第四話 魔将軍への指導と、偽りの終幕
蓋し、世の中と云ふものは、個人の些細なる誤謬や意図せざる偶然を、勝手に神話の祭壇へと祭り上げる、極めて悪趣味にして暴力的なる劇場である。大衆といふ名の顔無き観客どもは、常に己の退屈を紛らはすための安直なる見世物を欲して居り、その為ならば一人の人間の静謐なる生活など、平然と蹂躙して恥ぢる所を知らない。
あの辺境の、獣の糞と泥土の臭ひが染み付いた小鬼の寒村において、私の神経衰弱的な溜息が引き起こした「岩山消失事件」は、瞬く間に尾ひれと背びれを付けられ、過剰なる脚色と共に、私が逗留するこの城塞都市の隅々にまで伝播した。
曰く、「新しき勇者は、天地創造の神秘なる言語を操り、天の鉄槌を以て魔の山を平定せしめた」と。曰く、「その御方は、眼光のみで千の魔物を灰燼に帰す、現世に降臨せし破壊神の化身である」と。
馬鹿馬鹿しいにも程がある。私はただ、履き慣れぬ西洋靴による己の足の痛みと、微塵も理解されぬ「持たざる階級」への連帯の悲哀に耐へ兼ね、思はず口を突いた生活の愚痴を零した丈なのだ。「あんな山など、消えてしまへばいい」と。ただそれだけの、小市民的な鬱屈の吐露であつた。
だが、大衆といふ愚鈍なる群れは、己の蒙昧を慰安するために、常に「解り易き活劇の英雄」を欲してゐる。複雑なる人間の内面や、矛盾に満ちた生の実態など、彼らの胃袋は到底消化しきれないのである。
冒険者組合の酒場へ顔を出せば、其処は最早、私にとつての無間地獄であつた。
酸っぱい安葡萄酒と、豚の丸焼きから滴る暴力的なる脂の臭気が立ち込める中、荒くれ者どもが「勇者センセイ万歳!」と、手垢に塗れた木杯を打ち鳴らす。彼らは、私の存在しない武勇伝を競ふやうに捏造し、私が如何にして魔物の首を素手で引き千切つたかといふ、三文小説にも劣る低俗なる妄想を嬉々として語り合つてゐる。
そして、案内人の長耳の娘――アリアに至つては、より深刻な病状を呈してゐた。彼女の透き通るやうな翡翠の瞳は、私の着歩く、もはや泥と埃で汚れた書生絣のほつれた裾にすら、神聖なる奇跡の顕現を見出し、今にも膝を折つて祈りを捧げかねない狂信的熱情を帯びてゐた。彼女が私に向ける、あの無垢にして盲目的なる尊敬の眼差しは、私の首に巻き付けられた真綿の絞首縄のやうに、じはじはと私の呼吸を奪つてゆくのである。
「先生、本日は如何なる大いなる御業を以て、我々を導いて下さるのですか?」
彼女の鈴を転がすやうな声が耳を打つ度、私は己の卑小な正体が暴かれる恐怖に粟立ち、同時に、この虚像を演じ続けねばならぬ道化の悲哀に、胃の腑が焼け付くやうな激痛を覚えるのである。
斯うして、私は完全に「祭り上げられた」。
人間の自我と云ふものは、理不尽なる冷遇や迫害によつて摩耗するよりも、分不相応なる過剰な賞賛によつてより速やかに、そして致命的に破壊されるものである。私の脆弱なる胃粘膜は、日を追ふごとにその薄さを増し、遂には異界の薬剤師が調合した「魔法の胃腸散」すら効力を喪失しつつあつた。宿屋の一室、私の枕元に積まれた、読みかけのまま放置された異世界の魔導書や神話体系の山も、今の私には、己の圧倒的な無能と欺瞞を嘲笑ふ、冷酷なる墓碑銘にしか見えなかつた。
そんなある日の、不吉極まる夕暮れ時のことである。
その日の空は、朝からひどく不機嫌な鉛色に沈んでゐたが、夕刻に至つて突如、狂気を孕んだやうな変貌を遂げた。
地平の彼方から這ひ寄るドス黒い影は、まるで世界を覆ふ巨大な布のやうに太陽の光を貪り喰らひ、急速に街の空を分厚き暗雲で覆ひ尽くした。
