第一話 異界組合(ぎるど)と徴兵検査
蓋し私は、死んだらしい。
斯う書き出せば、如何にも人生の真理を達観した哲学者の、淡泊にして高雅なる述懐のやうに聞えるやも知れぬが、その内実は微塵も上品ではない。自己の死を悟つた刹那、私の胸底へひろがつたものは、宗教的な感銘でもなければ、哲学的な安堵でもなく、ただ一種の泥のごとき倦怠であつた。嗚呼、また忌まわしき手続きの類か、と、私はひどく億劫に思つたのである。
気がつけば、私は白き空間に横たはつてゐた。白い部屋、と云ひ捨てるのは容易いが、部屋と呼称するには余りに輪郭が曖昧で、壁も天井も判然とせず、ただ白といふ概念そのものが事務的にどこまでも延びてゐる。総合病院の待合室のやうでもあり、裁判所の尋問室のやうでもあり、こちらの心理的瑕疵ひとつで何処にでも化けさうな、ひどく融通の利く、無機質な白さであつた。
その白のまん中に、机が一つ据ゑられてゐる。
机の向うには女が一人、まるで昼休み前の区役所の窓口のやうに静まり返つて腰掛け、数枚の書面を指先で冷然と整へてゐた。顔立ちは、たいさう美しかつた。だが、あの種の整ひ過ぎた美しさは甚だ厄介である。人を安心させるより先に、こちらの脆弱なる自意識を糾弾し、襟を正させる。慈愛に満ちた聖母よりもむしろ、冷淡な税務の審査官に似つかはしい美であつた。
「お目覚めですね」
女は唇の端だけで微笑んで、さう言つた。その口吻が、まるで死亡届の些末な不備を指摘する窓口の事務員そのものであつたので、私は早くもこの死後世界といふ行政機構に深く失望した。
「目覚めぬまま一切を済ませてくれれば、なほ結構だつたのだが」
「それは困ります。厳密なる本人確認が必要ですから」
「本人確認」
死してなほ、己の身元を照会されるのかと、私は心底げんなりした。人は生前、自分で自分の存在を持て余してゐるといふのに、世間といふ組織は、死の淵を越えてまでその自我を正確に特定したがるらしい。
女は机上の書面を淀みなき手際で一枚めくり、宣告した。
「まづ結論から申し上げます。あなたは死亡しました」
「見ればわかる」
「普通はわかりません」
「どうも胸のあたりに、いかにも一切が終了済みの空虚な感覚がある」
女は相槌ひとつ打たず、さらさらと羽根筆で何事かを書きつけた。私の無気力な返答に記録するほどの価値があるとも思へぬが、記録といふものは、価値があるから残すのではなく、後日、組織が責任逃れの証憑にするため残すことが多い。私は生前、斯ういふ紙切れに何度か苦渋を舐めさせられてゐる。
「死因は、大型輸送車両との接触事故です」
「ジドウシャか」
「はい」
「勃興著しき近代文明たる鉄の塊も、遂に一介の文士を道端で轢殺するまでに発達を遂げたといふ訳だ」
「その文明論的評価はお任せしますが、当方にも時間がないので先へ進めます」
「死後にまで時間的猶予がないとは、実に世知辛い」
女は紙を揃へ直した。
「あなたには別の世界で、第二の生を送つていただきます」
「断る」
「拒否権はございません」
「ならば、何故わざわざ私に意向を告げる」
「手続き上、説明義務が存在するからです」
私は深く長き息を吐いた。役所といふものは、こちらに一切の選択権がない事柄ほど、殊更に丁寧な説明を付加したがる。「十分な説明を尽くした」といふ体面だけを台帳へ残すためである。生前も然うであつたが、どうやら死後も官僚主義は変らぬらしい。
「して、別の世界とは、如何なる辺土だ」
「剣があり、魔法があり、人ならざる異種族が暮らし、魔王と呼ばれる絶対悪が存在し、時にその討伐者――英雄が必要とされる世界です」
「聞けば聞くほど、反吐の出るやうな野蛮社会である」
「そうですか?」
「私の知る限り、剣による私闘が横行し、妖術と異種族が併立するやうな無秩序な社会は、概して行政組織が未発達であり、殊に公衆衛生の観念に至つては絶望的であらう」
「コセキ……? 公衆衛生……? ああ、古代の魔石か、浄化の儀式のことですか?」
「いや、国家が人民を管理するための台帳と、伝染病予防の基礎知識だ」
「人民を管理する魔導具と、呪い除けですね。確かにこの世界では未熟かもしれません」
「どうにも言語の定義からして話が通じぬらしい」
「現実的な着眼点と言ってほしいのですが」
「もうよい。ただでさへ胃がすこぶる弱いのだ、これ以上、余計な心労で私の内臓を苛めないでくれ」
「問題ありません」
「大いに問題である! 人類を救済するやうな大任を帯びる人間といふものは、大抵、生れつき胃腸が頑強と相場が決まつてゐる。旅先で三日に一度は水に中りて腹をこはすやうな脆弱なる男が、どうして魔王討伐などといふ大事業に耐へられよう」
