第89回 広がる海と北の大陸
大型船に揺られる事一週間――。
ようやく、北の大陸グラスターが薄らと顔を出し始めた。朝日が上り始め、海は煌びやかに輝き、空も徐々に光に照らされ青々とし始めていた。潮風が少々強めに吹き、波を荒立てるが大型船はその波をもろともせず、ただ一心不乱に直進する。
そんな朝も早く甲板には風に黒い髪を靡かせたティルの姿があった。右手には細身の刃と化した天翔姫を握っており、コートの裾が風でバタつく。風の音、波の音、コートのバタつく音。三つの音が混ざり合うが、ティルは目を閉じたままジッと天翔姫を構え続ける。目を閉じているため、真っ暗なティルの視界には、ある男の姿が映っていた。生まれ育った村を――。両親を――。自分の全てを奪ったある男の姿が――。
鋭い切れ目を見開いたティルは、右手に持った天翔姫を素早く左に振り抜く。そして、右上に切り上げ、更に真下に切り下ろす。何度も何度も天翔姫を振るうティルの額には、薄らと汗が滲み出し、その汗が日の光で煌いた。
息を荒げながら、ようやく天翔姫を元のボックスに戻したティルは、ゆっくりと右手で額の汗を拭った。その時、背後から拍手が送られ、ティルは素早く振り返った。
「せいが出るじゃないか。朝から稽古とは」
「何だ、ワノールか」
手摺に肘をかけ自分を見下ろすワノールに、ティルはそう言って天翔姫を腰に下げた。少し長めの黒髪が風で激しく乱れるワノールは、ようやく右手の包帯が取れたため、暫し嬉しそうに笑みを浮かべていた。ゆっくりと階段を下りてきたワノールは、腰にぶら下げた黒苑を抜くと、ティルに向って言う。
「どうだ? 今から俺と手合わせしないか?」
「俺は、稽古の後だぞ? 俺の方が不利なんだ、やるわけ無いだろ?」
「それじゃあ、俺は左手で戦おう。それでいいだろ?」
「だから、俺は――」
「また、逃げるのか」
「――!」
突然の声にティルもワノールも表情を変え、声のした方に体を向けた。そこには背丈の高い、ツンツン頭で真っ赤な髪の男が立っていた。その男の姿に表情を曇らせるティルは、歯を噛み合わせ鋭く男を睨み付ける。男は腰にぶら下げた片刃の剣をゆっくりと抜く。鞘と刃が擦れ合い気味の悪い音を奏でる。すぐさま、天翔姫を細身の刃の剣に変えると、大声で言い放つ。
「何の様だ! ガゼル」
「何の様? 分かっているはずだろ? お前の命をとりに来たのさ。この前はあの獣人に邪魔されたが、今回は邪魔されずに済みそうだ」
「俺が、前みたく易々とやられると思うな」
「ちゃんと、お前を料理するためのレシピは考えている。俺の仲間の苦しみをその身に味わうんだな」
真っ赤な髪の男ガゼルは、そう言うと、ゆっくりと船内へと入ってゆく。それを、ティルは追いかけようとしたが、急に何かの衝撃を受けた様に船が激しく揺れた。甲板に立っていたティルとワノールはバランスを崩しその場に膝をつく。波が飛沫を上げて甲板に激しく降り注ぐ。
そして、揺れが納まると海から飛沫を上げながら魔獣達が船に飛び乗ってきた。周りを魔獣に囲まれたティルとワノールは互いに背中を預け、魔獣達を睨み付けていた。と、そこに、衝撃に気がついたカインとウィンスが、船内から出てきて魔獣に囲まれたティルとワノールを発見した。
「ティルさん! ワノールさん! 何があったんですか!」
「カイン! 船内に赤髪の男が居るはずだ! そいつを捕まえろ!」
「待て! 奴は俺を標的にしてる。俺が奴とは戦う」
ティルは、ワノールにそう言い鋭い目付きでカインを見る。そのティルの眼差しに、カインは渋々と言った感じでウィンスを顔を合わせる。二人は手摺に手を掛け、そのまま手摺を飛び越えてティルとワノールの所にやってきた。丁度、魔獣達の真ん中に。青空天を抜いたカインと刀を抜いたウィンスは、魔獣達を睨みながら言う。
「ここは、僕とウィンス君で引き受けます」
「ティルには戦わなきゃいけない奴がいるんだろ?」
「悪いな。頼むぞカイン、ウィンス」
