第4話|未来が変わる
「じゃあ、外に出ようか」
直樹の声に、私はうなずいた。
歩き出したこの道──よく知っている。
ほんの少し先の街灯の下。
そこが、私が告白される場所。
あの未来に、確定された分岐点。
ここを通れば、きっとまた、あの言葉が待っている。もう考えている時間は残されていなかった。
隣を歩く直樹は、やけに静かだった。
でも、伝わってくる。
抑えきれない鼓動、深呼吸をして気持ちを整えている。
──直樹は、決めている。
あの言葉を、もう一度言うつもりなんだ。
私の心は、揺れていた。
この告白を受け入れるべき?
それとも、拒絶すべき?
受け入れれば、あの絶望の未来に再び向かうかもしれない。
でも、未来を知っている私なら、直樹を変えられるかもしれない。
直樹が変わってくれたら、結末だって変えられるかもしれない。
たとえ産まれてくる子どもが違っても、またあの“家族”を作れるのなら──
……いや、それは都合のいい幻想だ。
そんな保証、どこにもない。
だって私は、過去に信じて、裏切られたのだから。
逆に、今ここで断れば?
直樹の告白を拒絶すれば、未来は確実に変わる。
少なくとも、あの地獄からは抜け出せるはず。
でも──
新しい未来が、幸せだなんて、どうして言い切れるの?
足が止まりそうになる。
気づけば、告白されるあの場所まで、あと数歩。
選択のときは、目の前まで迫っていた。
私は、分からなくなっていた。
何が正解で、何が後悔なのか。
未来を変えるって、こんなにも苦しいの?
そのとき、直樹が小さく、息を吐いた。
──来る。
「詩織さん、今日は付き合ってくれてありがとう」
「いえ、あんなにおいしいごはん、食べられたので……こちらこそ、ありがとうございます!」
──あの時と、同じセリフを口にしている自分に気づく。
私は、過去をなぞっている。
「それでさ……」
分かってる。
分かってるのよ、直樹。
でも私には、応え方が分からないの……。
お願い、違うセリフを言って。
お願いだから、私に選ばせないで。
「これからもさ、詩織さんには一緒にいて欲しいんだ。……俺、詩織さんのことが好きだから」
「……」
「詩織さんの迷惑じゃないなら……俺と付き合ってくれないかな?先輩としてではなく、一人の男として、向き合ってほしい」
「……」
だめだ。
言葉が、出てこない。
直樹は私から言葉を待っている。
でも、何も言えないんだよ、直樹......
「詩織……さん?」
「...あっ、はい!」
「なんで……泣いてるの?」
「え?」
──気づけば私は、涙を流していた。
顔を上げると、街灯の光の中で、直樹の瞳が優しく揺れていた。
「ごめん、急すぎてビックリさせちゃったよね……」
直樹が少し苦笑しながら、言った。
でも、そんな言葉より先に、私の口から出ていた。
「違うんです……直樹さんの気持ちは、本当に嬉しいんです。直樹さんと一緒にいると、楽しく過ごせることだって分かってます……」
そこで、言葉が詰まった。
心の奥に、ずっと押し込めていた恐怖が、声に乗って溢れ出す。
「でも……怖いんです。
直樹さんのことが好きだからこそ、怖いんです。
きっと私は、直樹さんに依存してしまいます。
でも、そうなってしまったら……」
──思い出してしまう。
直樹との結婚生活。
初めのうちは、本当に幸せだった。
くだらないことで笑い合って、育児の大変さを二人で分かち合って……。
けれど、ある日を境にそれは崩れた。
直樹は、別の女性と恋に堕ちた。
家族を捨てて、私たちの元を去った。
なぜ、そうなってしまったのか。
私はずっと、自分に問い続けてきた。
──あのとき、彼は苦しかったのだと思う。
仕事は順調に見えて、プレッシャーも大きかった。
数年後、彼は大きなプロジェクトの責任者になり、そのプロジェクトで大きな赤字を出す失敗をしてしまった。
表面上は平然としていたけれど……
あれは、必死に心を保っていただけだったのかもしれない。
それなのに私は、何も気づけなかった。
育児に追われて、いっぱいいっぱいで。
直樹の苦しみに気づいてあげられなかった。
彼を支えるどころか、助けられてばかりだった。
その結果、彼は──
自分を優しく励まし、寄り添ってくれる女性の元へ、行ってしまった。
もしかしたら、今の私なら、あのときと違う選択ができるかもしれない。
直樹がつらいときに、ちゃんと向き合って、支えることができるかもしれない。
でも、それができるという自信が、私にはない。
私は弱い。
誰かに寄りかからないと生きていけない。
苦しみに直面したとき、逃げ出したくなるの。
あの未来を知ってしまったからこそ、私は“また繰り返してしまうかもしれない”という恐怖に足をすくまされている。
未来を変えたい。
でも、またあの地獄へ続く扉を、自分の手で開いてしまうかもしれない──。
「……正直どうすればいいのか、自分でも分かりません。
だから、今この場で、直樹さんの気持ちに応えることは……ごめんなさい……」
涙が止まらなかった。
言葉を絞り出すだけで精一杯だった。
未来を変えたいのなら、ここで断るべき。
その理屈は頭で分かっている。
でも、“断れば幸せになれる”という確信が、どこにも持てなかった。
「……分かった!」
直樹が、笑った。
いつものように、優しい笑顔だった。
「詩織さん、困らせてしまってごめんね。でも、俺はいつでも待ってるから。
その時にまた、返事をしてくれればいいからさ。
あ、だからって会社でよそよそしくなるのはやめてな」
強がっているのか、それとも本気で気にしていないのか。
彼はいつものように、ふわっとした空気で、私の心に余白をくれた。
「ありがとうございます……はい。これからも、ご指導よろしくお願いします」
──これで、未来は確実に変わった。
直樹と付き合うことを、私は拒んだ。
望んだはずの結果。
でも、胸の中には喜びよりも、恐怖が広がっていた。
……本当に、これでよかったの?
私は、その答えが分からないまま、家路についた。
*
一方その頃。
違う世界では、あるニュースが静かに流れていた。
「本日未明、東京都内にて、8歳と5歳の子どもが保護されました。
二人は母親の失踪により、警察により一時保護されたとのことです。
母親の名前は──葉月詩織」
それは、詩織が“置いてきたはずの未来”。
彼女の選択が、確かに世界を変えていた