「問題ありません」
「君は官僚特有の便利な言葉を知つてゐるな」
女はどこからともなく巻物めいた物体を取り出し、妙に荘重なる声音で読み上げた。
「あなたに授ける権能は――『森羅万象を従へる言霊』です」
「ひどい名だな」
「そうでしょうか。自身の全能力値を可視化する『存在情報開示』を筆頭に、事象の書き換え(でばっぐ)、無限の収納空間への干渉を音声にて可能とします。これにより初期水準であつても、無限の魔力と体力を以て、最高難度の迷宮をも単独攻略可能とする、超法規的な――」
「待て」
「はい?」
「さきほどから嬉々として新興宗教の呪文のやうに唱へてゐるが、私には何一つとして、その概念が理解できぬ」
「えっ」
「えむぴい、とは何の略語だ。だんじょんとは如何なる隠語だ。それに『すてえたす・おおぷん』? 漢語を徒に四角四面に並べ立て、其の尾に洋語の異音を無理矢理に縫ひ付けたやうな、ひどく不格好で気取つた命名だ。かういふ大仰な名のついた代物に、碌なものはない。特効薬でも新思想でも同じことである」
女は私の的確なる文学的批評を完全に黙殺し、机上の何かに冷徹に印を押し下した。
「効果は絶大です。では、良き第二の人生を」
「私は第一の人生からして、己の持て余す自意識に圧殺されかけてゐたのだが」
「そういふ方のほうが、案外図太く立ち回るものです」
「慰撫にもなつてゐない」
言ふや否や、足もとの白が虚無へと抜けた。
私は落ちた。
あまりに突然の執行であつたから、悲鳴を上げる猶予すら与へられなかつた。ただ、ああ、死後の行政といふものは、斯くも乱暴で有無を言はせぬものなのだな、とだけ冷ややかに思つた。人は生きてゐる間だけでも、進学だの就職だの恋愛だの、何かにつけて奈落へ突き落とされる。死してなほ同様の手順を強要されるとは、世界を構築した者の悪趣味には反吐が出る。
次の瞬間、私は粗びた石畳の上へ不様に転がり出てゐた。
空はやけに青かつた。青すぎる、と糾弾したいくらゐだ。雲までが白々しいほどに白い。あたりには威圧的なる高い城壁があり、門があり、槍を持つた兵卒が立ち、道には馬車が往来し、荷車を牽く男や籠を抱へた女が忙しなく行き交つてゐる。鼻を打つのは、乾いた土の匂ひ、馬の糞の匂ひ、汗の匂ひ、そして焼いた麦の匂ひ。悪夢と断じるには、余りに現実の肌触りが手荒に過ぎた。
私は肘をついて、のろのろと起き上がつた。
着衣は生前のままであつた。書生絣に袴、二重廻の外套、丸眼鏡。まるで私ひとりだけが近代の書斎から取り残され、其のまま強引に前近代の舞台へと運び込まれたやうである。
そこへ門番が近づいて来た。鋭き長槍を手にし、いかにも職務に忠実さうな若き兵卒であつた。
「おい、そこの。大丈夫か」
「大丈夫でない人間に対して、大丈夫かと無自覚に問ふのは、時として酷なる暴力である」
「は?」
「いや、こちらの内面的な問題だ」
門番は胡散臭さうに私を見下ろした。無理からぬことだ。城門の前に、見慣れぬ和服姿の男が仰向けに転がつてゐるなど、彼の平穏なる職業生活においてもさほど多くは現れまい。
「旅の者か?」
「旅と申すより、これは理不尽なる左遷の一種であらう」
「左遷?」
「当人の承諾なき辞令だけが先に届き、赴任先の過酷なる実態説明が後から追ひかけて来る、行政特有の欺瞞形式らしい」
「やつぱり何を言つてるか、さつぱりわからん」
「それで至極正常である。私自身にも、まだ此の不条理の半分ほどしか理解が及んでゐない」
私は懐を探つた。財布はない。手帳もない。手にあるのは万年筆一本だけである。笑ふべきか嘆くべきか。人は死の淵にあつて、金銭も懐中時計も悉く喪失するくせに、ちつぽけな見栄と筆記具だけは執念深く持ち越すらしい。
「所持金は」
「ない」
「身分証は」
「死後の窓口が、怠慢にも発行してくれなかつた」
「……本当に面倒くさい奴だな、お前」
「其の点に関してのみは、君の評価に概ね同意する」
門番はしばらく思案顔になり、やがて城門の内側を槍の穂先で指し示した。
「街に入りたいなら、まづ冒険者組合へ行け。登録して身元を作れ。仕事も回してもらへる」
「組合」
「ああ」
「登録」
「ああ」
「仕事を回す」
「そうだ」
私はその三語を、胸のうちでゆつくりと反芻した。
組合。登録。仕事の斡旋。
どう美辞麗句で飾らうとも、その実態は徴募である。
「なるほど」
「何がだ」
「近ごろは徴兵のやうな野蛮な行為も、だいぶ柔らかく耳障りの良い名で糊塗するものだな」
「は?」
