第55話「………すまない、紅輝」
元来、名前は姓と名が有り、両親から受け継がれる。
両親の名を掛け合わて名付けられる。
藍猪も同じように、藍は母から、猪は父の猪碧帝からだ。
そうやって名前は受け継がれる。
『何故、気付かなかったのか。』
そんな理屈を知りながら、紅天の名前の“矛盾”に気がつかなかった。
紅輝の姓を知らなくても、藍猪の名が入っていなかった。
結婚をしていない為の配慮かと思ったが、
名前を受け継ぐ事に問題は無かった。
そんな事を考えながら、白龍が案内したのは彼の自室だった。
ただ二人で話せる場所が欲しくて、思い付いたのがここだったのだ。
振り向くと驚いた表情を見せた紅輝がいた。
元々は彼女が使用していた部屋だ。
彼自身の荷物は極端に少ない。
その為に薬草のほとんどをそのままにしてある。
時折、彼女が書いた薬草の書物を開いては、解読に挑戦しては頭を悩ませている。
「あ…いや、今は私の自室として使わせてもらっている……。」
思わず、紅輝は薬草に手を伸ばす。
その匂いを嗅いで、懐かしさに浸る。
あの頃と変わらない。
「………紅輝。」
名を呼ばれ、はっと我に返る。
手に持っていたものを置いた。
だが、振り返る事が出来ない。
「あの子は……紅天は………私の子なのか?」
なおも、彼女は振り返らない。
身動き一つしないのだ。
堪えきれずに、白龍は彼女の肩に手をかけた。
その瞬間、紅輝は床に跪き、頭も床につくほど下げたのだ。
白龍は慌てて上げさせようとしたが、彼女の肩が震えている事に気づいた。
「ま、待て!泣くな!ただ確かめたいだけなんだ!!何も責めるつもりはない!!」
それでも彼女は顔を上げることはしない。
困り果てる白龍だったが、手の平に文字を書かれた。
[どうか連れて行かないで下さい。
私にとって唯一の家族であり、世界で最も愛する子です。
何でも致しますから、どうかあの子だけは、お許しください。]
初めて、彼女の本心を知った。
再会してから、敵意をあらわにしたのは、息子を奪われると思ったからだ。
狼銀は結婚をしていない。
その為、子供が居ない。
つまり、後継ぎが居ない。
彼は弟の白龍の子でも後継ぎにすると、宣言していた。
それは国中の民が知っている事だ。
紅輝が知らないはずが無い。
ずっとそれを恐れていたのだ。
「………すまない、紅輝。」
彼女の恐怖心に気づけなかった自分を悔いた。
その想いから出た言葉だった。
だが、時が悪い。
紅輝は許しを願ったのだ。
それを「すまない。」と返された。
つまり、許されない、と受け取った。
彼女は近くに飾られていた剣に手をかけた。
それに気づき白龍は慌ててその手を抑えにかかる。
自らの首を切り付けようと鞘から引き抜いた時だ。
剣にかけられた布が落ちる。
すると、もう一本の刃が姿を現した。
紅輝の動きが止まる。
彼女の手から剣を奪った白龍が、彼女の視線の先に気づいた。
「い、いや、その、これは……あの、だな!
その……、お前から奪ってばかりで………。
特殊な素材のようだから!
継ぎ目は残ってしまって元通りというわけにもいかなかったが、
もう斬るために使うことも無いし、せめて、ちゃんと返せるようにはと………。」
上手く伝えられない白龍をよそに、紅輝はそれに触れた。
赤みを帯びたその身は色褪せることも無い。
折れた継ぎ目には別の素材が使われているために、
灰色の線が入っているが、それ以外はそのまま。
かつて、紅輝が戦場で振るっていた愛刀。
腕となり、時に楯となり、共に戦場を斬り開いた愛刀。
数年ぶりに再会した。
生まれる前から側に居た。
父と母の思い出がたくさんに染み付いた刀。
思わず、両腕で抱きしめた。
今一度触れられるとは思ってみなかった。
もう二度と、目にする事も出来ないと思っていた。
『――――――鬼子。』
唯一の過去との繋がり。
「紅輝!立つんだ!」
白龍は紅輝を刀から引き離した。
あまりの出来事に驚愕したが、彼は構わずに彼女の手を掴み、引っ張った。
せっかくの再会を邪魔をしたくは無かったが、
どうしても彼は彼女に見せねばならぬものがもう一つあった。
泣き崩れる前に、どうしても。
廊下を走り抜け、たどり着く。
息が上がり、苦しかった。
だが、顔を上げて、すぐに落ち着く。
そこは中庭。
かつて紅輝が薬草を育てていた場所だ。
「口笛を吹いてみろ、ほら、早く。」
白龍に急かされ、恐る恐る口笛を吹く。
鳴き声が聞こえ、足音が聞こえた。
やがて真っ白なその姿が現れる。
紅輝は途端に走り出し、その首に両腕を回して抱き着いた。
[白桃!!]
体に多少の傷は残っているものの、変わらぬ見事な白い体。
すぐに白桃も紅輝に顔を擦り寄せた。
紅輝の涙も拭うかのようだ。
白龍は久しぶりに見る姉妹の姿に安堵を覚えた。
「蒼犬殿がずっと世話をしてくれていたんだ。体ももう心配いらない。」
白龍の話に一度顔を向けたが、
心配いらないと聞いて嬉しそうに再び白桃に視線を戻す。
涙が止まらないようだったが、
ふと、彼女の涙が止まり、顔が固まる。
紅輝の視線の先に、小さな白馬が現れた。
それに続いて見覚えのある黒毛の馬が現れた。
固まる紅輝に白龍はそっと教えた。
「白桃は蒼犬殿の愛馬と恋仲だったそうだ。あの小さな馬は二頭の子供だ。」
彼の言葉に目を丸くする。
恋仲だったことを知らなかったのだろうと、思ったのだが、
[白桃って女の子だったの?]
という紅輝の文字に、 こういう所は変わらない。
と、白龍は溜息をついたのだった。
続く