第47回 漆黒の海
闇夜の海に浮かぶ一隻の貨物船は、激しい波に上下に揺れている。
上空では数体の魔獣が飛び回っているのが薄らと見え、甲板には大きく翼を広げた一体の魔獣と茶色のコートを激しくはためかせる切れ目のティルが、傷つき倒れるミーファを挟んで対峙していた。
波は激しさを増し、甲板の上にまで水飛沫が上がって来ている。潮風も徐々に強まり、ティルにとっても魔獣にとっても不利な環境が作られつつあった。
足場が水で濡れ滑りやすくなる中、船が少し傾き、甲板が斜めになる。横渡るミーファの体は海に向って甲板を滑り始め、まずいと思ったティルは、すぐにミーファの方に駆け出す。
その直後、ティルは横からの打撃でバランスを崩し激しく横転し、甲板を転げ壁に激突する。先程までティルの居た場所にはあの大きな翼の魔獣が立っており、不適に笑みを浮かべながらティルを見据える。やはり、身体能力は他の魔獣と比べ明らかに異なるもので、今の状態では勝てないとわかった。いや、もし万全な状態で挑んでも、手傷を負わせる程度にしかならないだろう。
悔しそうに下唇を噛み締めるティルは、立ち上がり魔獣を睨む。その目には恐怖が伺えるが、その奥で煮えたぎる怒りに魔獣は気付き更に不適に微笑む。ティルが立ち上がると船が軋み次は逆方向に船が傾く。ミーファの体も傾きに合わせ流される方向を変える。それをみて、焦るティルにいつもの冷静さなど無い。
「ウオオオオッ!」
槍を力任せに突き出すが、そんな力任せに突き出される槍の刃では魔獣を捕らえる事など出来ず、虚しく闇夜の空を突き刺す。
そして、槍と入れ替わる様に魔獣の右足が振り上げられ、ティルの顎を直撃しサラサラな黒髪が風で靡く。衝撃が頭を突きぬけ、脳が激しく揺さぶられる。視界が一瞬で真っ暗になり、甲板に倒れる音と共に視界が元に戻った。月の無い真っ暗な空を見上げるティルの手足が諤々と振るえ言う事をきかない。脳を激しく揺さぶられたからだろう。意識ははっきりしているのに、体を動かす事が出来ず、ティルは怒りと焦りを覚える。そんなティルの頭の中で、魔獣の声が響く。
「無様ね。まぁ、人間ごときが私達魔獣人に勝てるわけ無いけどね」
「何が、魔獣人だ……」
「口では何だって言えるのね。その言葉は、私を倒してから言って欲しいわ!」
魔獣は思いっきり横たわるティルの腹を踏みつける。口から血を吐くティルを見下し、嘲笑う魔獣は更に力を込めてティルを踏みつける。木の板が音を起て砕け散り、ティルの体は下に落ちる。魔獣は鼻で笑いゆっくりと背を向け、甲板を滑るミーファの方に歩き出す。軋む木の床の音が波の音にかき消される中、瓦礫が崩れる音が響く。
そして、先程の穴の中からゆっくりとティルが這い上がってくる。額と口元から血が流れ出し、買い換えたばかりの茶色のコートは割れた木の板に引っ掛けたせいで破けている。先程まで持っていた槍は姿を変え、剣に変わっていた。
「手の感覚がなくなってきたな……」
ボソッと呟いたティルは、軽く右手首を回す。そんなティルの方に体を向けた魔獣は、呆れたような表情を見せ、首を左右に振る。「あんたじゃ、私に勝てないのに」と、言いたげな態度を見せる魔獣は、ゆっくりと右手を暗い空に翳す。
すると、真っ暗な空で何かが光り、音を立てて甲板に向って降り立つ。翼を羽ばたかせ風を巻き起こし、船を大きく揺らす魔獣が五体甲板に降り立ったのだ。鳥のような顔の魔獣達は、茶色の大きな翼を畳むと、黒い翼を持つ魔獣に言う。
「御呼びでしょうかディクシー様」
「あの人間はお前達に譲ってやる」
ディクシーと呼ばれた黒い翼の魔獣は、その五体の魔獣にそう言いミーファの方に歩き出す。
その後、鈍い音が辺りに響き、血が飛び散った。五体の言葉を喋る魔獣に殴られ、手も足も出ないティルは、濡れた甲板に横たわり動かなくなる。だが、その右手にはしっかりと剣が握られていた。
「こいつ、弱いくせにディクシー様に戦いを挑むなんてな」
「全くだ。俺達魔物クラスにも勝てないくせに」
魔獣達の話し声が聞えるティルは、黙って聞き耳を立てるが、波の音が五月蝿く魔獣達の声が聞えなくなる。薄らと目を開くティルは、その目でミーファの方を見る。ディクシーがミーファに向って腕を伸ばし、今にもミーファを連れ去ろうとしている。どうすればいいか悩んだティルだったが、次の瞬間、ティルは力いっぱい剣を投げていた。届くかも当たるかも分からないのに。
だが、その剣はディクシーの背中に突き刺さり、真っ赤な血が少量飛び散らせる。暫く動こうとしなかったディクシーは、ゆっくりと右手で背中に刺さる剣の柄を握り血から強く体から引き抜く。
「ウウッ……。人間如きが、私の体を傷つけおって!」
「まずい! ディクシー様がお怒りだ!」
五体の魔獣は翼を広げると空高く舞う。なぜ、五体の魔獣が逃げたのか分からないティルは、ぼやける視界の中で殺気に身を纏ったディクシーの姿を目視した。体はもう動かない。多分、このままだと自分の命は無いだろうと、感じていた。
そんな時、大きな波が船を横から押し上げ、大きく船が傾く。甲板が垂直に立ち上がり漆黒の海にティルの体は落下する。船も完全に横転し、漆黒の海に飲み込まれてゆく。
翼を羽ばたかせ、空を舞うディクシーの顔は怒りで青筋が立っていた。時見の姫は見失い、人間には剣を突き刺された。その怒りはもっていた剣へぶつけるディクシーは、剣を粉々にし漆黒の海へと投げ捨てた。