「いや、隠さなくてよい。見れば事の次第は容易に察せられる。辺境の防衛か何かの為に、深刻な人手不足なのであらう。無頼の若い男を集め、適性検査と称して等級をつけ、使へさうな者から順に最前線の危地へ送り込む。国家といふ怪物は、洋の東西、界の彼我を問はず、総じて斯うした血生臭い集搾を行ふものだ」
「違う違う。別に国の役所ぢやないぞ。民間の互助組織だ」
「民間と称しても同じことだ。国家と資本はしばしば裏で手を結ぶ。組合といふ温情めいた名目であつても、結局は末端の人間に血肉の供出を要求するのだ」
「本当に面倒くさいな……」
門番は心底呆れた顔で、広場の方角を示した。
「まつすぐ行つて、噴水広場を左だ。大きな剣の看板がある建物がさうだ。とつとと行け」
「ありがたう。君は善良なる市民だ」
「そうか」
「君の如き善良なる人間が、思考を停止して不条理なる制度を末端で支へてしまふから、この世界は少々息苦しい」
「全く褒められてる気がしないぞ」
私は街へ入つた。
街は、正気の沙汰とは思へぬほど活気づいてゐた。店先には奇怪なる形状の果実、どぎつい色の薬草、無骨な剣や槍、獣臭い革の靴、血の滴る干し肉などが無秩序に並んでゐる。通りを行く人々もまた雑多を極め、背の異様に高い者、肩幅の広すぎる者、頬に奇妙な紋様の刺青を持つ者、そして、どう見ても現生人類とは骨格からして異なる風貌の者まで平然と混じつてゐる。
私はしばし立ち止まり、丸眼鏡を外してハンカチで拭ひ、掛け直した。
それでも、前を歩く女の耳は、ロバのやうに長かつた。
「……奇異なる風土病の産物か、さなくば骨格の奇形か」
祭礼の仮装かとも疑つたが、あまりに造形が自然すぎる。本人も、すれ違う周囲の何人も、微塵の疑念も抱かぬ顔で歩き去つてゆく。
しかも、誰も彼もが妙に明るく、生気に満ち溢れてゐる。若い男たちは粗末な剣を下げて大声で笑ひ、女たちは籠を抱へて陽気に喋り、子供は土埃を上げて駆け回り、店主は景気よく客を呼び込んでゐる。皆、自分がちやんとこの世界へ参加し、己の生に価値があると信じて疑はぬ顔をしてゐる。
あの顔が、私は昔から大の苦手だ。直視すると、こちらの内臓の柔らかいところが急激に収縮し、軽い吐き気を催す。
噴水のある広場へ出ると、門番の言つたとほり、巨大な剣の看板を傲慢に掲げた建物が目に入つた。石造りの立派な建物で、一階は酒場になつてゐるらしく、白昼から木杯のぶつかる下品な音や、野卑な笑ひ声が漏れてゐる。入口の掲示板の前には若者たちが群がり、何枚もの紙片を血走つた眼で真剣に見比べてゐた。
私はその入口の数歩手前で、完全に足を止めた。
極めて嫌な空気である。
旧制高校の成績発表の掲示板、新聞社の採用面接の待合室、そして兵役検査場――ああいふ場所に共通して漂ふ、他者からの値踏みと、己の価値への過剰なる期待、そして自己申告の嫌らしい匂ひが、此処には濃厚に満ちてゐた。人が自分の価値を声高に証明し、他人がそれを残酷に序列へと変換する。その種の場は、昔から私の神経をひどく磨耗させる。
いっそこのまま回れ右をして逃亡しようか、と思つた。何処へ。知らぬ。知らぬが、ただ北の方角へでもあてもなく歩いて行けば、そのうち人の少ない、文明から見捨てられた寒村か何かに辿り着くであらう。私はさういふ辺土で、誰からも注目されず、台帳の片隅へ極めて薄く記される程度の、取るに足らぬ人生を送りたい。死んだ後までその遁走の願ひが続いてゐるのだから、もはや性分としか言ひやうがない。
「お困りですか?」
ふと、声がした。よく晴れた五月の朝のやうな、一片の曇り気もない明朗なる声である。
振り向くと、金髪の娘が立つてゐた。碧眼で、活動的な旅装をまとひ、背には身の丈ほどもある弓を背負つてゐる。そして耳が長い。やはりどう見ても長い。私は一瞬、視線を彼女のどの器官へ置けばよいのかわからなくなり、ひどく狼狽した。
「失礼だが」
「はい?」
「その耳は、何かの儀式用の装飾品ではないのか」
娘は不思議さうに目をぱちぱちさせ、それからくすりと笑つた。
「いいえ。生まれつきです」
「さうか。では、やはり特有の地方病の類ではないのだな」
「地方病?」
「いや、こちらの分類学的な煩悶だ」
娘はますます怪訝な顔をしたが、それでも気を悪くした様子は微塵もなかつた。かういふ無垢なる素直さを持つ人間は困る。こちらの捻れ曲がつた警戒心が、そのまま自己の度量の狭さ、人間的器の矮小さとして跳ね返つて来るからだ。
「お顔の色がひどく優れないので、どこかお加減でも悪いのかと思つてお声掛けしました」
「加減は生誕以来、常に悪い。だが、これはもはや宿痾のやうなものだ」
「まあ、それは大変」
「大変でない日は、一年のうち数日とない」
娘は少しも厭はしげな顔をせず、むしろいよいよ親切さうに身を乗り出した。
