第92回 力無き者
当時7歳だったティルが、森に花を摘みに行って暫くたってからだ。
静かで穏やかな村に、悪魔の様な残忍な一人の男と大勢の魔獣が村に現れたのは。魔獣達は作物を踏み躙り、村の人々を虫けらの様に殺していった。
苦痛に悶える者。
痛みを伴わず死にゆく者。
命乞い虚しく殺されて逝く者。
人口の少ないこの村の人々を殺してゆく魔獣達は、遂にティルの家の前に来た。他の家々は火の手が上がり、黒煙を立ち上がらせる。家の燃える臭いと音が村中に響き、時折家が崩れる音がする。家の物置で息を潜める、ティルの父と母は近くにあった箱の中に幼いエリスを隠した。魔獣達に気付かれない様に。
そして、隠したと同時に、物置の扉が開かれ光が入り込む。だが、それも一瞬で大きな影が光を遮り、真っ青な髪の男が顔を出す。切れ目で恐ろしい顔の男が。背中に大きな剣を背負っており、二人を見つけるなり柄を握り締める。
「まだ、生きてる奴がいたんだ」
「クッ! この化物が!」
腰にぶら下げた剣を鞘から抜く。鉄と鉄の擦れ合う音がして、閃光が走る。バッと臙脂の血が宙に飛び散り、生暖かい血が床と母の顔に落ちた。母の目の前に父の首から上がゴロンと転がり、首から下の体は血を噴きながらゆっくりと前屈みに崩れ落ちた。父の頭を両手に取った母は、目から涙を零しそれを抱きしめた。悲鳴も上げず、声も出さず、ただ涙だけを流した。
村の事など知らず、花を摘んで村に戻ってきたティルは、燃え上がる家々を見て手に持っていた花を手放した。ティルの手から離れた花々は地面に落ちると同時に、花びらを散らし風に舞った。
目の前に倒れる村の人。どの人も知っている人。真っ赤な血を流し、横たわったまま動かない。この瞬間、嫌な予感がしていた。
そして、ティルは走り出す。自分の家に――。家族の無事を祈りながら――。だが、その思いは儚く打ち砕かれた。家の前に集まる魔獣達の姿。その先頭に立つ男は、満足そうに笑みを浮かべ、ゆっくりとティルの方に顔を向けた。
「何だ? まだ、生きてる奴がいたのか?」
「どうする?」
「ふっ、ガキなど殺さず共すぐに死ぬ。それに、やる事は済んだ。帰って寝るぞ。まだ、力を使いこなせないからな」
「それも、そうだ」
魔獣達はティルに目もくれずその場を去ろうとした。それは、不幸中の幸いだったのかもしれない。だが、幼いティルにはそれを理解する力は無かった。でも、一つだけわかった事があった。それは、こいつらが村の人達を殺したと言う事だ。だから、涙を堪えながら腰の短剣を抜き、力いっぱい叫んだ。
「に、逃がさないぞ! む、村の皆を……。この村を返せ!」
震える足と震える手に、力を込め必死になるティルだが、後ろ向きのまま蒼髪の男は背中に背負った大剣を抜く。そして、不適に笑みを浮かべながらティルに向って言い放つ。
「人が見逃してやるって言ってるんだ。グダグダ言ってんじゃネェ。失いたくなければ強くなれ」
「ひっ……」
その男の鋭い目は、憎しみと怒りが篭っており、その目を見た瞬間、ティルは腰を抜かした。足が震え立つ事も出来ず、声もこれ以上でなかった。ただ、恐ろしかった。殺されると、ティルは感じていた。
その後の記憶は全く無かった。ただ、殺されると身を震わせて、何も考える事は出来ない。そして、気付いた時には、物置の傍で血を流し倒れる母の横で膝を抱えたまま泣いていた。涙が涸れ、声も嗄れた。ただ、泣いている時に母が最後に言った言葉だけは覚えていた。
「エリスを……守って……上げて……」
そんな過去を脳裏に思い出すティルは、俯いたまま身を震わせていた。その後ではガゼルが大声を張り上げ笑い続け、震えるティルを見下す。様子の可笑しいティルに、ワノールは何度も声を上げるが、ティルの耳には全く届いていない。ただ、身を震わせるだけで、もうティルに戦う事など出来ないと、ワノールは判断した。
