第1話 灰の月の匂い
最初に戻ってきたのは、匂いだった。
焦げた木と、濡れた土と、汗の酸っぱさ。さらにその奥に、金属――鉄錆に似た血の匂い。目が開かないのに、鼻だけがやけに正確に世界を拾う。暗い。狭い。湿っている。肺が勝手に空気を吸い込み、喉が勝手に鳴いた。
泣き声。
それが、自分のものだと理解するのに、少し時間がかかった。
……おかしい。泣くつもりなんてない。泣く必要もない。泣けば呼吸が乱れ、酸素消費が増える。泣いたところで状況は変わらない。理屈ではわかっているのに、身体が勝手に泣く。筋肉が、神経が、反射が、理性より先に命令を出している。
視界がぼやけた白に滲み、次いで大きな影が迫った。柔らかいものに包まれる。温度が上がる。心拍が耳元で鳴る。誰かの胸だ。母親――そう結論づけた瞬間、未知の安心が胸の内側を満たし、逆に恐ろしくなる。
俺は……赤ん坊?
記憶はある。研究室の白い光、ガラス器具の匂い、溶媒の揮発。液体窒素の白煙。朝のコーヒー。締切。査読。大きな成果の直前、机の上に積んだメモ。名前も、人生も、確かにあった。
だが、いま俺の世界は布と皮膚と、湿った空気だけだ。
「……生きてる。よかった……」
女の声が震えている。言葉は日本語ではない。けれど意味がわかる。脳が勝手に翻訳しているのか、それとも――
「ミラ、見せて。……ああ、泣き声もしっかりしてる」
男の声。二人目。距離は近いが、気配が硬い。手が俺の頬に触れた。指の節が分厚い。労働者か、戦士か。皮膚に刻まれた微細な傷から、毎日何かを握っている人間だとわかる。
「名は……どうする。灰の月が近い。縁起なんぞ言ってられん」
灰の月。単語の響きだけで、胸の底が冷たくなる。恐怖が、理性より先に神経を震わせる。母親の腕が強くなる。男の呼吸が荒くなる。
「……アレン。あの人みたいに、強く生きてほしい。あなたの弟みたいに」
「やめろ。死者の名は呼ぶな。災厄は音を好む」
災厄。
また、胸が冷える。
俺はただの赤ん坊で、何もできない。けれど、頭だけは動く。情報を集め、仮説を立て、検証する。そうしなければ、状況を理解できない。理解できなければ、対処できない。対処できなければ死ぬ。
――生存のために、思考を止めるな。
そのとき、視界の端に、不自然な光が揺れた。
透明な板のようなものが、空中に浮かび、文字の列が走る。幻覚? いや、焦点を合わせると、確かにそこに“ある”。文字は、この世界の言語で書かれているのに、意味が理解できる。
【個体名:未設定】
【種族:人族】
【状態:新生児】
【レベル:1】
【ステータス】
筋力:1
敏捷:1
耐久:1
魔力:0
知力:……?
知力の欄だけが、砂嵐のように乱れている。数字が定まらず、幾つもの値が瞬き、最後に「測定不能」と表示され、板が薄く消えた。
……ステータス。ゲーム的な概念? この世界には、“可視化された能力”が存在する。少なくとも、俺はそれを見られる側にいる。
「見えるの?」と母親が囁いた。俺の額に指を当てる。ひんやりとした指先。そこに何か、微弱な熱が流れた感覚がした。
「……魔力がない子だ。ほとんど感じない」
男が言い、溜め息を吐く。
魔力がない。つまり、この世界の主要なリソース――剣と魔法の「魔法」側に、俺は生まれつき乗れない可能性がある。現代の化学者としての知識はあっても、魔法にアクセスできないなら、できることは限られる。だが逆に言えば、魔法がないからこそ、科学が刺さる。
熱、圧、反応、保存、衛生、素材、燃焼、薬、毒、爆発――。
この世界がどれだけ魔法に依存していようと、人体は化学の上に乗っている。感染症は菌で、腐敗は微生物で、傷は炎症で、飢えは栄養で、毒は分子だ。
俺は赤ん坊で、今は何もできない。それでも、できる準備はある。
まずは観測。次に言語。次に体。次に金。次に力。次に――生き残る仕組み。
「……泣き止んだ」と母親が笑った。笑いながらも、その目は濡れている。「賢い子。ねえ、あなた……この子、灰の月までに、教会に預けた方がいい? うちじゃ……」