「組合は初めてですか?」
「初めてといふより、人生においてなるべく視界の端にも入れたくなく、出来得る限り近寄らずに済ませたかつた種類の建築物である」
「でしたら、私が中へご案内します!」
「君は不必要に親切だな」
「そんなことありません」
「自己の親切を無意識に軽く言ひ退ける人間ほど、時として厄介な善意の押し売りをする」
娘は小さく笑つた。
「私はアリアと申します。あなたは?」
私は名乗りかけて、ふと口をつぐんだ。生前の俗名をこのまま使ふべきか、あるいは適当な偽名を名乗るべきか。どちらにしても、どうにも己の身の丈に馴染まぬ気がする。人は死んだ途端、自分の名前にまで酷い居心地の悪さを覚えるものらしい。
私が沈黙してゐると、アリアは勝手に何事かを悟つたやうに、その青き瞳をきらきらと輝かせた。
「もしかして、お名前を軽々しく明かせないやうな、何か深きご事情が?」
「いや、そこまで大袈裟な犯罪的背景などはないが――」
「わかります。旅にはいろいろな過去がありますものね。では、仮に『先生』とお呼びしても?」
「先生」
「ええ。学者さんのような立派なお召し物ですし、お話の言葉遣いがひどく難しくて高尚さうですから」
「話が高尚なのではない。私の自意識が少しばかり肥大し、ひねくれてゐるだけだ」
「でも、素敵です」
素敵、といふ圧倒的なる肯定的評価を、この種の卑屈な弁明に対して与へる娘は生れて初めて見た。私は早くも対応に窮し、胃の腑が痛むのを覚えた。
アリアの容赦なき善意に促され、私は渋々建物の中へ足を踏み入れた。
途端に、物理的な質量を伴つた熱気が顔面へぶつかつて来た。酒と獣肉と革と、そして若者特有の暑苦しい汗の匂ひが、濡れた厚布のやうに顔へ張りつく。右手は喧噪極まる酒場、左手には大きな依頼掲示板、正面には威圧的なまでに長い受付の卓。鎧姿の若者たちが肩を怒らせてひしめき合ひ、長衣をまとつた女が書付を睨み、腰に身の丈ほどの大剣を吊つた男が豪快に笑ひ声を上げている。
私は一歩踏み入つただけで、回れ右をして帰りたくなつた。
さういふ顔が、此処には揃ひすぎてゐるのだ。自分には輝かしい未来と行く先が約束されてゐると無邪気に信じ切つてゐる顔。私は昔からあの顔の群れが死ぬほど苦手であつた。学校でも、文壇の集まりでも、酒場でも、あの「希望」に満ちた顔の群れに包囲されると、己一人だけがひどく薄汚れ、場違ひな影法師であるかのように思へて息が詰まる。
「大丈夫です、先生」
「その『大丈夫』といふ根拠なき慰め言葉によつて、事態が好転した試しが、私の半生には一度たりともない」
「では、私がついてゐますからご安心を」
「いよいよ徴兵検査の引率らしくなつて来たな」
アリアは私の皮肉の真意が測りかねるらしく、小首を傾げた。
受付には既に数人の列が出来てゐた。皆、若く、背筋が真つ直ぐに伸び、骨格の中に自分の明るい未来が詰まつてゐるやうな顔立ちである。私は列の最後尾に立ちながら、内心で激しい場違ひ感を噛みしめてゐた。書生絣に二重廻しの男など、どう見てもこの種の野蛮な組合の面接には不適合である。
やがて私の順番が来た。受付の向うには、栗色の髪を実務的にきちんと結ひ上げた女が座つてゐる。目つきが酷く聡く、声もよく通る。ああ、これは手強い。斯ういふ有能な実務家タイプの女は、こちらの曖昧な皮肉や韜晦をすべて無視し、冷酷に実務的手続きへと翻訳してしまふ。
「ようこそ、冒険者組合へ。本日は新規のご登録ですか?」
「……おそらく、そのやうな仕儀になるかと思ふ」
「おそらく、とは?」
「此の互助組織に対する全面的な信頼と安全性が、私の中でまだ確固たるものとなつてゐないからだ」
「では、登録はおやめになりますか?」
「いや、当面の生存と飢餓回避のために、不本意ながら妥協する。人間とは斯くも浅ましく悲しい生き物だ」
受付嬢は営業用の完璧な笑みを一ミリも崩さず、羊皮紙を差し出した。
「では、こちらにお名前とご出身地をご記入ください」
「出身地」
「はい」
「極めて遠方だ」
「それはお召し物を見ればわかります」
「では、遠方と記せば行政手続き上は足りるか」
「国名か、最低でも地方名でお願いします」
「……東の果て、海の向うの島国」
「具体性が全くありませんね」
「私の現在の境涯自体が、やはり具体性を著しく欠いてゐるゆゑだ」
受付嬢は最早何も言はず、羽根筆を突き出した。私は仕方なく紙に向ひ、名前欄の空白の前でしばらく逡巡したのち、「センセイ」とだけ記した。
受付嬢の柳眉が、ほんの僅かに動いた。だが彼女は何も言及しない。職務に忠実な官僚機構の人間は、時として他人のちつぽけな見栄や虚飾を見逃す度量(といふより無関心)を持つてゐる。
