第91回 幸せだったあの日
船の最後尾へと辿り着いたティルとワノール。
海は少々荒波を立てながら、大きく船を揺らす。徐々に、天候が悪くなり始めていた。揺れる床に確りと両足をつけ前に進むティルとワノールは、その視界にようやく赤く染まったツンツン頭の男ガゼルを捕らえた。小奇麗に着込んだマントを荒れ始めた風にはためかせるガゼルは、最後尾まで辿り着いたティルとワノールを歓迎する様に言う。
「ようやく追い付いたか? 随分と時間が掛かったな?」
「えらく余裕だな。他にも策があるのか?」
余裕を見せるガゼルに、刺々しい口調でワノールがそう言う。それを鼻で笑うガゼルは、軽く首を振った。まるで呆れているかの様に。天翔姫を構えるティルと黒苑を構えるワノールは、ジリジリとガゼルとの距離を縮めつつ、その様子を窺う。未だ剣を抜かないガゼルは、口元に笑みを浮かべ船の手摺に腰をおろし不適な声で言う。
「お前達こそ、俺を倒す策があるのか? 正直、今の俺は強い」
「自分で強いと言う奴ほど、さほど強くないんだがな」
「そこの眼帯野郎、口の利き方に気をつけろ。お前の首など、一瞬で刎ねる事だって出来るんだ」
力強い口調でそう言い、剣の柄に手を添える。その時、船の中央で何かの爆発する様な音が響き、天高く光の柱が上がり、木の破片を辺りに撒き散らす。その音に驚き振り返るティルとワノールは、何か強い力とおぞましい殺気を全身に感じる。
その殺気が漂うやいなや、ガゼルが大声で笑う。甲高く嫌味なほど大きな声で。
「ギャハハハハッ。まんまと罠に掛かったようだな」
「ガゼル! お前、この船に何をした!」
「船に? 違うな。俺が何かしたのは魔物クラスの魔獣共にだ。ギャハハハハッ」
そう言い、大声で笑うガゼル。唇を噛み締め大笑いするガゼルを睨み付けるティルは、強く噛み締めすぎ、血がツーッと流れ出ていた。その気持ちはワノールも一緒だったが、自分まで怒りに我を忘れてはいかんと、必死にその怒りを堪え落ち着いた声で言う。
「ティル。怒りを静めろ。怒りは、判断力を鈍らせる」
「――わかってる。俺だって、わかっているさ」
「落ち着け。止めるんだ。今は――」
「ウオオオオッ!」
「待て! ティル!」
勢いよくティルが床を蹴った。ワノールも止めようと声を張り上げたが、ティルにその言葉は届かなかった。完全に怒りに血が上り、ティルは冷静な判断が下せなかったのだ。手摺に腰を下ろすガゼルに対し、細身の刃と化した天翔姫を振り下ろすが、右手で天翔姫の刃の側面を軽く叩かれ、刃はガゼルをそれティルはバランスを崩し激しく転ぶ。まるで、振り下ろされた刃をスローで見ているかの様に軽く受け流したガゼルは、立ち上がると呆れた様に言い放った。
「今の俺は、体に魔獣の力を宿している。お前がどれだけ強くなろうと、魔獣人と炎血族の血を持つ俺には勝てん。お前はただの人間だからな」
「魔獣人に、体を売ってまで俺に勝ちたいか」
「そうだな。お前が苦しみながら死ぬのをこの目で見たいからな」
「なら、今すぐ俺を殺せばいい」
俯いたままそう言うティルだが、それを鼻で笑い馬鹿にするガゼルは、楽しそうに答えた。
「言ったろ。お前には苦しんでもらう。そして、俺と同じ思いをさせる」
この瞬間、ティルの頭に嫌な光景が浮かんだ。この船に居る仲間の死と言う、とても堪えられない光景が――。
全身が震えた。仲間を失う恐怖から、大切なものを失ってしまうから。また、あの日の様に、自分の目の前から大切なものが――。そんなティルの頭の中に過ぎる光景は、幼い頃、村を襲われたあの日の出来事だった。
――10年前。
当時7歳のティルは何不自由なく平和な村で暮らしていた。東の大陸フォースト王国に住んでいたため、税金も少なく村は小さいながらも豊かだった。人口が50人ほどで、村の者達は皆顔見知りで、会えば挨拶を交わすほどだ。
そんな村や村の人達の事がティルは大好きだった。そして、毎日の様にティルは村を走り回っていた。もちろん、その後からは当時4歳だったエリスが追いかけてきていた。
「まちゅて! おにいたん」
「へへ〜ん。待たないよ〜。追い付いてみろ!」
「え〜ん。まちゅて!」
ティルとエリスは村でも有名なほど仲がよく、村の大人達からも可愛がられていた。それは、この村にティルとエリスの二人だけしか幼い子が居なかったと言う事もあるのだろう。
そんな平和な村にあの悲劇が訪れたのは、5回目のエリスの誕生日の日だった。
朝、早くから身支度を済ませるティルは、短剣を腰にぶら下げ茶色のコートを羽織って部屋をでた。階段を降りると父はイスに座り新聞を読み、母が朝食の準備をしていた。足音を起てず父の背後に忍び寄るティルは、驚かせようと息を吸い込んだ。その時、
「おはよう。今日はお早い目覚めだな」