「チッ! 貴様! ティルに何をした!」
「別に、俺は何もしちゃいねぇ。俺は少しばかりコイツの過去を調べた事があってな。それを、利用したまでだ」
「ふざけるな!」
力強く右足で甲板を蹴る。漆黒の刃を横一線に振り抜くが、ガゼルはそれを軽くあしらえワノールの背後に回る。そして、右手で腰にぶら下げた片刃の剣を抜く。鉄と鉄の擦れ合う音に、ワノールはとっさに体を捻り黒苑で振り下ろされた刃を防いだ。刃と刃がぶつかり、音を立て火花を上げた。体勢の悪かったワノールは踏ん張る事が出来ず、そのまま弾き飛ばされた。
手摺に背中をぶつけたワノールだが、すぐに立ち上がりガゼルに向って黒苑を構える。暫しティルの事を気にするワノールだが、それ以前に先程の光の柱が何なのかと言うのも気になっていた。その事に気付いたガゼルは、不適に笑みを浮かべた。
「気になるようだな。さっきの光が」
「あぁ、そうだな」
「なら、教えてやるよ。あれは、魔物クラスの魔獣がレベル2に上がった時に起きる光だ。まさか、奴の研究が成功するとは思わなかったが、今この船には、魔獣人と同等の力を持つ魔獣が居る。まぁ、その力もドーピングと同じ一時的なものだがな」
「そんなものを開発して、お前達に何の得があるというんだ」
「さぁな。俺は別にそんな事に興味はない。ただ、奴の実験の結果を確認するそれだけだ」
呆れたような口調のガゼルを、鋭く睨み付けるワノールは甲板を蹴りガゼルに切りかかる。目を細めるガゼルは振り下ろされた刃を見切っている様に紙一重でかわし、ワノールの腹に蹴りを入れる。吹き飛び甲板を転げるワノールは、左手で腹を押さえながらガゼルを見据え、苦しそうに呼吸をした。
残念だといわんばかりに息を吐いたガゼルは、片刃の剣を鞘に戻し手摺に右足を掛け静かに言う。
「今日、俺のやる事は終った。今の奴に、剣を握る力も無いからな。次に会う時は首を刈り取ってくれる」
「待て! 貴様!」
叫び立ち上がったワノールだが、ガゼルに蹴られた所が痛みすぐに蹲った。顔を上げた時には、もうガゼルの姿は無くワノールは黒苑を鞘におさめ、ティルを見た。両手で耳を塞ぎガタガタと震えるティルに、今はもう戦う力は無いとワノールは判断した。
鈍い音が響き、船室の壁をフォンの体が貫く。崩れた瓦礫がフォンの体の上にボロボロと落ち、フォンは苦しそうに呼吸をする。額から流れる真っ赤な血は、顔の右半分を真っ赤に染め、全身いたる所から血を流していた。口元から流れる血を右手で拭うフォンは、体中に駆け巡る痛みに堪え、立ち上がるが足にはもう力は入らず意識すら朦朧としていた。微かに見えるその視界には、怯えるルナの姿があり、ルナを助けようとフォンはゆっくりとだが歩き出した。
だが、歩き出したフォンの腹に強烈な一撃が入り、フォンの体は壁に開いた穴を吐きぬけ隣の部屋の壁を次々と突き抜けてゆく。
そして、船室にはルナと、先程の姿とはまるで違う魔獣の姿があった。ホッソリとした体型だった魔獣の体は、何十倍にもガッシリとした体型になっていて、先程まで感じなかった殺気が魔獣の全身からヒシヒシと伝わってくる。まるで別人の様なその魔獣は、ゆっくりとルナの方を見ると右手を伸ばす。
「ル…ルナに……、触れるな……」
壁の穴の向うから弱弱しいフォンの声が聞こえる。魔獣は穴の方に顔を向け、喉を鳴らすとそのまま床を蹴り壁をぶち破り穴の向うへと走っていった。その後すぐ、何か鈍い音が穴の向うから響き、壁をぶち抜く音が聞こえる。その音に耳を塞ぐルナは、目を閉じ祈る。フォンの無事を。