「センセイ様。次に適性の確認を行ひます」
「適性」
「はい。魔力の測定です」
「来たな」
「はい?」
「いや、必ず来ると思つてゐた。いづれ丸裸にされての身体検査が」
「身体検査ではありません」
「魔力といふ美名で個人の身体能力と素養を総合的に評価し、しかるのち適材適所と称して危険地帯への運用先を決めるのであらう。全く血の通はぬ選別作業だ」
「違います」
「違ふものか。制度はいつでも、その残酷な牙を柔らかい名称で隠蔽するものだ」
受付嬢は軽く息を吸ひ、反論を諦めたらしく卓の下から透明な水晶球を取り出した。人の頭ほどもある大きさで、銀の台座に恭しく載つてゐる。内部には薄い霧のやうなものが不気味に渦巻いてゐて、どう見ても善良で無害な器械には見えぬ。
「こちらに手を置いてください」
「これを拒否した場合はどうなる」
「身分登録ができません」
「やはり半強制ではないか」
背後に並ぶ列から、失笑が漏れた。私は振り返らなかつた。他人の嘲笑といふものは、直接見ずとも背中の皮膚感覚で十分に察知できるものだ。
アリアが横からそつと囁いた。
「大丈夫です、先生。これは冒険者になる皆さん、必ず通過するものですから」
「『皆がやつてゐる』と云つて人を安心させ、集団心理に訴えかけるのが、制度を強要する際の常套句である」
「でも先生なら、きつと素晴らしい測定結果が出ますよ!」
「素晴らしい結果ほど、後で人を激しく忙殺し、碌なことにならぬ」
私は重いため息をつき、懐の万年筆に触れた。魔除けのつもりなのか、それとも現世との唯一の接点にすがりたかつたのか、自分でも判然としない。ただ、その黒き軸の冷たい感触を指先に確かめてからでないと、その不気味な水晶へ手を伸ばす勇気が出なかつたのだ。
やがて私は、覚悟を決め、水晶球に掌を置いた。
――その瞬間である。
球の内に渦巻く霧が、夏の雷雲のやうに一気に膨れ上がつた。白が青となり、青が金となり、金が目を焼くばかりの眩い白金へと変貌する。ぎらりとした暴力的な光が爆ぜ、卓上の書類が突風を受けたやうにひとりでに舞ひ上がり、広間の空気がびりびりと痙攣した。酒場にある無数の木杯の酒が波立ち、窓硝子がかたかたと激しく鳴る。
「何だ、これ!」
「水晶が魔力飽和を起こしてるぞ!」
「おい、奥から測定官を呼べ!」
「こんな異常な反応、見たことねえぞ!」
どよめきが一気に広がつた。私は驚愕して掌を離さうとしたが、どうにも指先が磁石に吸ひついたやうで引き剥がせぬ。水晶の表面に、見たこともない文字列が次々と浮び上がつた。あれがたぶん、適性だの等級だのといふ評価なのであらう。受付嬢の顔色がみるみる青白く変つたので、私は却つて最悪の事態を確信した。
嗚呼、特級である。間違いなく最前線への送り込みだ。優秀な若者から順に危険な地へ押し込む。近代国家の消耗品としての扱ひは、異界でも微塵も変らぬ。
「勇者反応……!」
「まさか……!」
「加護が多重に重複してる!」
「伝承級だ!」
「勇者だ! 本物の勇者が現れたぞ!」
その一声で、広間が沸騰したやうに沸き返つた。
勇者。何といふ扇情的で血生臭い肩書であらう。英雄だの救世主だの、あの種の甘美な装飾語はすべて、当人の休息と私生活を無限に剥奪するための罠に過ぎぬ。人は「勇者」と呼ばれた途端、公共の所有物となり、もはや病欠も遅刻も、己の胃痛による休養すら許されなくなるのだ。
私は完全に青ざめたまま、絶望的な声で呟いた。
「嗚呼……特甲種合格……」
隣のアリアが、はつとして私を見た。
「先生?」
「やはり斯うなる運命か。私は見知らぬ国家の国体護持のために、最前線の塹壕で露と消えねばならぬのだな……兵役免除の望みは絶たれた」
その言葉が口を出た瞬間、広間に渦巻いていた喧騒が、すつ、と不自然なほど完全に消え失せた。
まるで見えない巨大な手が空気そのものを押さへつけたやうに、笑ひ声も驚愕の叫びも、奥の酔客の怒鳴り声までもが同時に止んだのである。皆が息を呑み、受付嬢もアリアも、遠くの冒険者までが眼を見開いてこちらを凝視してゐる。
私は、それを私の悲壮感が余りの哀れさで場を凍らせたのだと勝手に解釈した。自意識の過剰といふものは、斯ういふときにだけ妙に肥大し、事態を主観的に捉へすぎる。実際には、私の口にした言葉が『森羅万象を従へる言霊』として世界そのものへ命令として作用し、一瞬だけ周囲を強制的に沈黙させてゐたのであるが、そのときの私はそんな超常現象など知る由もない。
不気味な沈黙のなかで、私はさらに言葉を継いだ。追ひ詰められた人間は、大抵ここから墓穴を掘るやうな余計な弁明を言ひ始めるものだ。
