第21話「見くびるなよ、小娘」
それを見たのは初めてだった。
この数年、狼銀軍の陣形が変わったことは無かった。
だが、ここに来てその姿形を変えた。
「ありゃあ………、狼銀の右腕の橙狐じゃねぇか?」
黄猿は訝しい声を上げる。
今まで一度たりとて戦場で見かけなかった橙狐が居たのだ。
狼銀軍の中でも殊更に信頼深くて有名な彼を戦場に出すのは珍しい事だった。
尚且つ、軍の最も先頭に居るのだ。
「他に武将がいないわけじゃあるめぇ…、罠か?」
「黄猿、蒼犬。出陣の準備をしておけ。」
蛇黒の思わぬ指示に誰もが驚く。
あの皇帝が援軍を出すと言い出したのだ。
表情に焦りは見えないが、明らかにいつもと違う。
最初から紅鬼に蛇黒の剣を持たせたことも不思議ではあったが、
今度ばかりは緊迫しているのだ。
両軍から太鼓の音が鳴り響き始めた。
紅鬼が両剣を握りしめ、白桃に跨がり、橙狐に向かって一直線に駆け出す。
橙狐は溜息をつきながら、自らの剣を取り出す。
そして白桃から飛び降りた彼女の強烈な一撃を受け止める。
彼は至極、面倒くさそうにそれを軽く流した。
次の瞬間には見慣れた鎖鎌が飛んできて、紅鬼はさらりと交わす。
だが、すぐに橙狐へ攻める。
紫鳥は橙狐の援護をするように、鎖鎌を扱う。
そして、紅鬼は後ろをちらりと確認し、紫鳥へも攻めの手を出す。
「――――――そう、お前は確認する。」
本陣から戦場を眺める狼銀は呟いた。
「お前が何故、一人で戦うのか。
その理由は“巻き添え”を回避するため。
巻き添えする要因さえ無ければ、何も考えずに刀を振るえる。
それがお前の強さの秘密だ。」
紫鳥が無理矢理、紅鬼の刀に鎖を絡ませ、陣形の中へ引っ張る。
「だから、お前が守るべきものは一つ。
それが安全な領域に離れるのを確認する。」
紅鬼を紫鳥に任せたのか、橙狐は兵士から用意していた愛用の弓矢を受け取り、構える。
「だが、安心するのは早かったな。
普通なら届かないが、橙狐は国一の弓の名手だ。」
橙狐はぎりぎりといっぱいいっぱいまで引く。
そして小さな声で呟いた。
「見くびるなよ、小娘。」
ぱんっと矢が放たれた。
紫鳥と交戦していた紅鬼の耳にそれは届く。
一頭の馬の悲鳴。
紫鳥を蹴り飛ばし、確認する。
そこには既に二本目の矢を受けた、白桃の姿が見えた。
「紅い鬼。お前は決定的に足りない。」
狼銀はそう呟いて天幕へ戻る。
彼女の頭は真っ白になっていた。
ただ白桃を想う気持ちでいっぱいになった。
敵である紫鳥に背を向け走り出す。
橙狐は既に構えを作り、彼女と同時に手を離す。
三本目の矢が白桃に飛んでいく。
紅鬼が絶望を感じたその瞬間。
馬でかけてきた黄猿の剣によってその矢は落とされた。
安心した。
だが遅かった。
今度は背後から、紫鳥が鎌を振り下ろす。
紅鬼は頭が真っ白のままだった。
腕が上がらない。
目を閉じようとした。
だが、一本の矢が飛んでくる。
それは紫鳥の顔をかすめた。
誰かと思えば、傷ついた白桃の場所にそれは居た。
[………白、龍…………。]
黄猿が怒声をあげる。
「くおら鬼子!!ぼっとすんな!!退却しろ!!!」
慌てて、走り出す。
橙狐もよけ、全力で走る。
途中、黄猿から伸ばされた手を掴み、相乗りで戦場から退却する。
狼銀の合図で全軍が進軍を始める。
黄猿と紅鬼が一定の場所まで退却をすると、それに合わせ、蒼犬が合図を出す。
すると、狼銀軍の前に火矢が一斉に打ち込まれる。
延焼剤もまかれて、彼らの足場は塞がれた。
「これでしばらくは時間をかせげるから、その間に退却か。」
白桃を連れて陣地へ戻ってきたのは白龍だった。
だが、その表情は怒りに満ちて、蛇黒を睨みつけていた。
「手を出さぬのでは無かったのか?」
「答えろ、蛇黒。」
「何だ?」
「何故、紅鬼に“味方の犠牲”を教えなかった!!
失う事を教えねば、戦場では役に立たんことを知っているだろう!?」
味方の被害があるのが戦だ。
だからこそ味方を失うことを学ばねばならなかった。
それを知らなかったが為に、紅鬼は危うく命を奪われる所だったのだ。
撤退の指示を出した蛇黒はゆっくりと白龍に振り返る。
彼の表情はいつもの余裕と変わらない。
「“名”を与え“愛着”を教えたのは貴様であろう?」
涼しい顔で蛇黒は背を向け、その場を後にする。
白龍は拳を力いっぱい握り締める。
「………だから、こうして手助けしたんだろう………。」
苦い気持ちを噛み締める頃、慌ただしく紅鬼が戻ってきた。
彼女を必死で抑える黄猿が見え、急いで近づく。
白桃を必死で探しているのだ。
白龍は興奮する紅鬼の両肩を掴んで大声を出す。
「紅鬼!!!!!」
びくりと肩が震え、ようやく視線が合う。
「落ち着け。
白桃は馬屋へ連れて行った。
処置を頼んであるが、すぐにお前も私と行くんだ。
お前がおらねば、白桃は助からん。
だからお前がしっかり守るんだ!!いいな!?」
泣きそうになりながらも、紅鬼は必死で頷いた。
こうして蛇黒軍は初めての撤退を味わう。
夜になる頃には本陣もすでに狼銀軍に渡り、大門の目前まで近づいたのだった。
続く