第71回 義理の兄 アルート
風が吹き荒れる森の中を、漆黒の髪を激しくバタつかせながらティルは駆けていた。その風で舞い上がる木の葉や枝はティルの体と時折傷つけてゆく。右腕で顔を庇う様にしながら、前進するティルは次第に強まる風に、ウィンスに近付いている事を確信する。風の音しか聞えない程、風の勢いが増しティルは顔を顰めた。
その先では、ウィンスと白衣の男が対峙していた。辺りの木々は、勢いを増してゆく風に傷つけられ抉られた様な痕が残り、今にも切り倒されそうな感じだ。不適に笑みを浮かべる白衣の男は、ずれ落ちる眼鏡を何度元に戻し、切り裂かれたフローリーを見てからウィンスに言う。
「フローリーの体を幾ら切り裂いても無駄なんだよ。植物は、根が張っていれば何度も蘇るんだから」
「怒れる風は無数の刃となりて、敵を討つ」
小声でそう言うウィンスの声は白衣の男には届いておらず、右手に持つ刀を持ち上げると、白衣の男は呆れた様にフローリーの上に座り込む。そして、ウィンスが刀を振り下ろすと同時に、無数の木の根がその風の進路を遮る。
轟々しい音が響き、木の根が風により抉られ崩れ落ちた。表情を一つも変えず、白衣の男の声にすら反応しないウィンスは、心が無いかの様に冷酷な眼差しで白衣の男を見据える。それでも、まだ余裕を見せる白衣の男は、眼鏡を上げてゆっくりと言う。
「フローリーは村を破壊するんで、お前には私が最近作り上げた実験体を相手として差し出そうではないか」
白衣の男がそう言って不適に笑みを浮かべると、その背後からゆったりとした足取りでウィンスと同じ民族衣装に身を包んだ、黒く長めの髪の男が現れた。背丈はウィンスよりも高く、その目は死人の様な目をしている。右頬には何かに切られた様な傷痕が残っており、首から下げる首飾りが風によって激しく暴れる。
その男の登場でウィンスの冷酷な眼差しが一瞬で消え、戸惑うかの様に瞳がぶれている。周りを取り巻いていた風も、瞬時に散らばり消滅し舞っていた木の葉や木の枝が地面に舞い落ちた。木々も微風により微かに擦れ合う程度の音を奏で、森の中は静かになった。
刀を持つ手を小刻みに震わせるウィンスは、首を左右に軽く振りながら、一歩後退し静かに口を開く。
「アルート……」
「随分と動揺しているみたいですね。もう先ほどの様な風が感じられません。これでは、このアルートの相手は出来ませんよ」
「お前! アルートに何をした!」
「実験ですよ。私の新たなる研究のために、彼は実験体になってもらったんですよ」
「ふざけるな!」
地を蹴り白衣の男に向って一直線に進むウィンスだったが、その足はすぐに止まった。止められたわけではない。自分の意思で止まったのだ。
白衣の男を庇う様にアルートがウィンスの目の前に立ちはだかったのだ。下唇を噛み締め、振り上げた刀を力なく降ろした。
この時、アルートを傷つけたくないという思いがあったウィンスは、アルートの目をジッと見つめ動く事が出来なかった。そんなウィンスに右手を向けたアルートは、その手に風を集めウィンスの体を弾き飛ばした。地面を激しく滑るウィンスの体は土を抉っていた。
「クッ……。アルート……」
「先程までの威勢はどこへ行ったのでしょうか? これじゃあ、力量が測れませんよ」
「なら、俺が代わりに測ってやるさ!」
地面に横たわるウィンスの上を飛び越え、細い刃の剣の天翔姫を低めに構えティルがアルートに向ってゆく。それを見たウィンスは、刀の柄を握り締め足の裏に風を集めティルの前に立ちはだかる。刀をティルに向けるウィンスに、小さく舌打ちをしたティルは天翔姫を振り上げる。辺りに刃と刃のぶつかり合う澄み渡る様な音が響き、その衝撃で一瞬風が起き落ち葉が暫し中を舞う。
刃を交えたままティルとウィンスは睨み合う。互いに眉間にシワを寄せ鋭い目付きで。両者の刃がギギギギッと、音をたて静かな森の中に微かに響き渡り、二人は同時に距離をとった。
「何のまねだ」
低く怒りの篭ったティルの声に、肩で息をするウィンスは震える声で答える。
「アルートは……アルートは姉さんの婚約者なんだ! 俺の義理の兄さんなんだよ! だ、だから――」
「それが――。それが、何だという! 今、奴は俺達に襲い掛かってるんだぞ! そいつが、次はお前の村を破壊して、お前の姉をも手にかけるかもしれないんだぞ!」