「……受付の女よ、頼む。せめて私の本籍地を、此の喧騒から遠く離れた北の果ての極寒の地へと移す手続きをしてはくれまいか。然うすれば、僻地特例として兵役は免除されると、相場が決まつてゐるのだから」
「ホンセキチ……?」
受付嬢が、未知の言語を聞いたやうに困惑して呟いた。
「極寒の地に、己の魂の帰属する魔導結界があるということか……?」
アリアが畏怖の籠もった声で震へながら呟いた。
「兵役免除……いや、魔王軍をたった一人で辺境に留め置くための、古の誓約か!」
近くの冒険者までが、壮大かつ飛躍した解釈を叫んだ。
私は必死であつた。
「違ふ。断じて違ふ! 私はただ、煩雑なる行政書類の所在を移したい丈なのだ! 辺境でよい。人の少ない寒村で、台帳の片隅へひそかに行を移し、あとは雪を掻くなり、薪を割るなりして静かに余生を暮らしたい。勇者だの英雄だの、さういふ仰々しい表札は一切要らぬ。私は名もない村人甲でよいのだ」
しばしの静寂ののち、ざわ、と先ほどとは全く別種の、熱を帯びたどよめきが起つた。
「すげえ……役所の書類なんていう隠語で、世界の理から外れようとしてるんだ」
「名誉も恩賞も一切要らないってことか」
「いきなり一番過酷な北方辺境を希望だと……?」
「やっぱり本物は覚悟の次元が違う」
「これが……真の勇者……!」
違ふ。まるで違ふ。私は覚悟など微塵もしてゐない。ただ己の生命を惜しみ、重圧から逃げたいだけである。だが人間といふものは、誰かの露骨な保身や卑屈さを、時として勝手に高潔な自己犠牲へと変換して受け取る悪癖がある。こちらの情けない本音より、向うが欲してゐるヒロイックな物語の方が、常に強いからだ。
受付嬢はどうにか実務家としての職務を思ひ出したらしく、咳払いをして言つた。
「セ、センセイ様。まづ確認ですが、当組合にはホンセキ制度という高度な魔導具は設置されておりません」
「ないのか。やはり行政システムが根本的に未熟である」
「申し訳ありません。ですが、活動拠点の申請や、行き先に応じた依頼の斡旋ならば可能です」
「それだ」
「最初からさう仰つてください」
「制度の名称が悪いのだ」
そのとき、奥の重厚な扉が開いて、一人の壮年の男が現れた。灰色の髭を整へた、いかにも百戦錬磨といふ風の男で、肩の厚みが普通の人間の倍ほどもある。場のざわめきが、かの預言者が海を割った奇跡の如く自然と左右に割れたところを見ると、組合の長か、その種の最高権力者らしい。
「何の騒ぎだ」
受付嬢が早口で事情を説明すると、男は私と未だに光の残滓を放つ水晶を見比べ、次にアリアを見た。
「……勇者判定、か」
「判定といふより、魔力暴走に近い異常反応です」
「ふむ」
男は私の前まで歩み寄ると、意外に静かな、凄みのある声で言つた。
「若いの」
「若くはない」
「見た目の話だ。名は」
「センセイ」
「ふざけてるのか?」
「半分ほどは」
「結構だ。今はそこは問はん。あんた、本気で北へ行きたいのか」
「本気も本気だ。出来れば明日にも発ちたい」
「勇者としての破格の待遇を捨ててでもか?」
「その待遇といふものが、まづ第一に怪しい」
「莫大な金も名誉もついて来るぞ」
「どちらも人を際限なく忙しくし、胃を痛めつける要素だ」
「魔王軍が攻めて来てもか?」
「なら尚更、中央の王都などに居留するのは危険であらう」
「正論のやうでゐて、根本の何かが決定的に違ふな」
男は太い腕を組み、しばらく私を値踏みするように睨んだ。視線がひどく重い。私は試されるのが嫌ひだ。学校の試験監督だの、就職の面接官だの、あの種の強者の沈黙には若いころから碌な思ひ出がない。やがて男は、ふ、と鼻で笑つた。
「いいだらう。仮登録にしておけ。本人が望むなら、北方の小村での雑務依頼から始めさせる」
「ギルドマスター?」
受付嬢が信じられぬといふ顔で驚愕した。
「勇者様をそんな辺境に追いやるのですか?」
「本人が行きたいと言つてるんだ。それに、力ばかりあつて場慣れしてない青二才を中央で神輿に担ぎ上げると、大抵ろくなことにならん」
私はその瞬間、この髭の男に対して、ほんの少しだけ好感を抱いた。人間を不用意に祭り上げることの危険性を、身を以て知つてゐる者の顔である。
「助かる」
「礼は早いぞ。北へ行くなら最低限の装備は要る。明朝、登録講習も受けてもらふ」
「講習」
「さうだ」
「やはり軍隊式のしごきではないか」
「違う」
「違はぬ」
「違う」
男は頑として断定した。斯ういふ現場の人間の断定は強い。私はそれ以上の反論を一旦棚上げすることにした。
するとアリアが一歩前へ進み出た。
「でしたら、私がお供します!」
「君が?」