そう言うとティルはガゼルの入っていった扉に向って走り出す。邪魔な魔獣はワノールが切り裂き、ティルに万全の状態で戦わせるつもりだった。
その頃、船酔いで完全に戦力外のフォンは、外の騒ぎに気付いていたが動く事が出来ず、トイレで蹲っていた。そんなフォンを気に掛けるルナは、何度もトイレのドアをノックして声を掛ける。
「大丈夫ですか?」
「う〜っ……う〜っ……」
トイレからは返事は無くただ呻き声だけが聞こえてくるのだった。そんな時、部屋のドアが開かれ、ティルとワノールが駆け込んできた。突然の訪問に驚き目を丸くするルナは、一歩後退し、暫し唖然としていた。少々息を荒げるティルはそんなルナの顔を見て安心したように言う。
「ルナは無事だな。それで、フォンは?」
「それが……」
静かに右手でトイレを指差すルナに、ティルは唖然とした様に薄ら笑い、取り合えず無事だと言う事を認識した。船酔いで苦しむフォンの呻き声にワノールがその苦しみを知っているかの様な口振りで言う。
「大丈夫か、あいつ。船酔いは本当にきついからな」
「何だ、ワノールも船酔いになった事あるのか?」
「んっ、幼いときにな」
「今は平気なんだな」
「まぁ、免疫がついたんだろ? 慣れれば大丈夫なんじゃないか?」
のん気に会話をするワノールとティルは、本来の目的を忘れていた。ほっそりとした体型でトイレから出てきたフォンは、ティルとワノールの姿を見て微かに微笑む。まだ、気持ち悪いのだろう全く元気は無い。だが、そんなフォンの鼻がピクピクと二度動き、フォンが表情を険しくして弱弱しい口調で言う。
「うっ……。や…ばい……」
「ま、まさか、ここで吐く気か!」
「なななっ、と、トイレすぐそばだろ、トイレに!」
ワノールとティルが慌てた様にそう言うと、フォンは力を振り絞り言い放った。
「魔獣が来るぞ!」
その声に、素早く黒苑を構えたワノールは、船酔いで役立たずのフォンを部屋の奥へと追いやり扉の前に立ちはだかる。メキメキと軋む扉に不安を過ぎらせる四人は、徐々に後退していく。気分の悪そうなフォンは、ふと窓の外の風景に目をやり、息を吹き返したように声を張り上げた。
「おおっ! あ、あれが、北の大陸か!」
「こんな時に何言ってんだ! 大体、船酔いで死に掛けてたのにどうしたんだ?」
「ウオオオオッ! 何か、北の大陸が目と鼻の先と思うと何だか気分がよくなってきたぞ!」
「お前、変わってるな」
呆れた様にそう言うティルも窓の外の風景に目をやる。何処までも広がる海と、北の大陸の姿が本当に綺麗だった。海は朝日を反射させキラキラと美しく輝きを放ち、白波はその輝きをより一層美しく見せていた。
その風景に見入るティルとフォンだが、その背後で木の扉の割れる音が轟き、木の破片が室内に飛び散った。扉の向うから入ってきた魔物は、逞しい体つきで腕も脚も太く、その指から伸びる爪は鋭い。大きく裂けた口からむき出しになる無数の牙は、鋭く鋭利で何でも噛み砕きそうなほどだった。
そんな魔獣の姿を見たフォンは、「お〜っ」と、少々驚いたような声をあげた。そして、ベッドにのん気に座るルナの方を見ると、ニッコリ微笑み右手の拳を左の手の平にぶつけパチンと小さな音を立てた。その音に振り返るワノールは、顔色のよくなったフォンの姿を見て言う。
「何だ。さっきまで死にそうな面をしてたのに」
「ニシシシシッ。何か、北の大陸見たら元気になった」
「なら、ここはお前に任せて良いな?」
「任せろ」
ワノールに明るくそう言うフォンはベッドを飛び越えて魔獣の目の前にやってくる。その間に、ティルは窓ガラスを割りワノールと一緒に外へと出て行った。
部屋に残されたフォンは目の前の魔獣を見上げると、ニッコリ微笑み優しく言う。
「ルナに手、出したらただじゃ済まさないから」
「クッ、ばれてたか」
フォンの背後で低い声が響き、ゆっくりと姿を現した。そいつの爪はルナの首元に伸びているが、ルナは落ち着き払い目を閉じていた。ゆっくり振り返るフォンは、その魔獣を見ると額に青筋を立てながらも、ニコニコと微笑んだ。