「それでも、この人は……」
「どうやら、口で言っても分からんようだな!」
天翔姫を構えなおすティルは、その白い刃を煌かせる。
一方のウィンスは、体が重く立っているだけでも辛かった。十四のウィンスの体は、徐々に悲鳴を上げつつあった。実際、刀を持つ右手はただ刀を構えるだけでガクガクと震えていた。
そんな対峙するティルとウィンスの姿に、暫し笑みを浮かべる白衣の男は、ずれ落ちた眼鏡を上げて、小さく呟く。
「仲間割れが始まったようですね。私にとっては好都合です。アルート、二人まとめて始末しちゃってください。私は早く秘宝を探さねばなりませんから」
「承知しました」
アルートは軽く頭を下げると、同時に白衣の男はそそくさとその場を後にした。残されたアルートは対峙するウィンスの背中に向け、右手を翳し風を集める。風が音も無くアルートの右手に集まるのに、ティルは気付き天翔姫を構えて走り出すが、すぐさまウィンスがティルに刀を振り下ろす。歯を食い縛りその刃を天翔姫で押さえるティルは、ウィンスの睨み付ける。全く、アルートが風を集めている事に気付いていないウィンスにその事伝えようとするが、ウィンスは聞く耳を持たない。
「目を覚ませ! あいつは今俺達を――」
「黙れ黙れ! お前に何が分かる! 昨日来たばかりのお前に、アルートの何が分かるって言うんだ!」
「なら、お前のその目で確かめろ、そいつが以前の奴なのか!」
力強くそう言うと力の入らないウィンスの体を軽々と右方向に弾き飛ばした。その瞬間、アルートの右手から放たれた風が球体のままティルの体に襲い掛かった。風はティルの腹を抉るかの様にぶつかり、ティルの体は宙を舞い地面に激しく叩きつけられる。
「ティル!」
驚きに声を上げるウィンスは、服の腹部を裂かれたティルを見据える。腹部から真っ赤な血を滲ませるティルは、左手で腹を押さえながら体を起こした。激しく地面に背中をぶつけたせいか、息を吸う度に腰がズキズキと痛む。それでも、ティルは立ち上がった。
真っ直ぐアルートを睨み付け、天翔姫の柄を握り締め構えなおす。だが、そのティルの前にはまたウィンスが立ちはだかった。大手を広げるウィンスの目を見据えるティルは、
「まだ、分からないのか」
と、微かに呟いた。その声はウィンスには聞こえては無いが、ウィンスはティルに対して言い放つ。
「分かってるさ。でも、操られているだけって事もあるだろ? 頼む、アルートだけは……」
「お前……。本気で言ってるのか……。あの目を見てもあいつが生きてる様に見えるのか! あんな、死人の様な目をした奴が、操られてるだけに見えるのか!」
その言葉に唇を噛み締めるウィンスは、目を伏せゆっくりと右手に持った刀を両手で確り握り締めた。呆れた様に失笑したティルは肩の力を抜き、天翔姫を下ろし左右に首を振る。そして、暫く間を空けてウィンスを睨み言い放った。
「馬鹿馬鹿しい……。こんな茶番に付き合った俺が、どうかしていた。弟を助けてくれ、義理の兄は操られてるだけ。ふざけた事ばかり言う連中だ。木の化物を倒そうと言ったり、ひ弱な連中は帰れと言ったり、とんだ道草を食わされた様だ。無駄に戦って無駄に傷を負って、無駄な時間ばかりとりやがって……。そんなに、義理の兄と仲良くしたいなら、勝手にやってろ。俺はもう邪魔はしないし、二度とここに来る事も無いだろうからな」
言いたい事だけ言い、ティルはウィンスに背を向け来た道を引き返して行く。刀を構えたままジッとティルの背を見据えるウィンスの横を風の球が通過した。一瞬の出来事だった。横を通過した風の球は、立ち去るティルに直撃し、辺りに土煙を舞い上がらせた。真っ白な細い刃の天翔姫は、回転しながら宙を舞いザクッと音を立て地面に突き刺さった。完全にティルに直撃したのだ。ティルの生死も確認できない程に舞い上がる土煙の方に数歩歩み寄った後、ウィンスはゆっくりとアルートの方を見た。愕然とした表情のウィンスを見て、アルートは薄らと笑みを零した。
「ア…ルー…ト……」
「次はお前の番だ。俺をもっと楽しませてくれよ」
「嘘だ……。嘘だ! アルート! どうして……」
絶望の淵に立たされた様な顔のウィンスを嘲笑うアルートは、ウィンスに向って右手を翳した。