ギルドマスターが片眉を上げた。
「はい。ちやうど北方へ向かふ依頼を探してゐたんです。先生はこの街に不慣れですし、私がご案内すれば安心です」
「私は他者の介入によつて安心した記憶が、これまであまりない」
「大丈夫です、先生!」
「だからその言葉は私には効かぬと云つてゐる」
だがアリアは少しも怯まぬ。さういふところが、眩しいと同時に恐ろしくてたまらない。人は自分の意志が弱く悲観的であればあるほど、他人の明朗なる善意の直進力に圧殺される。ギルドマスターは腕を組んだまま頷いた。
「エルフの嬢ちやんが案内につくなら都合がいいな。北方の森道にも詳しいだらう」
エルフ、と彼は言つた。先ほどアリアも同じやうな語を使つた気がする。民族名かなにかであらう。私はまだ、その長耳の分類学的な位置づけを己の中で決めかねてゐたが、当人の前であまり細かく詮索するのも不躾である。
「それと、今日のところは街で休め。明日、装備屋を回してやる。勇者だらうと何だらうと、靴がなきや歩けんからな」
「私は既に上質な靴を履いてゐるが」
「さういふ意味ぢやねえよ」
受付嬢は書類を整へ、細長い金属板を私に恭しく差し出した。表には番号と、簡略な紋様、それから私の似顔絵らしきものが粗く刻まれてゐる。何だか墓標の試作品を手渡されたやうで、あまり嬉しくない。
「こちらが組合証です。仮登録ですが、身分証明になります」
「結局、行政の台帳の札か」
「身を守る便利なもの、と受け取つてください」
「便利なものほど、あとで人をしがらみで追ひ詰める」
「先生、それ名言ですね」
アリアがひどく感心したやうに言つた。
「違ふ。ただの愚痴だ」
「深いです……」
深くない。むしろ浅瀬で泥に足を取られてゐるだけである。
広間の空気は、なほもどこか異様にざわついてゐた。勇者といふ単語が、遠巻きに私を包囲してゐるのが皮膚でわかる。視線が痛い。人は衆目を浴びると昂奮する者と著しく消耗する者に分かれるが、私は無論、後者である。ひと目見られるごとに、胃のあたりから少しづつ生命力が削られてゆく気がした。
そのとき、酒場の方から、脳天を突くやうな明るい女の声が飛んで来た。
「新しい勇者さまにゃ?」
私はぎくりとして振り向いた。盆を抱へた娘がゐる。頭にはふさふさとした三角の獣耳が生え、腰の後ろでは立派な尻尾まで揺れてゐる。私は丸眼鏡を外して丹念に拭ひ、それでも同じ物理的現象が見えるのを確認してから、低く呟いた。
「……化け猫の類か」
「失礼にゃ! 猫人族にゃ!」
「種族などといふ分類名を与へれば、事象が合理的に片づくと思ふなよ」
娘はきよとんとしたあと、けらけらと暢気に笑つた。
「変な人にゃあ」
「変なのはそちらの骨格だ」
「ミケって言ふにゃ。あとでお茶でも飲んでいくにゃ?」
「飲まぬ」
「即答にゃ」
「獣の持つて来た飲み物など、文明人ならば衛生面を警戒して当然であらう」
「何そのひどい偏見!?」
ミケと名乗つた娘は、尻尾をぶんと振つて不服さうに奥へ戻つて行つた。私は大いに疲労困憊した。長耳の娘だけでも私の脳の処理能力を超へてゐるのに、今度は猫耳と尻尾である。異界といふものは、近代人の認識論的限界を試すことにかけて、妙に熱心らしい。
ギルドマスターは肩を竦めた。
「酒場の看板娘だ。悪い奴ぢやねえぞ」
「悪い奴ほど、周囲からさう云はれるものだ」
「先生」
アリアが困つたやうに苦笑した。
「ミケちゃんを妖怪扱ひするのは、ちよつと可哀想かも」
「妖怪でなければ尚更困る。現実に耳の生えた人間がゐるなどと認めてしまへば、私の積み上げた認識体系が音を立てて崩壊する」
「でも可愛いですよ?」
「可愛いことと、公衆衛生上安心できることは全くの別問題だ」
手続きを終へた私は、彼らの過剰な視線から逃れるやうに、逃げるやうに組合を離れた。外へ出ると、夕方の斜光が広場に長く傾きかけてゐた。噴水の水が血のやうに赤く光り、石畳の目地に深い影が落ちてゐる。街の喧噪はなほ衰へぬが、昼間ほどの暴力的な尖りはない。
「先生、本当に北へ行かれるんですね」
「行かねばなるまい」
「やつぱり、辺境の名もない人たちを救ふために」
「違ふ。辺境の名もない人たちの中に紛れ込み、私自身が救はれたいのだ」
「まあ……なんて自己犠牲的で深い……」
「だから深くないと何度言へば通じるのだ」
しかし彼女の耳には、もう私の卑屈な訂正など届いてゐないらしい。
「先生は、勇者なのに少しも偉ぶらないんですね」
「偉ぶる理由が私の中には存在しない」
「でも普通なら、あんなふうに皆に注目されたら誇らしげになります」
「過剰な注目は、ただ人を消耗させる凶器だ」
「それでも逃げずに登録された」