狂風が吹き荒れ、石造りの家々の屋根瓦を無残に剥がし、広場の清冽なる噴水が一瞬にして、泥と血を混ぜたやうな黒濁の水へと変じた。大気は重く沈み込み、噎せ返るやうな硫黄の臭気と、内臓を素手で直接撫で回されるやうな、生理的嫌悪を催す不快なる魔力が街中に充満する。
空を真っ二つに裂く、紫電の落雷。
鼓膜を破らんばかりの轟音と共に、街の広場の中央に、禍々(まがまが)しき巨大な魔法陣が浮かび上がつた。血のやうな真紅の光を放つその幾何学模様の中から、静かに、しかし絶対的なる質量を伴つて姿を現したのは、身の丈三丈(約九メートル)はあらうかといふ、巨大なる魔族であつた。
光を吸ひ込むやうな漆黒の重甲冑に身を包み、背には天を衝く蝙蝠の如き双翼。その手には、幾多の戦士の肉を断ち、血を吸つて黒ずんだ巨大な戦斧が握られてゐる。彼が足を踏み出すたびに、分厚い石畳が悲鳴を上げて蜘蛛の巣のやうに砕け散つた。
『愚かなる人間どもよ! 我は魔王軍四天王が一人、先鋒たる魔将軍ザルバ!』
大気を激しく震はせる、腹の底に響くやうな野卑なる咆哮。
それは、単なる声を超えた、圧倒的な「死の宣告」であつた。街の住人たちは、夕食の仕度の最中であつた包丁を放り投げ、窓を乱暴に閉め切り、蜘蛛の子を散らすやうに地下室へと逃げ惑ふ。歴戦を誇り、酒場では豪語してゐた冒険者たちですら、その生物としての絶対的な格の違い、純粋なる暴力の気配の前に腰を抜かし、無様に武器を取り落とし、己の失禁にすら気付かぬ体であつた。
『此の地に現れたといふ新しき勇者の命、我が手で不甲斐なく摘み取つてくれる! さあ、怯へ隠れずに出て来い勇者! そして我が前に平伏し、絶望の業火に焼かれよ!!』
……その時、私は丁度、広場の隅にあるベンチで、胃の痛みに顔を顰めながら、愛用の万年筆へ、舶来品のインクを補充してゐたところであつた。
周囲の狂乱の喧騒も、魔将軍が発する致死量の威圧感も、私の神経質なる集中力を削ぐには至らなかつた。何故なら、私は今、インク瓶の最後の一滴が、不注意から私の爪先を黒く汚してしまつたことに、言ひ知れぬ深い不快感と、自己嫌悪を覚えてゐたからだ。
そこへ届いた、魔将軍ザルバとやらが放つた言葉。
その、余りに通俗的で、大衆演劇の三文芝居の如き安直極まる定型句。
それを耳にした瞬間。
私の内なる文学的矜持、いや、美意識に対する耐へ難き侮辱が、死への恐怖などといふ動物的な本能よりも遥かに強大なる『憤怒』となつて、突如として胸の奥底で沸点に達したのである。
「……君は」
私は、インバネスコートの裾を重々しく翻し、インクで汚れた指先を懐紙で無造作に拭ひながら、ずかずかと魔将軍の巨大な足元まで歩み寄つた。
「先生! いけません、あれは魔王軍の幹部です! まだ結界の準備が整つてをりません!」
背後からの、アリアの悲鳴じみた制止も、最早私の耳の奥には、羽虫の羽音ほどにも届かなかつた。
「君は、今何と宣つた?」
私が丸眼鏡の奥から、氷のやうに冷たく、そして明確な殺意(それは物理的な殺意ではなく、批評家としてのそれである)を込めた視線を向けると、見上げるほど巨大な魔将軍は、醜悪なる嘲笑を浮かべて見下ろして来た。その鼻息は熱く、饐えた獣の臭ひと、乾いた血の錆びた臭ひが私の鼻腔を突く。
『ほう、貴様が新手の勇者か! ふははは、見るからに貧相で滑稽なる、吹けば飛ぶやうな人間よ! 我が漆黒の地獄炎の前に、恐怖し、泣き叫び、暗黒の絶望に焼かれよ!』
「……否」
私は、深く肺腑に空気を吸ひ込み、低く、しかし底知れぬ軽蔑を込めて断言した。
