始まりの悪夢
冷たい雨が俺達の体温を奪っていく、でもそれ以上に俺達の心は冷え切っていた。
どうしてこんなことになったのか、分からない。
朝目が覚めたときの俺達は、俺の家族はいつも通りだった。
交わされる挨拶、寝ぼけ眼の妹、朝食を作る母さん、さっさと着替えて新聞を読みつつコーヒーを飲む父さん、欠伸を噛み殺しながら顔を洗う俺。
何の変哲もないごく普通の朝の風景、だから俺は仕事に出かける父さんと母さんをいつものように「行ってらっしゃい」と送り出した。送り出してしまった。
俺がその通達を受けたのは午後の授業を受けているときだった。俺は十五歳、普通の高校に通うただの生徒だった。いや、遅刻常習犯だったから問題児かな。
古語の先生の睡魔応援歌を聞いて半分の意識を闇に沈めてまどろんでいたら担任がすごい剣幕で飛び込んできて、俺を教室から連れ出した、最初は何で自分が先生に連れて行かれるのか分からなかった、俺の手 首を痛いほど握りながらズンズンと引っ張り傾き始めた太陽の光の当たる廊下を進んでいく。
玄関にたどり着いた先生は振り返ると俺の肩を両手で掴む。その力の強さに痛みが走るが、先生の剣幕の前に何も言えなかった。そして先生はゆっくりと絶望の言葉を紡ぐ。
「羽佐間、よく聞け……お前の両親が事故にあったそうだ……」
「え?」
先生から突き付けられた言葉はあまりにも唐突で、俺の思考は一瞬止まってしまう。
「や、やだな先生。冗談にしてはたちが悪すぎますよ」
「冗談でこんなことが言えるか、お前の両親は交差点でスリップしたトラックに押しつぶされてしまった……即死、だったそうだ」
先生の目が声が肩に置かれた手の力がそこから伝わる痛みが先生の言葉を現実だと突きつける。何も言わない先生を前に俺はこの受け止めがたい真実を受け入れ始めた。
「辛いのは分かる、だが受け止めてくれ」
俺の思考は真っ白になった、そして真っ白になった思考になった頭の中に入ってくるのは、両親、事故、死亡、この三つだった。
「うわぁぁぁ!」
怖くなった、どうしようもない不安が押し寄せてくる。その恐怖から逃げるように俺は走り出した。玄関を飛び出して行く当てもなく全力で走る。声を張り上げて駆け抜ける俺を周りは訝しんでいたがそんなのは気にならない。ただこの現実から逃げ出したかった。
現実から逃げ出したくて走り続けた俺が行き付いたのは自宅だった、町はずれの静かな高原に作られた二階建ての一軒家。町はずれにあるこの家、学校に通うのが不便で父さんに何でこんなところに建てたのか聞いたこともあったっけ。
父さんは「母さんが静かな場所がいいといったから」と答えていたけど。
はは、馬鹿みたいに家族の思い出が流れ込んでくる。運動会でかけっこ一位になって褒めてもらったこと、父さんに買ってもらったグローブとボールでキャッチボールしたこと、菜々美と喧嘩して母さんに叱られたこと。まるで走馬燈みたいだな。
走りすぎで足がふらつく、でも俺は家まで足を進めた、そして。
「あ……」
家の前で蹲る小さな影を見つけた、その後ろ姿は紛れもなく菜々美だった。俺の声が聞こえたのか菜々美は俯けていた顔を上げる。
「おにぃ……ちゃん……」
「っ!」
菜々美は……泣いていた、ポロポロと大粒の涙を零していた。痛々しい表情、この世の絶望を目の当たりにしたような悲しみの瞳。
