第32話「とても嬉しくて!」
白龍はただその姿に見とれた。
数十年過ぎたかと錯覚してしまいそうになる。
身長はさほど変わっていないだろう。
あの時すでに成長期は過ぎていたはずだ。
だが、こんなに柔らかい笑みを浮かべる子だっただろうか。
しっとりとした空気を纏い、さらりと爽やかな風を感じる。
あどけなかったあの少女は、女性へと変わっていた。
それでも、彼女が紅輝であるのは間違いなかった。
「紅先生!!」
案内人が彼女に近いて二人を紹介する。
ふと、ようやく白龍達を目にした途端、彼女は目を見開いて固まった。
そして、すぐに彼らを睨みつけ視線をそらした。
覚悟していたことだったが、それでも白龍は心苦しさを感じた。
言い訳もなにもかも通用しないと確信出来た。
「ありゃ…もしかしてお知り合いで?」
「あ、あぁ、そういうこった。案内ご苦労さん。」
ぎこちなく黄猿は賃金を手渡した。
不穏な空気を気にした案内人だったが、大人しくその場を後にした。
「ま、まさかお前さんだとはなぁ~!
まぁ、でもそうだな!国一、薬剤に長けたお前なら、
医者になっても全然おかしくない話だな!!
あはははは!…ははっ…は、ははっ……。」
なんとか場を盛り上げようと明るく振る舞う黄猿だったが、
彼の努力も虚しく、白龍は黙ったままで、紅輝は視線すら合わせない。
一番いたたまれないのは黄猿である。
だが、そこにある人物がやってきた。
「紅輝!仕事は終わったのかい?」
一人の青年が現れた。
彼は紅輝に親しげに近づいた。
「おや、客人がいらしていたのか。」
爽やかな笑みを浮かべる彼は、本当にずいぶんと親しいようだ。
「紅天が見送りに出たみたいだったから終わったのかと思って、
迎えに来たのだが、すまないことをしたね。」
紅輝は首を横に振る。青年は白龍達の方へ向き、礼をとる。
「お客人、失礼いたしました。私は“藍猪”と申す者です。
こちらは紅輝、私が代わりにご用件をお伺いいたします。
彼女はわけがあって言葉を話せないので、」
「知っている。幼少の頃に毒を飲んだせいだ。」
藍猪の言葉を遮ったのは白龍だった。
やはり、機嫌が悪いと黄猿はつきそうになった溜息を飲み込んだが、
紅輝の視線が益々厳しくなったのを見てこっそりついた。
「………紅輝、もしかして知人の方かい?」
藍猪の質問に、彼女は頷いて彼の手の平に「だから大丈夫。」と文字を綴った。
すると彼は思いの外嬉しそうな表情を見せた。
「そうか!久しぶりの再会ということだね!」
何故か、藍猪が喜んだ。
怪訝な表情を見せる白龍と黄猿に彼は慌てて弁明をする。
「あ、すみません!
紅輝はあまり自分の事を話してくれなくて、
ご友人の存在も知らなかったものですから!とても嬉しくて!」
頼むから黙っててくれと黄猿は心底願った。
白龍のほうからどんどん不穏な空気が流れてくるのだ。
「ここでは何ですから、どうぞ我が家で…。」
「悪いんだが藍猪とやら、ちょっと席を外してもらえるか?
実はここに来たのは腕の立つ医者の噂を聞いたからで、
たまたま、紅輝に再会したってだけなんだ。
込み入った用件があるもんで、お前さんには遠慮して欲しい。」
ようやく黄猿が事のあらましを説明し、藍猪のほうも理解したようで。
「気が利かず、申し訳ない!それでは先に家に戻るとしよう。
紅輝、またしばらくして迎えに来るよ。
あ、お客人方も是非ともご夕食は我が家でおとりください!」
黄猿が「考えとくよ」と返答し、ようやく藍猪は去って行った。
まるで嵐のような人間に思えた。
だが、彼が去っても空気は重いままだ。
やっぱり、白龍は口を開こうともしないし、
紅輝は紅輝で一向に目を合わせようとしない。
黄猿は身を切る想いで口を開いた。
「あ、あー、ずいぶん忙しいようだな。それに元気そうで何よりだ!」
「体の傷も癒えたようだな。」
ずばりと、傷つけた本人が言い放つ。
再び紅輝が白龍を睨みつける。
頼むから黙っててくれと、黄猿はもう一度願った。
だが、ここで決定的な衝撃が落とされた。
「母上ー!!ただいま戻りましたぁー!!!」
天坊が大声で走り、そして紅輝に勢いよく飛びついた。
彼女は屈み込んで嬉しそうに彼の体を抱き留める。
それは紛う事無く、“母親の顔”だった。
「は、母上ぇ!?」
あまりの驚きに黄猿はおかしな声をあげた。
天坊はゆっくりと両手をそろえ、お辞儀をした。
「申し遅れました!
母、紅輝の息子であります、“紅天”と申します!!」
この時ほど、黄猿が城に帰りたいと思ったことは無かった。
続く