「否だ。君の用ゐる其の言葉には、事物の真理を写し取る『平面的なる描写』の精神が、圧倒的に欠落してゐる。言葉とは、魂の震へを形にするための精緻なる刃であつて、君のやうな美を解せぬ野蛮人が、己の虚栄心を満たすために無闇に振り回すべき鈍器ではないのだよ」
『……は?』
魔将軍ザルバの厳めしい顔に、明確な困惑の念が浮かんだ。彼は、数多の勇者の首を撥ねてきた己の血塗られた戦歴において、死を前にして斯様な衒学的な小言を垂れる人間に、ただの一度も出会つたことがなかつたのであらう。
「絶望の炎だの、暗黒の恐怖だの、何と浅はかで通俗的な誇張表現か! かつて文壇の巨星が提唱した、一切の主観や粉飾を排し、ただ目前の現実を客観的かつ冷徹な筆致で書き写すといふ自然主義的文学の神髄を、君は微塵も理解してをらぬ! そんな態とらしい悪役の台詞など、複雑なる筋書きばかりを重んじ、大衆の俗情に迎合する『空疎なる虚構』の安直なる作り事に過ぎぬではないか! 君の存在は、まるで校正すら受けてゐない、安価な娯楽雑誌に捨て置かれた端役そのものだ!」
『き、貴様、斯様な死地において何を訳の分からぬ戯言を……我が魔の力を見よ! この灼熱が、貴様の脆い肉を焼き、骨を溶かすといふ『現実』を直視せよ!』
ザルバが激昂して右手を掲げると、空中に赤黒い炎の球体が幾つも出現し、すさまじい熱波が周囲の空気を歪ませた。石畳が熱で爆ぜ、広場の端に隠れてゐたアリアたちが悲鳴を上げて後退する。
「黙りたまへ、この浅薄なる三文文士の出来損ないめ!」
私は、たった今インクを満たしたばかりの万年筆を指揮棒のやうに振りかざし、語気を荒らげた。不思議と、身体の震へは完全に止まつてゐた。いや、それどころか、己の中の「美的なる正しさ」を徹底的に言語化する異常な快感が、生存本能を完全に凌駕してゐたのである。
「己の生活の底辺に蟠る醜悪なる暗部を凝視し、身を切るやうな葛藤と恥部を吐露する『私小説』の持つ切実さが、君のその薄つぺらな悪意には完全に欠落してゐるのだよ! 『絶望に焼かれよ』などといふ美辞麗句の絵空事で、読者の魂が震へると本気で思つてゐるのか! それは単なる『大仰な演出』であつて、『真実』ではない!」
『な、何だと……!?』
「もつと君の、浅ましくも惨めな自己の生活の恥部をこそ、堂々と晒したまへ! 魔将軍といふ大層な肩書きの裏で、日々の職務の重圧に押し潰され、夜も眠れぬ懊悩を! 上層部の過酷な期待に応へられぬ、己の才能の枯渇への底知れぬ恐怖を! 魔王城の陰湿な派閥争ひに翻弄され、有能な部下に陰口を叩かれる中間管理職の哀愁を! その重甲冑による慢性的な肩凝りと、不摂生な戦陣食から来る痔の痛みに耐へながら、それでも戦地へ赴かねばならぬ日々の生活の疲弊を、より赤裸々に語れ! 其れこそが、血の通つた真の人間描写……いや『魔族描写』といふものであらうが!! 君が今ここに立つて、そんな安っぽい台詞を吐いてゐる理由も、実のところは、今月の侵略ノルマに追はれた現場の焦燥に過ぎぬのではないか!?」
私の魂からの苛烈なる文学的指導が、嵐の静まつた広場に、朗々と木魂した。
ザルバの表情が、劇的なる変化を遂げた。それは怒りではなく、痛いところを突かれた者の、拭ひ難き羞恥と、己の存在基盤を揺るがされる致命的な動揺であつた。彼の掲げた地獄の炎の球体が、まるで風前の灯のやうに弱々しく明滅し始める。
「浅薄なる虚構の悪役など、私は最早一文字たりとも読みたくはない。君の存在そのものが、私の美意識に対する許し難き侮辱である!」
――その瞬間である。