頭にきた、この世界に、いきなり大切なものを奪っていったこの世界に。心の内側からどす黒い感情がとめどなく流れ出す。この世界を壊してやりたい、殺してやりたい。
「お兄ちゃん……」
もう一度菜々美に呼ばれて我に返った。何をくだらない事を考えていたんだ、俺よりも菜々美の方がつらいんだ。俺は菜々美に駆け寄ってその小さな体を抱きしめた。
「菜々美……」
「お、お兄ちゃん……父さんと母さんが……」
「知ってる…分ってるから……今は、泣いていいよ」
「おに、ちゃ……うぁ、おにいちゃぁぁん!」
菜々美を抱きしめながら、唇を噛みしめる。口の中に鉄の味が広がる。俺も菜々美に顔を見られないように強く抱きしめながら涙を流した。
不意に頭に冷たい滴が落ちる。上を見ると空も黒く覆われて泣いていた。俺の涙も雨に紛れて流れて行った
あの後、雨脚が強くなってきたから俺達は家に入った、俺はタオルで濡れた髪をガシガシと乱暴に拭く、菜々美には風呂に入るように言ったが今は俺のそばを離れたくないのかずっと俺のシャツの端を掴んで離さない。
今いる場所はリビング、普段は家族だんらんに用いられる場所だ。ここに居ると両親の死が嘘のように思える、変わらない家の中の風景。それは安堵と虚無感を与えてくる。
俺も菜々美も口を開くことなく時計の秒針だけが時間が進んでいるということを教えてくれる。窓の外に視線をやると雨が先ほどよりもひどくなっていた、雷まで鳴りだしている。
何もやる気が起きない、かといって眠くなるわけでもない。ただ、雨に濡れた窓を見つめた。
落ち着いてきた心境でこれからのことを考える。いつまでも現実逃避しているわけにはいかない、俺達は生きているのだから。死んでしまった両親の葬式も行って、バイトも始めないと。菜々美にも料理を覚えてもらわないといけないな、これからは忙しくなるだろうし。
俺の頭はやっと現実を受け入れ始めたようだ、まともな思考が働く。しかし同時にこれからの行く末についても多大な不安が押し寄せてきた。俺一人で菜々美を守っていけるのだろうか……いや、守れるかじゃない守るんだ。二人で生きていくしかないんだ。
これからのことを整理して今日のところはもう休もうと思う。本当は両親のところに行かないといけないんだろうが、学校から此処まで走ってきたせいで俺の足はすでに棒の様になっている。周りの大人たちにはすまないが、今日のところは勘弁してほしかった。
――でも、現実はそんなに甘くなかった。
来客を知らせるインターホンが唐突にならされる。こんな雷雨の中で、こんな町はずれの家に来客。俺達の両親が死んだ報を受けて誰かが心配してきてくれたのだろうか。
「ちょっと出てくる」
俺は菜々美の手をやんわりと外し、玄関へと足を向けた。せっかちな来客はもう一度インターホンを鳴らす。俺は少し早足に玄関行き、扉を開いた。開いてしまった。
「はい、どちら様ですか?」
目の前に立っていたのは知人ではなく、黒いコートを着込んだ男たちだった。黒いコートの男が四人、どう考えても普通の状況じゃない。
「君が羽佐間総一君だね?」
男の一人が一歩前に踏み出して問いかけてくる。
「はい、そうですが……あなた方は?」
「私たちは中央所のものです」
中央所? あそこは世界的犯罪者を追う特殊機関のはずだ。何故中央所から使者がくるんだ?
