雪まみれ
慈しみを求めて這わせた指先は、宙を舞った。ぐっと両手を壁に押し付けられがぶりと噛みつくようにくちびるを奪われる。甘い匂いがした。紅茶と、チョコレートケーキと、彼女自身の匂い。甘く魅惑的だった。彼女の口づけに便乗するように舌を絡める。んふ、と彼女は耐えきれぬように吐息を漏らした。僕は欠伸を噛み殺す。やっと唇を離すと、唾液がどちらともなく糸を引いた。それを拭うでもなく、僕と彼女は見つめ合う。
なんか、ねむい。寝ぼけた目で言い、彼女はさも可笑しそうに笑った。僕の肩に手をかける。そして押し倒された。ぐっと肩に重みがかかったかと思うと再びくちびるを求められる。抗えもせず、無抵抗でそれを受け入れた。
「愛してる」
彼女は曖昧に笑った。
「愛してるよ」
「そう」
「うん」
*
それは些細な出来事だった。彼女の飼っていた犬が死んだ、ただそれだけだった。あのね、犬が死んじゃったの。涙ながらに話す彼女に驚いた僕は慌てて家に駆けつけたが、玄関のドアを開けてみれば、彼女はあっけらかんとした笑顔で僕を迎えた。犬は? もういいの。確かな笑顔でそう言っていたと思う。リビングに進んでみれば、たしかにパグが体を丸めて横たわっていた。かわいそうに。そうして僕がその犬を抱き上げると、彼女はあからさまに顔を顰めた。綺麗な顔が歪む。あぁ、と僕は犬から手を離した。
「ごめん。僕が触ると、鳴いたね」
「うん。アイボは吉川くんを嫌いだったから」
「悪いことしちゃったかな」
ペット向けの葬儀屋でも頼むか? 僕の言葉に彼女はししと首を横に振った。このまんまで構わないわ。アイボは友だちだからね。そういうと彼女は死んだ犬を抱き上げた。変わった表情をしているがかわいらしい犬だ。愛嬌もあったのだろう。僕はぼんやりと彼女の肩に手を置いた。ぬくもり。温かさ。体温というもの以上に感じる、心臓の温度とでもいうべきか。彼女は生きている。生活活動をその体内で行っている。そして言葉を紡ぐ。赤い唇を動かし、桃色の頬を上気させる。だけれどアイボは違う。もう動きはしないし、鳴くことだってしない。彼女を彼から奪う僕に怒りを見せたりもしないのだ。やるせない情けなさ。短い命の終わり。彼が、アイボが生まれる前から予期されていた死別。それは生命の果てか、それとも、アイボが別の世界に生まれるということか? ならばどうだ。ここは死後の世界。あちらが生命の世界。いいや、違う。僕は、このあと一体どこへゆくのだろうか。アイボのだらりとした小さな前足が、僕を揶揄するように揺れた。
「吉川くん」
「なに?」
「キスしようか」
「うん」