私の『森羅万象を従へる言霊』は、「浅薄なる虚構の人物など読みたくない(即ち、その存在を認めない)」といふ私の強烈な批評空間を、絶対的なる世界の法則として冷酷に受理したのである。
世界の根源を成す論理が、私の言葉を「唯一の真実」として再定義し始めた。
『ば、馬鹿な……我が魔力が……我が存在の輪郭が……薄れて……!? 貴様、一体私に何をした……!? 私は、私は、魔王軍の誉れ高き……!』
魔将軍ザルバの巨大な体が、まるで質の悪い水性インクが雨に打たれて水に滲むやうに、足元から急速にぼやけ始めた。彼の威圧的な叫びは次第に掠れ、存在の質量が急速に虚無へと吸ひ込まれていく。
「己の真の心境を語れぬ浅き虚構の存在よ。君の薄つぺらな物語は、もはや私の眼前に存在する価値すら持たぬ。拙劣なる原稿用紙の束と共に、暗い屑籠へ帰りたまへ」
『あ、あああああ……! 魔王ルクレツィア様ぁぁぁ……!!』
ザルバの断末魔は、如何なる魔法的爆発も、派手な光芒も伴はず、ただ「悪い小説の原稿が丸めて投げ捨てられるやうに」、ぐしゃりといふ卑小で滑稽な音と共に、完全に物理空間から抹消された。
残されたのは、熱でひび割れた石畳と、漂ふ硫黄の臭ひ、そして、右手に万年筆を握りしめ、呆然と立ち尽くす私一人であつた。
広場は、再び身の毛もよだつやうな、完全なる静寂に包まれた。
襲来した魔王軍の幹部を、剣も魔法も使はず、ただ「お前の台詞は文学的価値が低劣である」といふ痛烈な批評のみで消滅せしめた新勇者。
街の人々と冒険者たちは、今度こそ私を、人智を超越した畏怖の対象――現人神そのものとして崇めるやうに、石畳の上へ一斉に額を擦り付け、平伏し始めた。
「先生……! ああ、先生……! 何といふ慈悲、何といふ知の深淵……!」
アリアが、感動の余り顔をくしやくしやにして、私のインバネスコートに縋り付いて来る。彼女の目には、もはや私といふ一人の卑小な人間は見えてゐない。彼女の信仰心が作り上げた、都合のいい「聖なる大勇者」の眩い幻影だけを見てゐるのだ。
ギルドマスターもまた、脂汗をハンカチで拭ひながら、金貨が山と積まれた報奨金の重い木箱を抱へて、猛然とこちらへ駆け寄つて来るのが見えた。
「お見事です、センセイ! やはり貴方様は我々の救世主だ! これで我が街の繁栄は未来永劫約束されたも同然! さあ、祝杯の準備を! 今夜は街中の酒を空にして、盛大なる宴を開きませうぞ!」
限界であつた。
私は、己の摩耗しきつた神経が、ぷつりと乾いた音を立てて断裂するのをはつきりと聞いた。
これ以上の俗物的な恩賞も、見当違ひの狂信的な名声も、私にとつてはただの凄惨なる精神的重圧であり、魂を腐らせる致死量の猛毒に他ならない。私は、他人が勝手に期待する「勇者」といふ英雄的役割を演じ続けるには、余りに自己中心的で、余りに内向的で、そして余りに脆弱な、ただの「文学青年」の成れの果てに過ぎなかつたのだ。
私は、縋り付くアリアの手を冷酷に振り払ひ、ギルドの卓の上へ向かつた。そして、震へる手で万年筆を走らせ、一枚の安っぽい便箋を叩きつけた。
其処に記した言葉は、ただ一言。かつて、自己破滅を是とした或る頽廃的文士が遺したと伝はる、究極の自己否定と、この無理解なる世界への最後の謝罪の言葉であつた。
『生れて、すみません』
私は、俗悪なる恩賞の金貨の山には一瞥もくれず、愛用のインバネスコートの襟を高く立てた。そして、その日の夜陰に乗じて、誰にも告げずに、逃げるやうにして街から出奔したのである。
背後から遠く聞こえる、街の歓喜の歌声と教会の祝福の鐘の音が、私を永遠に呪縛する鎮魂歌のやうに聞こえてならなかつた。
【完】