と、新聞を読みながら父がティルに言う。吸い込んだ息を一気に吐き出したティルは、不貞腐れた様に頬を膨らませると、父の隣のイスに座り頬杖を付いてソッポを向く。そんなティルを見るなり母は「フフフフッ」と、含み笑いをして優しく暖かな声で言う。
「おはようティル。朝からそんな顔して、今日はエリスの為に森に綺麗なお花を摘みに行くんでしょ?」
「ぶーっ。だってさ〜っ。折角、驚かせてやろうと思ったのに」
「フッフッフッ。修行が足りなかったな。この俺を驚かそう何て百年はやいは! ハハハハハッ!」
「もう、あなたも大人気ないですよ」
母は大声で笑う父に笑みを浮かべながら言う。その大きな笑い声で目を覚ましたのか、階段を軋ませ目を擦りながらエリスが降りてきた。階段の軋む音で気付いたティルは、エリスの方を見て笑顔で言う。
「おはよう! エリス。それから、誕生日おめでとう」
「うん。おはよ……。うう〜っ? ねみゅい……」
「ハハハハッ。ごめんな。まだ眠いのに起こしちゃって。さぁ、もう一度眠りに行こうか」
新聞を綺麗に畳み父は席を立ち、笑顔で階段に座り込むエリスの元へと駆け寄る。軽々とエリスを抱き抱える父は、そのまま上の階へと上っていった。母は朝食の焼きたてのパンと、ハムエッグをティルの前に置き、優しく微笑む。白い歯を見せ笑みを浮かべたティルは、両手を合わせて「いただきまーす」と大きな声で言って、焼きたてのパンを口に運んだ。
毎朝、愛情を込めて作られたパンを噛み締めるティルは、自分を見つめる母にもう一度白い歯を見せながら「ニシシシッ」と、笑った。母はそんなティルを見て、ニコッと笑みを浮かべると軽くティルを抱きしめた。いきなりの事で、ティルは恥かしくなりすぐ母の手を跳ね除けイスから降りると、顔を真っ赤にしながら言う。
「や、止めてよ。俺、もう子供じゃないんだよ。急に、抱きしめるなんて、恥かしいよ」
「フフフッ。そうね。ティルはもう子供じゃないものね」
「そうだよ。俺だって立派な剣士なんだぞ!」
「ほほ〜っ。その立派な剣士さんが、夜一人でトイレに行けないのはどうしてかな?」
二階に上がっていったはずの父が、階段の中間部の所からティルを見下ろしながらそう言う。その言葉に、ムッスリと怒った様な表情を見せるティルは、唇を尖らしながら父と目を合わさずに強気に答えた。
「ふ〜ん。俺、一人でトイレ行けるも〜ん」
「ほ〜っ。一人で行けるのか〜。夜はお化けがでるぞ〜っ!」
「う、うううう嘘だい! お、おおおおばけなんて、いるわけないやい!」
「剣士さんが、お化けなんぞを怖がるのか〜」
おちょくるような口調でそう言う父に対し、ムキになるティルは強がりながら言い放つ。
「お、お化けなんか怖くないもん! 俺は剣士だ! お化けなんかよりも強いんだぞ!」
「ほ〜ら、噂をしたからお前の後ろに!」
「えっ、えっ、えーっ。か〜さん!」
半泣き状態でティルは母に抱きつく。そんなティルの姿を見ておなかを抱えて、「アハハハハッ!」と、父は笑った。抱きつくティルの頭を優しく撫でる母は、呆れた様に父を見て困った様に言う。
「もう。子供相手に、何ムキになってるんです? こんなに怯えちゃってるじゃないですか」
「ハハハハッ。悪い悪い。いや〜っ、今時お化けが怖いだなんてな」
「そうなるように仕向けたのは誰です?」
母は暫し厳しい目付きで父を見つめる。苦笑する父は頭を右手で掻くと困った様な顔をした。そんな父の顔を見るなり、ティルは母から離れ「へへ〜ン」と、大声で言ってアッカンベーと舌を出すと父を指差して言う。
「怒られてやんの〜。ざま〜みろ!」
「あっ、お前、嘘泣きしたな!」
「騙される方が悪いんだ〜!」
ティルに対し子供の様に文句を言う父を見て、母がクスクスと笑った。母に笑われ、父は恥かしくなり顔を赤く染め、照れくさそうに頭を掻くと階段をゆっくりと降りた。そして、腰に短剣をぶら下げるティルを見て、思い出したように父が言う。
「そういえば、お前、エリスの為に花を摘みに行くんだろ? まだ、時間平気なのか?」
「えっ? あっ! そういえば! 急がなきゃ!」
時計を見たティルが慌てながらそう言うと、母が心配そうにティルを見つめる。そんな母に気付いた父は、ティルの傍に座り込みティルに何か耳打ちする。その言葉に、ティルはニッコリ微笑み、母は首を傾げた。立ち上がった父が軽くティルの頭に手を乗せると、ティルは親指を立てて母親に突き出すと大きな声で言う。
「俺の心配より、今日の晩飯の心配してろよ!」
その言葉に驚いたように右手で口を押さえたまま目を丸くする母は、急に「フフフフッ」と笑うと、
「あらあら、その様子だと心配なさそうね。ウフフフフッ」
「それじゃあ、いってきま〜す」
ティルはそう言って家を飛び出した。これから起こる悪夢など知る由もなく。