「あの、いったい何の用ですか?」
「簡潔に言おう。君の両親の死体から魔族の反応が出てきた。よって、君たちを監禁観察の対象とする。」
「は? なにを言って──」
俺の言葉は続かなかった、男は突如懐から銃を取り出し俺にその銃口を突き付けた。意味が分からない。
「おとなしく付いてきてもらおう」
「ちょ、ちょっと待ってください! 魔族って何のことですか!」
「君が知る必要はない。君はただ私たちに従えばいいのだよ」
「そんな無茶苦茶な!」
「うるさい!」
男の手にある拳銃が弾丸を吐き出す、その弾丸は俺の足もとに穴を開けるには十分な威力を持っていた。本物の銃。それが自分に突き付けられている。足がすくみ、膝が笑う。
「今の音は!?」
今の拳銃の音を聞いて菜々美が奥から出てきてしまった。
「菜々美! 来るな! 逃げ、ぐぁ!」
俺の頬を男が銃で殴りつけてきた、あまりの痛みに顔を抑えてうずくる。
「お兄ちゃん!」
菜々美は俺のもとに駆け寄ってきてしまった。まずい。どうにかして菜々美だけでも逃がさないと。こんな奴らに捕まったら何をされるか分からない。
俺は痛む頬を抑えながら菜々美の腕を掴んで駆け出した。
「っ! 待て!」
後ろから男たちが追ってくる。手に握られた拳銃がその銃口をこっちに向けてきた。それでも俺達は走る、止まったら殺されるかもしれない、その恐怖は俺達の足を進ませるには十分すぎるほどだった。しかし。
男の手の中にある銃が無情にも火を噴いた。放たれた弾丸は俺の左肩を貫く。
「ぐっ! あぁ!」
肩に鋭い痛みと激しい熱が走る、そのまま俺は地面に倒れこんでしまった。
「お兄ちゃん!」
菜々美は倒れた俺のすぐそばにしゃがみ込む。大丈夫だと伝えようと菜々美の顔を見るとその後ろにはすでに男たちが追い付いていた。
「菜々美!」
「え? きゃあ!」
菜々美の髪を掴みあげ無理やり立たせる男。そして俺には銃口を向けながら言い放った。
「観察対象だが、反抗する場合の殺害許可も下りている。実験サンプルは一人でいい、君は眠りたまえ」
引き金にかけられる人差し指、俺はその様子を冷静に見ていた。死ぬ直前になってこの世に対する未練が頭の中に流れ込んでくる。しかしそんなものはすぐにどうでもよくなった。それを塗りつぶすほどの絶対的な恐怖が心を覆ったからだ。諦めるしかないと思い知らされる、絶望が。
「だめ! お兄ちゃん!」
菜々美が思いっきり男の腕にかみついた。男はその痛みで髪を掴んでいた手をはなし銃を落とす。
助かった……その安堵感が俺に力を与えてくれた。俺は男が落とした銃を拾うと男たちに向ける。
「ありがとう、菜々美助かったよ。お前ら菜々美から離れてさっさと帰れ」
肩の出血で目がかすむ、それでも俺は男たちを睨みながら言い放つ。しかし。
「大人をなめるなよガキども!」
銃を落とした奴以外の三人が懐から拳銃を引き抜く。俺は銃の引き金に指をかけて弾丸を放つ。
「ぐぅ!」
俺の放った弾丸は一人の男の腹を貫いた。左腕が動かない俺は右腕一本で打ったため、発砲の衝撃が俺の指を砕く。
「つぅ!」
右手から鈍い痛みが走る。でもそんなことを気にしている余裕はなかった。相手は三人、他の二人は容赦なく俺に銃を向けて引き金に指をかけた。しかし、その弾丸が俺に届くことはなかった。代わりに菜々美を貫いた。
「菜々美!」
菜々美は俺の前に飛び出し俺を庇った。菜々美のそばにしゃがみ込み声をかける。菜々美の体からは赤い血があふれ白い学生服を赤く染めていく。その傷口は脇腹と右胸にある、流れ出る血の量が俺に絶望を訴えかける。
「馬鹿! 何でおれなんかを庇って!」
「だって…いや、だったから……もう、大切な人がいなく、なるのは……いや、だよ」
「菜々美……」
「お兄ちゃん……ごめ……ん、ね?」
そう言って菜々美は動かなくなった。降りしきる雨の中菜々美は静かに目を閉じた。
「くそ、違う方にあたっちまったぜ」
「まぁいい実験サンプルは一人いればいいんだ」
男たちの会話が遠くに聞こえる。俺の頭の中は真っ白になって、真っ黒になった。
何で菜々美が死ななければならない。何で俺達が追われないといけない。何で俺は……一人にならなければならない。
「うああああああ!」
分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない。
─―ドクン!
自分の心臓の音がやけに大きく聞こえる。
─―ドクン!ドクン!ドクン!
頭の中のすごい勢いでクリアになっていく。
─―ドクン!ドクン!ドクン!ドクン!ドクン!
あぁ、考えるのはやめよう。まずはこいつらを……。
コ ロ シ テ ヤ ル