――かのやうに思はれたが。
地獄への道程は、常に一本道である。そして、私のやうな業の深い、自意識過剰なる罪人には、安息の地など最初から、この世界の何処にも用意されてはゐないのだ。
夜を日に継ぐ、当てもない狂気の逃避行の末、私が辿り着いたのは、人類の生存圏から遠く切り離された、最果ての北の地であつた。
極度の疲労と、何日もまともな食事を摂つてゐない空腹、そして刃物で刺されるやうな胃痛に苛まれながら、私は険しき雪山を越え、古の禁忌とされる、暗く湿つた地下道を這ふやうにして抜け出た。
魔界との境界たる、果てしなく長き隧道を抜けると、其処は完全なる死の国であつた。
夜の底が、べつたりと赤く染まつてゐた。
見渡す限りの荒涼たる灰色の雪野原。枯れ果てた樹木が、苦悶の表情を浮かべた亡者の腕のやうに天を突いてゐる。そして、虚空を覆ふのは、滴る血のやうに赫き巨大な月と、紫色の不気味な極光であつた。
私は冷たい雪の上に膝をつき、激しく息を喘がせた。肺が凍り付くやうに痛い。
逃げ場など、最初から無かつたのだ。人間社会の重圧と狂信から逃れた先は、より絶望的で、より純粋なる『死』が支配する魔族の絶対領域でしかなかつた。私は、己の死に場所を探して彷徨ふ、一匹の惨めな野良犬に過ぎなかつたのである。
「……ふふ、可笑しな御方)」
突如、雪を敷き詰めたやうな白き死の大地に、氷を転がすやうな、底知れぬ妖艶さと虚無を孕んだ女の声が響いた。
私が重い顔を上げると、そこには、真紅の豪奢な着物を退廃的に乱れさせ、長く艶やかな黒髪を、刃のやうな夜風に靡かせた、絶世の美女が佇んでゐた。
死の香りを纏ふ白皙の額には、漆黒の二本の角。背には、夜闇よりも深い、世界を覆ひ尽くすかのような一対の翼。
あのアリアが震へながら語つてゐた、絶対悪。世界を恐怖と絶望で支配する魔王その人の姿が、正に其処にあつた。
魔王ルクレツィアは、雪女のやうな蒼白き肌に、ひどく憂いを帯びた、酷薄にして虚無的な笑みを浮かべ、私を見つめてゐた。その瞳は、万物を冷淡に見下ろす超越者のそれでありながら、同時に、誰にも理解されぬ永遠の孤独の深淵を湛へてゐた。
「我が先鋒たるザルバを、ただの『言葉』で虚無へ還した勇者様。……いいえ、『先生』」
「君は……」
「貴方のその、世界を憂ふ深い虚無の瞳。私には痛いほどよく解ります。この退屈で空疎なる世界は、我々のやうな者が生きるには、余りに息苦しい。……さぞかし、孤独で、そしてお疲れであつたでせう?」
魔王は、雪の上を滑るやうに私に近づき、私の冷え切つた頬に、白魚のやうな冷たい指先を這はせた。そして、甘く、狂気を孕んだ声で、私の耳元へ囁いた。その息遣いは、芳醇な毒酒のやうな芳香を放ち、私の麻痺した脳を急速に蕩かしてゆく。
「ならば先生。私と一つ、あの魔王城で心中などしてみませんか? 物語の結末は、必ずしも勇者の勝利といふ、凡庸な大団円である必要はない。……私と共に、この醜悪なる世界の叙事詩に、最も不道徳で、最も美しい幕を引いてみせませう」
その、頽廃文学の極致の如き、余りに甘美で、破滅的な誘ひに。
私は思はず、固く握りしめてゐた懐の万年筆を、冷たい雪の上へと落としさうになつたのである。
嗚呼、これこそが。これこそが、私が無意識の底で密かに渇望してゐた、絶対的なる破滅の調べではないのか。
斯くして、物語は思はぬ方向へと激しく転調を始める。
大衆の期待を裏切つた逃亡勇者と、世界に絶望した魔王による、世界で最も不道徳にして美しい「死へ向かふ創作活動」が、今正に、血塗られた幕を開けようとしてゐた。
【第一部 完】




