第15話「本当は泣いてしまいたかった」
紅鬼は、物心つく頃からずっと母を見てきた。
彼女が赤みを帯びた愛刀を巧に操り、まるで舞姫のような動きを見せる。
その一つ一つを己の目に焼き付け、自らの糧にした。
母は幼い紅鬼を「鬼子」と呼ぶ。
名を呼んでもらえるのが嬉しかった。
優しくて厳しくて、強い人。
娘を産むため戦を引退したがために、母の戦う姿は見られなかったが、
それでも彼女の持つ武術も剣術も知識もありとあらゆる全てを体に染み付かせた。
その尊敬する母が守る絶対的な人物が蛇黒であり、
幼い紅鬼の世界には母と彼だけが存在していた。
そして母が死に、紅鬼の名を受け継いだ。
だけど、自分の存在意義は変わらない。
蛇黒を守ることが己の使命であり、母との約束。
受け継ぐ日に、心の底から強く誓ったのだ、母と自分に。
受け継いだ日、生まれて初めて人から贈り物を貰った。
蛇黒から、紅鬼の名を受け継ぐ証として、先祖代々伝わる赤みの大刀を賜った。
そして蛇黒と約束をする。
これ以外の刀は使わない、と。
もし、この刀が折れれば紅鬼の存在価値などは無くなり、処刑する。
蛇黒への忠誠を誓うための約束だ。
だが、紅鬼が双剣使いということを彼は知っていた。
今度は蛇黒のほうが紅鬼に誓いを立てた。
赤みの大刀以外に唯一使えるのは、蛇黒の愛剣。
もし、その剣が折れたなら、その意味は蛇黒の信念や心が折れるも同じ。
それほどに大切な物を彼女に託す。
蛇黒の最大の信頼は、紅鬼に渡す。
それが蛇黒が紅鬼に立てた誓いであり、約束。
それは二人だけが知る、揺るぎ無い信念そのものだ。
紅鬼の母親は戦場では常に笑みを浮かべ刀を奮っていた。
その姿は戦うことがあまりに楽しそうで、見た者は皆怯えた。
かつての紫鳥もその笑みが脳に焼き付いて離れず、
耳を奪われて数年間、毎夜うなされてきた。
それは灰蛍や緑猫も同じ。
そして今、目前には瓜二つの笑みがある。
今なお、受け継がれた確かな血脈がある。
武器を持つ手が震える。
ずっとこの日を待っていた。
あの忌まわしい悪夢を断ち切るための戦。
世代を越えて、ようやく実現出来る復讐劇。
この震えは武者震いだと言い聞かせる。
だけど、感じるのだ。
―――――“鬼”が“喜んでいる”と。
蛇黒のために戦う自分が誇らしい。
彼からの言葉をもらうだけでも嬉しい。
紅鬼にとって剣を託されたこの“今”こそが、最も喜びに満ち溢れている瞬間だ。
二つの刃を手にし、彼女の動きは飛躍する。
唯一、紫鳥だけがかろうじてその動きを目で捕らえることが出来る状態。
防戦していたはずの名も無い一般兵が、
強固な盾すらも意味を成さず、赤く染め上がる。
彼女の刃の届く場所に存在するもの全て殲滅される。
紫鳥は懐かしい感じに、拳を握りしめた。
あぁ、これだ。これを待っていた。
腹の底から叫びを上げる。
「待っていたあああああ!!!」
無数の血潮が舞う。
軽く交わすだけだった紫鳥が、久しぶりに本気を見せる。
彼と共闘する灰蛍や緑猫も、遅れまいと紅鬼にかかる。
『また、赤い海が生まれる……。』
白龍はその場を動かず、その光景を見つめる。
彼女の体が赤に染まっていく。
真っ赤な道が出来上がる。
握りしめた拳から、血が流れる。
――――――本当は泣いてしまいたかった。
白桃と戯れる無邪気な彼女を、
物事を知りたがる好奇心旺盛な彼女を、
美味しいものを頬張るあどけない彼女を、
素直に、本当に可愛いと思った。愛らしいと思った。
なのに、今目の前の彼女は、血潮に喜んでいる。
蛇黒のためになることが最大の喜びで、人を斬ることに躊躇い一つ無い。
彼女の白い肌が真っ赤な彩りを添えてゆくのが、酷く胸が苦しい。
屈託の無い笑顔が恋しい。
服の裾を引っ張る彼女に会いたい。
鬼と呼ばれるその姿を止めることが出来たなら、どんなに幸せだろうか。
だが、そんな事をすれば紅鬼は軍において、その存在の意味を成さなくなる。
彼女から全てを奪うような真似は出来ない。
それに、自分が彼女を止める力を持って無いと知った。
彼女を止められるのは蛇黒だけだ。
それは剣を見た瞬間に理解した。
だが、何故こんな生き方をせねばならない?
何故普通の女性として生きてはいけない?
白龍は幾人もの女性を見てきたが、
今まで会った中で、最も悲しい女性だと思った。
見ていてこれほど辛いと思う人はいない。
『蛇黒、お前は………。』
変わってしまった古き友人を見つめる。
彼の考えがわからない。
ずいぶん、お互いに離れてしまったことを痛感した。
その時、叫び声が上がる。
視線を向けた先には、槍と腕が地面に落ちていた。
両腕を失った灰蛍は叫び声を張り上げ、錯乱している。
隙をついて、紅鬼は首を狩りにかかる。
「灰蛍!!!」
だが、灰蛍の親友であり恋人である緑猫がそれを阻止するため、
刃で紅鬼の剣を止めた。
緑猫の刃は彼女の腕に沿って作られている。
まさに、それが最大の敗因だった。
紅鬼は刀を緑猫の刃を滑らせ、迷いなく落とした。
灰蛍の目前で、愛する人の首が落とされた。
「緑びょ」
そこに隙が生まれ、恋人の名を全て呼ぶ前に、彼の首もはねられた。
それはまさに一瞬の出来事だった。
ゆったりと体勢を立て直し、紫鳥と目を合わせる。
紫鳥は気がついた。自分は息が上がっている。
だが、紅鬼は息一つ切らせていない。
それが彼に冷静をもたらしたが、彼と彼女の間に矢が二、三本降り注ぐ。
橙狐が放った矢が二人の間に距離を生んだ。
やがて狼銀軍から撤退の合図が鳴りはじめ、少し遅れて蛇黒軍の合図も始まった。
紅鬼は二人の頭をわしづかみ、白桃の元へ走り出す。
紫鳥は違う悪夢を見てしまった。
続く