思い出したのか暫し一人で苦笑していた。その理由が分からずカインが首をかしげていると、フォンが続きを話し始めた。
「あの親父、人が泣きながら必死で助けを求めたのに、人を指差して大声で笑った後、『怖かったら、自分の力で上がって来い』って、言ってな。息子が助けを求めてるのになんて事言う親だと思いながらも、オイラ必死で井戸を登ったね。この日、オイラは思ったね。絶対に親父の力は借りないって」
「は、ハハハッ……。何か、凄いお父さんだね」
「全くだ。でも、何故か母さんや他の村の人には優しくてさ。オイラ、実は親父の子供じゃないんじゃないかって思った時もあったな」
懐かしそうにそんな事を言うフォンの顔はとても楽しそうで嬉しそうでもあった。空に煌く無数の星を見据えるフォンは、また思い出し笑いをする。そんなフォンの顔を見ているカインも、楽しそうに笑みを浮べ訊く。
「何々? 次は何を思い出したの?」
「実はオイラ、いじめられっ子だったんだ」
「エッ! フォンがいじめられっ子? それは、嘘でしょ?」
「本当だって。だから、村の子供たちに仲間はずれにされたりしたな。そんなある日だった。村の子供達に子猫がいじめられてて、オイラそれを助けようとしたんだ。その結果、逆にオイラがその場に居た子供達にボコボコにされたんだけどさ」
「その状況の何処に、思い出し笑いをする場所があるのさ?」
不満そうにカインがそう言うと、「まぁまぁ、最後まで聞けよ」と、フォンはマイペースな口調でそう言い楽しげに言葉を続ける。
「その時、たまたま親父が通りがかってさ、オイラが殴られてるの見て、物凄い剣幕でいじめてた子供達を殴りつけてさ。びっくりしたよ。井戸に落ちても助けてくれなかったのにって。その後に、物凄く母さんには叱られたけど、何だか嬉しくてさ。その時かな、親父に言われたの」
「その後に何か言われたの?」
「あぁ。『困っている人や弱い者を決して見捨てるな。たとえ、それが勝ち目の無い戦いでも。そして、お前は強くなれ。そんな人達を守れ様に』って。その言葉を聞かされてだな。オイラが体鍛える様になったのも、他の世界を見てみたいと思ったのも」
懐かしそうにそう語るフォンの横顔を見ながら、カインが羨ましそうに言った。
「いいな。そんなお父さんがいて。僕、家族の思い出とかないからさ」
「そっか。そんな事とは知らないで、こんな事話して悪かったな」
「気にしないで。僕もフォンのお父さんの話が聞けて楽しかったから。それで、今お父さんは元気かな?」
「親父さ。村を守るために死んだんだ。十年ぐらい前に。ついでにさっきの話しは十一年前の話ね」
明るくニコヤカにそう答えるフォンだが、何処と無く寂しげに見えた。だから、カインは「ごめん」と謝った。フォンは「気にするなよ」と、言って笑って見せカインの背中を二度叩いた。その後もフォンは自分の住んでた村の事を懐かしそうに話し、カインはそれを聞いて楽しそうに微笑んでいた。