第43話「本当に貴殿は面倒ばかりかける!」
『鬼、人が人を憎むのは才知のせいでは無い。
人に敵わぬ己の劣性と、事成せぬ弱き力よ。
だから、貴様は人になどならず、鬼のままで居よ。
憎しみを持たぬ覚悟を決めたなら、人に還れ。』
杯をかたむけながら、父は言った。
あの頃はさっぱり言葉の意味などわからなかった。
ただ、彼に“鬼でいろ”と言われたのだと、力強く頷いた。
毎夜、彼は月見酒を楽しんだ。
母の生前も死後も変わらず、部屋の広間の椅子に腰掛け、ゆったりと時を過ごす。
それは昔から続いていた事だと、最近知った。
古くは、白龍と狼銀で酌み交わし、
次代は愛する母と酌み交わした。
残念ながら、自分は酌み交わしてはもらえなかったが、そこに居る事を許された。
空いたままの椅子に、杯が置かれているのを知りながら。
彼の話に耳をかたむけるだけの存在で居た。
話しかければよかったのだろうか。
けれど、話を聞くだけで十分なようだった。
彼はただ聞いて欲しいだけだったのかもしれない。
もしかしたら、彼なりの父親としての接し方だったのかも知れない。
心も体も成長して、彼を知り、
今になってようやくその心を理解出来るようになった。
言ってくれた言葉の意味もわかった気がする。
あの杯は、自分の成長を待ってくれている証だったのかも。
『………紅天。』
あの人は守ってくれるだろうか。
世界で一番大切な子。
成長したら、一緒に杯を酌み交わしたかった。
あの子が、苦しみも悲しみも痛みも、
なにもかもを癒してくれた。
彼の為ならどんなこともしようと誓った。
[紅天。]
声出ぬ口でその名を紡ぐ。
降り注ぐ矢の雨に、瞼を下ろした。
―――――――ばさっ
何の音かと思い、目を開ける。
視界が一面真っ青に染まった。
だが、それは分厚い大きな布で、
勢いよく円を描くように回転し、
矢を巻き込んで、
矛先をずらし、
紅輝の隣に流れて止まる。
よく見れば、それは旗だ。
そして大きく「蒼」の字が書かれている。
「ここは狼銀帝がおられる城である!!」
気がつけば、背後に馬。
それに跨がる一人の女性。
「皇帝陛下に弓引く者は死あるのみ!!
この場所での狼藉はこの蒼犬が、将軍の誇りにかけて!
何人たりとて許しはせぬ!!」
甲冑姿の凛々しい蒼犬がそこに居た。
驚いていると、彼女と目が合う。途端に頭を拳で殴られた。
「貴殿ともあろう女が丸腰で何している!!
こんな男などに屈するでは無い愚か者!!」
変わらない蒼犬節に開いた口が塞がらない。
久しぶりの挨拶がこれだ。
「狼藉はどちらだ!!」
二人に藍猪の怒声が届く。
「私は先々帝、猪碧の息子、藍猪だ!
蛇黒の残虐非道から狼銀帝は民を救ったはずだ!
だが、何故、蛇黒の懐刀を生かした揚句、逃がしたのだ!!
陛下を信じる民への狼藉であろう!?」
「この者は娘だ!!子にも罪をきせるつもりか!?」
「子であろうと、鬼としての役目を果たしていたのではないのか!?
ならば、鬼に変わりは無い!!
心優しき狼銀帝が裁けぬならば!
この私が仇をとらせて頂く!!」
蒼犬は面倒になり、再び紅輝の頭を殴る。
「本当に貴殿は面倒ばかりかける!」
藍猪が剣を抜くのと同時に、彼の軍は剣を構え、弓矢を構える。
また、蒼犬も剣を引き抜いた。
どう考えても、劣勢だ。
紅輝は蒼犬を止めにかかる。
「こんな時まで狼銀帝との約束通り、刀を持たずにいる気か!?」
もう一度、紅輝に拳をおろしかけた時、
一頭の馬が彼女たちの真横を通り過ぎる。
そして、あっという間に藍猪の目前に立ちはだかった。
「いい加減にせよ、藍猪。」
重たい覇気を感じさせる、その一言。
藍猪と軍はぶるりと身を震わせた。
紅輝は目を丸くした。
信じられなかったのだ。
ふと、その名前を藍猪は口にした。
「白雪将王………。」
頭上から見下ろす彼の瞳は、氷のように冷ややかだ。
一緒に食事をした人物とは思えない。
将王の名は伊達では無いのだ。
「紫鳥を利用し、毒をまいたのは、鬼を生かした陛下への不満からか?」
「………そうだ。」
「鬼を葬る為に、城を危険にさらし軍を率いたと?」
「そうだ!陛下の民に対する裏切りを許すことは出来ぬ!!」
白龍は無言で彼にある書物を投げた。
受け取り、広げるとそこにはひたすらに名前が書かれていた。
「“千首将名”?」
書物の先頭にそう書かれていた。
「“敵将の首を千とってくれば一族を解放してやる。”
それが、蛇黒と彼女の間で交わされた物だ。意味がわかるな?」
白龍の問いに、藍猪は言葉を詰まらせた。
「いわば、彼女は一族を人質に取られた身だ。
それ故に陛下は彼女に新しい名を与え、人として解放したのだ。
その本質を理解せず、貴様はこの城に弓引いたのか?
陛下と兵士達を危険にさらしたのか!?
陛下の意に背き、反逆を企てたのか!!!!!」
将王の怒声に、全ての人間が凍り付く。
これほどまでに恐怖を与える人間だっただろうか?
久しぶりに彼の姿を見た蒼犬はそう感じた。
「この場でしばらく待つがよい。
後で知らせをよこす。一歩足りとも動くなよ。」
そう言って白龍は城の方へ戻る。
藍猪軍は武器を置き、両膝をついた。
大門の中に入ると、白龍は紅輝の前へ、馬から降り、立ち止まったのだ。
続く