第46回 時見の姫
蒼く広大に広がる海に白い線を描きながら巨大貨物船が海を進む。
空は青々と澄み渡り、多少散らばる真っ白な雲は緩やかに流れて行く。少々、荒い波を突き進むこの貨物船に黒髪の切れ目の少年と空色の髪の子供っぽい顔の少女が乗っていた。
二人は甲板の隅で吹き流れる潮風に髪を揺らしながら、その水平線の先を見据えていた。たまに水飛沫がはねるが、そんな事気には留めていない。
新しく買い換えたその茶色のコートの裾をはためかせる黒髪の切れ目の少年は、低い声で空色の髪の少女に言う。
「ミーファ。また、考え事か?」
黒髪の切れ目の少年の言葉に、軽く頷くミーファと呼ばれた少女は、悲しげな瞳で紺色の海を見下ろす。空色の髪が潮風に激しく揺られバサバサと煽られている。そんな姿を見ながら、頭を掻く黒髪で切れ目の少年は、呆れたようにため息を吐き、壁に背を預けたままミーファの後姿を見据える。
この貨物船には他のにも多くの客が乗っており、その客は黒髪の切れ目の男とミーファの間を通る時だけ何故か顔を俯き足早に抜けていく。それだけ、重たい空気が流れているのか、それとも黒髪で切れ目の少年の雰囲気が悪いのか、どちらかは分からないが、確実に怖がられている。それに気付いていた黒髪で切れ目の少年は深々と息を吐き、ミーファの背中に向って言い放つ。
「潮風に浸るのもいいが、程々にしておけ風邪引くぞ」
「うん。ありがとうティル」
「あぁ。それじゃあ、俺は部屋に戻る」
ティルと呼ばれた黒髪で切れ目の少年は壁から背を離すと、ゆっくりと歩み始める。木の床に靴の踵がぶつかりカツカツと音をたてながら去って行く。一人残されたミーファは、オレンジ色に染まり始めた空を見上げてから、もう一度紺色の海に目を落す。
波の音と風で激しく靡くスカートの音だけが混ざり合う。もう肌寒くなったせいか、甲板には誰も居らずミーファだけがジッと海を見つめていた。その時、ミーファのその透き通る様な空色の瞳の奥で何かが見えた。この貨物船に襲い掛かる魔獣達の姿が――。
すぐにティルに知らせようとしたが、ミーファはティルの傷がまだ癒えていない事を思い出した。どうすればいいのか分からないミーファは悩みに悩んだ。
それから、暫くし辺りに翼を羽ばたかせる音が響き、貨物船が激しく揺れ始める。貨物船は大きな音を起て軋みだし、今にも沈んでしまいそうな勢いだ。
もちろん、この異変に部屋のベッドに横になっていたティルもすぐに気付き、ベッドから飛び起きてボックスを手に取り部屋の中を見渡す。隣のベッドにミーファの姿は無く、荷物も部屋に入って来た時のままで、戻ってきた形跡はない。もしやと、嫌な予感が脳裏を過ぎるティルは、素早く部屋を飛び出す。まだ、あの時の傷がズキズキと痛むが、ある程度の魔獣には負ける気はしない。だが、もし相手があの喋る魔獣だったらと考えると、表情が強張った。
貨物船の廊下を走り抜けるティルは、ボックスを中距離戦用の槍へと組み替えた。激しい揺れで、他の乗客は壁に寄り添っているため差ほど時間が掛からず、ティルは甲板に辿り着いた。そこで目にしたのは、傷つき倒れるミーファと大きな翼を持つ魔獣の姿だ。他にも数体の魔獣が空を舞っているが、甲板に居るのはその一体だけで、他の魔獣とは翼の色が異なっていた。
他の魔獣は茶色の翼なのに、この魔獣の翼は漆黒でまるで闇を映し出しているようだ。顔は人間の様だが、その体は殆ど鳥の様で、獣化した時のフォンの様だった。その魔獣は右手付いた血を舐め、ゆっくりと頭を右に傾げティルに不適に笑みを見せる。ティルはその笑みに込められた冷たい視線と凄まじい殺気に背筋が凍りつく。槍を構えたまま動かないティルに、右手についた血を舐める魔獣が不適な声で言う。
「フフフフッ。恐怖で足が震えちゃってるよ」
「!?」
知らぬまにティルの足は小刻みに震えだしており、体がその殺気で戦いを拒絶している様だ。
それでも、ティルは歯を食い縛り右足をすり足で一歩前に出す。その一歩踏み込むだけで、ティルの額からは汗が溢れていた。血を求めているかの様な瞳で、ティルを見据える魔獣は甲板に横たわるミーファを右足で踏みつける。既に、意識が無いのかピクリともしない。
心配そうにミーファを見るティルに気付いた魔獣は不適に笑いながら言う。
「この娘が気になるの? 大丈夫よ。時見の姫は殺さないわ」
「時見の姫って、ミーファが時見族の姫だって言うのか!」
「そうよ。一緒にいて気付かなかったの?」
「そんな馬鹿な! 時見族はとうの昔に絶えたはずだ!」
「まぁ、馬鹿な人間の書いた本に騙されちゃったのね」
馬鹿にする魔獣の言葉に、ティルの頭は混乱する。あの本によれば、時見族と癒天族は大昔にあった大戦でその血を引く者は居なくなったと書いてあったからだ。だが、今思い返せば確かに、ミーファはおかしな行動をとった事があった。それは、ティルとフォンが古家の下に落ちた時の事だ。最初は確かに暴れていたが、途中で音が絶えその直後、あの地下室を見つけた。普通は見つけきれるはずなど無いのだ。そして、フォンが黒き十字架に連れて行かれた時もその場所を当て、処刑の日ぴったりに辿り着いた。
今までは感じなかったが、これが全て時見の力だったしたら。そんな事を考えるティルに、魔獣が微笑むかけ言葉を放つ。
「さぁて、私の仕事はこれからなの。邪魔しないで頂戴ね」
そう言い動かないミーファの体に手を伸ばす魔獣に、とっさにティルが低く怒りの篭った声で叫ぶ。
「触れてみろ! お前の命を俺がここで絶つ!」
「あら? さっきまで震えてたのによく言うわね」
「黙って、大人しくこの場を去れ!」
「全く、私がどうして震える奴相手に逃げなきゃ行けないの? それに、あなた私の事をただの魔獣だと思ってるわけ?」
魔獣はそう言い鋭い眼球で睨み付ける。その目は獲物を定めた鷲の様な目をしており、ティルの体は魔獣の放つ殺気で押しつぶされそうだった。