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風と虹  作者: ゆかこ
4/5

オートマトン

「今日の夕食、何にしよう」

「ああ……、うん、何でもいい。ミサの好きなようにして」

「じゃあ、パスタか何かでいい?」

「うん。いいよ」


 ふっと笑むと、彼女も不安そうな笑顔を見せた。かわいい。あの犬が、こんなにかわいい人間になってしまって。目の前にいるのは、数年前のわたしにそっくりな、ミサ。


 吉川くんが死ぬんだと聞いて、わたしはとてもびっくりした。泣きそうになった。泣いた。そして彼を恋しく思って、何度も何度もキスをして抱きしめた。それでも彼は死んでしまって、わたしも変わらず生きているし、社会だって以前と何ら変わりなく循環している。だけれど。わたしの世界は丸っきり変わってしまった。色を失い、声を失い、手足を失くして。ただの色褪せた生活が繰り返されるだけだった。科学者としての仕事にはもう、何も意義を見出せなかった。吉川くんの病気を治す薬を作ろうと科学者になったのに、彼はもう行ってしまった。それならば今、わたしは何を目標に頑張ればいいというのだろう。だからわたしは、作ってしまった、その目標を。先輩科学者の話をみっちり聞き、彼から新型の模造人間「イミテイタント」の作り方や基礎プログラムを聞き出した。あとは人工頭脳や人工肢体の培養をするのと、それらの部品を入れ込む媒体を探すだけ。飼っていた犬のアイボはちょうど良かった。そろそろ犬を飼うことにも、飽きはじめていた頃だったから。


 なんでアイボを吉川くんではなく過去のわたしを模造したイミテイタントに作り変えたかというと、単純に吉川くんのイミテイタントを作るのが技術的に不可能だったからだ。生きた人間の趣向や記憶、性格を反映させることはできても、死人のそれはもうデータとしては戻せない。吉川くんが死んだあとにイミテイタントづくりに取り組んだわたしには、もう成す術はなかった。だからしかたなく、吉川くんがこの世で一番愛したもの――過去のわたしを再現させたのだ。


 アイボの高慢だった性格は、すべてプログラムで改変した。人間として、「ミサ」として目覚めたときには多少その気は残っていたようだけれど、その後のメンテナンスとシステム同期ですべて改善された。もう、ミサはアイボではない。家事も仕事もやってくれて、なおかつそばにいてくれる。わたしは彼女のなかに「自己」というものを入れることはしなかった。ただささやかな感情計算プログラムだけを仕組んだ。そうすることで、ミサの興味がわたし意外に向くことはなくなり、彼女は永遠に吉川くんの遺愛品としてわたしのそばにいることになるからだ。


 ミサの顔は見事に4年前のわたしとそっくりだった。好みも、性格も、身長も、服の選び方も、何もかもあの頃のわたしと同じ。だからこそわたしは彼女を理解できるし、彼女もわたしを理解してくれる。そんな、美里の模造人間ミサ。完璧な存在だとわたしはずっと思い込んでいた。だけれども。それは、大きな間違いだった。


 ミサには、ものの価値というものはまったくわからなかった。もちろん、パスタのソースが余ったからといって容易に捨ててはいけないことや、自分の持ち物をホイホイ人にあげてはいけないなんて初歩的なことはプログラミングされているので問題ない。けれど、彼女にわからないのは、人間の持つ心情や感情の価値だ。何かに心を震わせ、涙を流し歓喜を示し、そして怒りや悲しみに、愛に嘆くこと。それらの価値を、ミサは知らない。



「美里? どうして泣いてるの」


 恐怖の言葉が、そう、ここに。

 とめどなく涙があふれる。ぐしゅぐしゅと泣いていると、瞬間、ミサの目の光が点滅した。計算を行っている証拠。そうだ、この子には感情の価値はわからないのだ。たとえわたしと同じように涙を流すことはできようとも、涙を流す意味や必要性はミサにはわからない。当然のことだ、所詮ミサはイヌのDNAを基体としたただのロボットなのだから。


「ねえ、美里。10分間泣き続けると6.2%のエネルギーが消費されるんだよ。美里はもう3分57秒も泣き続けてる、体によくない」

「エネルギーとか、そんなの……。わたしは人間なの!」


 わたしには関係ない。ミサは理解しているはずだ、人間とイミテイタントの根本的な構造の違いを。しかし彼女は動作停止信号を変換してこちらに転送しようとしている。無駄だと知っているのに。わたしを慰めるため? いいや、違う。慰めなんてどうでもいものを、わたしはミサのなかにインプットした覚えはない。


「美里」

「うるさい」

「美里。昨日と今日のあなたの行動、体の基礎体力からするとかなり外れてるんだよ。水分も0.12%不足してるし消費エネルギーが前よりも」

「ミサ、うるさい。それ以上言ったら、全機能停止ボタン押すから」


 冷たく言い放つと、ミサは止まった。だけどわかってる。ミサはわたしの冷たい口調で止まったのではなく、わたしの放った文章に含まれた「全機能停止ボタン」という言葉に反応して止まっただけなのだと。


「みさと」


 震える。体が、とんでもなくぶるぶると震える。恐怖か、怒りか、絶望か、それとも何か? 


「やめて、もう、やめて……」


 今日の夕食は何にする? 通販で何か頼んでおこうか? 掃除しておいたほうがいいよね? エネルギーは大丈夫? 充電してもいい? お風呂をわかしておこうか? ねぇ。美里。吉川さんと電話してきてもいい? ――アイボに、えさをやっておこうか?


 所詮生命。たかが生命。されど生命。わたしの背中に、全機能停止ボタンはない。止まれない。彼女の体に、一歩もどれボタンもない。犬のような毛もない。あるのはひどく無機質で美しい表情と、彼を愛した背中だけ。そして、そしてその腕のなかには。


 わたしがいる。冬空の横、そっと、ロボットを抱きしめた。金属というのは、思いのほか冷たい。彼女の心も、冬である。

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