「教会に預けたら、戻ってこない。徴税官に見つかったら、今度は“供物”だ。……うちでやるしかない」
供物。その言葉に、母親の肩が震えた。男は言い切ったが、その声はかすかに割れていた。
外で風が鳴く。木造の壁が軋む。小屋の隙間から、冷えた夜気が入ってきて、俺の肌を刺した。火の匂いがした。小さな炉がある。燃料は……乾いた草と、樹皮。煤の粒子が鼻腔に入る。
――燃焼効率が悪い。酸素供給が不足している。換気も悪い。屋内の一酸化炭素濃度が上がっている可能性がある。長期的には致死性。
だが、そんなことを今言えるはずもない。赤ん坊は、言葉で世界を変えられない。泣き声でしか主張できない。
それでも、胸の中に小さな火が点いた。
俺はもう一度人生を与えられた。なら――ただ流されて死ぬのは、研究者として、男として、許せない。
ふいに、遠くで鈴の音がした。二つ、三つ、立て続けに。次いで、犬の吠える声。村の警戒鈴だ。男の身体が瞬間的に硬直し、母親の顔から血の気が引いた。
「……来た」
男が低く言った。
来た、とは何だ。疑問が浮かぶより早く、外から悲鳴が飛び込んできた。人間の声。混じって、獣のような唸り声。地面を叩く重い足音。木が折れる音。金属がぶつかる音。
母親が俺を抱えたまま立ち上がる。抱き方が変わり、俺の視界が揺れる。男は壁際の槍を掴んだ。穂先は黒く、何度も研がれている。刃の角度が甘い。鉄の質が悪い。炭素量が不安定で、折れる危険がある。
――この世界の冶金は未熟だ。なら、炭の作り方、炉の作り方、焼き入れ、焼き戻し……。
思考が加速する。未来のために。生き延びた先のために。
だが、その未来が、いま目の前で刈り取られようとしている。
壁の隙間から、外の夜が見えた。松明の火。走る影。人が倒れ、土が跳ねる。そして――人間の背丈ほどもある、黒い塊が畑を越えて迫ってくる。
毛ではない。鱗でもない。濡れた革のような皮膚。関節が異様に多い脚。顔の位置がわからない。口がどこにあるのかもわからない。ただ、腹のあたりに裂けた穴のような部分があり、そこから白い霧が漏れている。冷気? それとも毒の揮発?
怪物は松明の光を嫌うように身を捩り、それでも人間に向かって突進していた。
「魔物だ……!」
誰かが叫ぶ。
男が歯を食いしばり、小屋の扉に手をかけた。
「ミラ、奥に隠れろ。絶対に出るな。アレンを守れ」
母親は震えながら頷き、俺を抱き締めた。胸の鼓動が早い。恐怖で乳酸が出ている。体温が上がっている。人間は恐怖で化学反応を起こす。
そのとき、俺の視界にまた透明な板が浮かんだ。
【警告:局地的魔物襲撃】
【発生条件:灰の月前兆】
【災厄カウントダウン:27日】
数字が赤い。板の端が、煤のように崩れていく。まるで、世界そのものが燃えているみたいに。
灰の月。定期的な大災厄。前兆として魔物が湧く。
理解した瞬間、背筋が冷たくなった。
この世界は、定期的に終わる。終わりが来ることを前提に回っている。終わりが来るから、倫理が歪む。供物が必要になる。教会が権力を持つ。貧しい村は犠牲になる。
そして――俺は、そこに生まれ落ちた。
扉が開いた。冷たい夜気が流れ込み、松明の煙が舞い込む。男が外へ出た。槍が月明かりを受けて鈍く光る。
次の瞬間、獣の唸りが近づき、家の壁が、強烈な衝撃で揺れた。
母親の腕がきつく締まる。俺の喉が勝手に鳴き、泣き声が漏れた。理性は泣くなと言っているのに、身体は恐怖に正直だ。
――泣き声は音だ。災厄は音を好む。
男の言葉が、胸の奥で反響する。
俺は泣きながら、初めてこの世界に誓った。
絶対に生き残る。
灰の月の正体を突き止める。
そして――この世界の“終わりの法則”を、化学でねじ曲げてやる。
外で、誰かの叫び声が途切れた。
次いで、粘ついた破裂音。
そして、小屋の前で、低く湿った呼吸が止まった。
何かが、こちらを嗅いでいる。
匂いが、近い。
焦げた木と、濡れた土と、血の匂い。
その全部を塗り潰すような――冷たい甘さ。
扉の隙間から、闇が覗き込んだ。