「飢餓に苦しんで野垂れ死にしたくなかつたからだ」
「つまり、生き抜いて成すべきことがある、と」
「ない」
「あるんですね」
「本当に話が通じぬな、君は」
アリアは心底嬉しさうに笑つた。私は説得を諦めて空を見上げた。異界の夕空は、妙に澄み切つてゐて困る。あまりに空が綺麗だと、相対的にこちらの惨めさにまで明確な輪郭を与へられてしまふ気がするのだ。
宿は、石造りのこぢんまりした建物であつた。受付で前払いを済ませると、狭いながら清潔な部屋をあてがはれた。寝台が一つ、小机が一つ。窓からは広場の屋根の列が見え、その向うに夕焼けの残光が細く挟まつてゐる。
「明日、朝になつたら迎へに来ますね」
アリアが戸口で朗らかに言つた。
「来なくてよい」
「装備屋さん、ひとりだと迷ひますよ」
「迷つてそのまま北へ遁走するかもしれぬ」
「それは困ります。先生には、ちゃんとした靴と鞄と、あと旅用の外套も必要です」
「私はこの服で十分だ」
「その格好、とても素敵ですけど、旅には少し大変かも」
「否定しながら褒めるといふのは、甚だ狡猾な論法だ」
「本心ですよ」
彼女はくすりと笑つた。
「では、おやすみなさい。先生」
「……おやすみ」
扉が閉まると、部屋はしんと静まつた。
私は寝台に重く腰を下ろし、長く深い息を吐いた。今日一日で、死に、異界へ強制送還され、門番に呆れられ、長耳の娘に勝手に先生と呼ばれ、組合で不本意な勇者認定を受け、北方への転籍を願ひ出た。あまりに密度が濃すぎる。生前の私は、斯ういふ激動の日はたいてい知恵熱を出して寝込んでゐた。
私は懐から万年筆を取り出した。黒い軸に、使ひ込まれた傷がある。次に、組合証を机のうへへ無造作に置いた。一つは、私が生前、己の恥と憂鬱を書きつけるために用ゐた孤独な道具。一つは、この世界が私を勝手に分類し、縛り付ける札。どちらがより不吉か、しばらく考へてみたが、結論は出なかつた。
水差しの生温かい水を飲み、ふと、胃薬のことを思ひ出した。さうだ、胃薬である。異界に来てからまだ一度も服用してゐない。これは極めて危険だ。精神の動揺は、すぐさま肉体に報復として現れる。私は荷物らしい荷物もない部屋を見廻し、空しく自嘲した。
「薬もないか」
呟いた途端、机の上の空気がふつと不自然に歪んだ。
小さな紙包みが、虚空からぽとりと落ちた。
私は完全に固まつた。
紙包みには、見慣れぬはずのこの世界の文字で「胃腸散」とあつた。厳密にはこちらの言語なのであらうが、意味だけは確かにさう読解できた。私は恐る恐る包みを開けた。中には灰白色の粉が少し。香りも、どこか生前愛用してゐた薬に似てゐる。
「……」
私はしばらく黙つてその粉を凝視し、やがて水で飲み下した。効くやうな、効かぬやうな、しかし少なくとも気分はプラシーボ効果によつて少し落ち着いた。あの女事務官の言つた『森羅万象を従へる言霊』。もしや、私の何気ない呟きが、何かしらの事象として現実へ直接作用してゐるのではあるまいか。
だが、すぐに私は強く頭を振つた。そんな非科学的な馬鹿な話があるものか。偶然である。たまたま前の客か誰かが置き忘れたのだ。あるいは私が死後の混乱で、最初からここにあつたのに単に気づかなかつたのだ。人は自己の理解を超へた現象に出会つたとき、二つの道を選ぶ。ひとつは世界観を根本から改めること。もうひとつは、自分の見なかつたことにして理性を保つこと。私は無論、後者である。
寝台へ身を投げると、粗悪なばねがぎしりと不快な音を鳴らした。窓の外では、遠くから酒場の笑ひ声が聞えて来る。嗚呼、私は勇者であるらしい。やる気は、一切無い。むしろ皆無のままでゐたい。できることなら、北の果ての小村で名もなく台帳に埋もれ、誰にも見つからぬまま冬を越したい。
私は薄い毛布を胸まで引き上げ、染みだらけの天井を見た。
「どうせなら、明日は防具屋が休業でありますやうに」
半ば本気で、半ば切実なる祈りとして呟いた。すると廊下の向うで、誰かが慌てたやうな声を上げた。
「えつ、親方が急に腰を……?」
「何だと、防具屋の店主が……?」
「明日は店、昼まで開けられねえぞ!」
私は毛布の下で、固く眼を閉ぢた。聞かなかつたことにしよう。世界がこちらの弱気な溜息にまで律儀に応へるのだとしたら、それはもはや恩恵などではなく、悪辣なる別種の災厄である。けれど災厄にしては、私にとつていささか都合がよすぎる。
私はその夜、浅い眠りに落ちる寸前まで、万年筆の冷たい軸を指先で神経質に弄んでゐた。明日こそ、なるべく誰の目にも立たぬやうに――。
翌朝、そのささやかな願ひが如何に無惨に裏切られるかを、このときの私はまだ知らなかつた。




