第2話|10年前の元夫
目を開けると、そこは見覚えのある天井だった。
薄暗いワンルームの天井。シンプルな照明。カーテンの隙間から、夜の街灯の明かりが差し込んでいる。
……ここ、私の部屋?
慌てて起き上がる。
手をつくと、畳の代わりに安いフローリングの感触。家具は、あの頃使っていた白いテーブルと、くたびれたカラーボックス。
鏡を見ると、見慣れない若い顔があった。
今の34歳の私ではない。
24歳の――社会人2年目の私だ。
「……夢じゃ、ないよね」
喉が震える。
慌てて机の上の手帳を開くと、日付ははっきりとこう書かれていた。
2015年9月15日...ちょうど10年前...
時間も夜の10時を少し回ったところだった。
息を大きく吸い込む。
落ち着け私、とりあえず状況を整理しよう。
2015年といえば、私は社会人2年目。
私は、人材派遣会社の営業職として毎日を駆け抜けていたな。
やっと独り立ちが見えてきた時期だけれど、まだまだミスばかりで、毎日が緊張の連続だった。
「あの頃は……ほんとに必死で……毎日、自分のことで精一杯だったな」
上京してきて、周りに頼れる友達も家族もいなくて。
心が折れそうになった時、私を支えてくれていたのが……
元夫である、同じ職場の直樹さん。
三つ上の先輩社員。
派手さは全くなくて、どちらかといえば不器用で地味な人だった。
でも、仕事のことも私のことも、本当に真剣に向き合ってくれた。
「詩織さん、大丈夫だから。一緒に整理していこう」
何度そう言われて救われただろう。
私が泣きそうな時、さりげなくコーヒーを買ってきてくれて、夜遅くまで残ってくれたこともあった。
気づいたら、彼の存在に心が寄りかかっていた。
あの頃の私は……ただ優しさに飢えていたんだと思う。
でも今は知っている......
彼と結ばれた未来の先に、どんな現実が待っているのかを。
心臓がバクバクする。
直樹さんが目の前に現れたら、私は本当に拒絶できるのだろうか。
大好きだったあの頃の直樹さんが、まだ何も知らない純粋な姿でそこにいるんだ。
……心が動かないわけがない。
「未来を変えるんだ……私がこの世界に来たのは、そのためでしょ……」
と、自分に言い聞かせる。
そして、直樹さんとなぜ付き合うことになったのか、その記憶を辿る。
きっかけは……仕事帰り、直樹さんから突然誘われたディナー。
不安だらけの日々で、気になっていた人からの食事の誘いが嬉しくて、二つ返事でついていった。
あの日の帰り道、彼に告白されて、私は頷いたんだ。
その瞬間から、すべての歯車が回り始めた。
そういえば、そのディナーの日って......
2015年9月16日
「……え?うそ?明日、じゃん!!」
頭の中が真っ白になった。
どうしよう。
未来を変える分岐点が、もうすぐそこまで迫ってる。
ここで断ち切らなきゃ。
明日、絶対にディナーには行かない。
断るんだ。
友達と約束があるって言って、予定があるからって、毅然と断るんだ。
もしついていって、あの直樹さんの熱意でまた告白されたら……
心が揺らがない自信、正直ないから。
それでも未来を変える。絶対に。
そういえば、明日会社に行ったら、久しぶりにみんなに会えるの嬉しいな。
懐かしい顔ぶれ。あの頃は3年目で結婚して辞めちゃったから、そこから10年近く会ってない人ばかり。
どうか、私が……過去と決別できますように。
そう願いながら、私はベッドに倒れ込んだ。
翌朝。
目覚まし時計のベルが鳴る前に、私は布団から飛び起きた。
久しぶりに身支度を整える動作がぎこちない。
化粧水のボトルも、ドライヤーも、10年前のものだ。
鏡の中にいるのは若い自分。
だけど、心臓の鼓動は、今の34歳のリズムで鳴っている。
「……姿は10年前。でも、中身はもう別人なんだもんね。変に挙動不審にならないでよ、私」
大きく息を吸って、スーツのジャケットを羽織る。
この日が――運命の分岐点の前日だ。
⸻
会社へ向かう電車の中で、手汗が止まらなかった。吊革につかまる手に、鼓動がまで伝わってくる。
頭の中で何度も自分に言い聞かせる。
落ち着け、自然に、自然に……
「私、絶対ディナーには行かないんだから!」
そう自分に言い聞かせた。
⸻
電車を降りて、会社へ向かうために歩いていた時だった。
今はまだ出会ってはいけない人に遭遇してしまった...。
「詩織さん、おはよう。」
うそでしょ……この声は......
目の前に、にこやかな笑顔で立つ人影。
佐藤直樹。私の元夫。
「お、お、お……」
言葉にならない。息が詰まる。
「お、おはようございます、直樹さん!」
「え?ごめん、そんなにビックリさせちゃったかな?」
首を傾げるその仕草、あの時とまったく同じだ。
「え、いや、そ、そんなことないよ!」
「そ、そう?でもさ、今日の詩織さん、なんか雰囲気違うね。しかも下の名前で呼ばれたの、初めてだよ?いつも“佐藤さん”なのに。それに今日はフレンドリーだし、何かあった?」
うわあああああああああ!やっちゃった!!
心の中で頭を抱えた。
そうだった、当時は下の名前で呼んでなかったんだ!
しかも「そんなことないよ」なんて、先輩に対してありえない!
夫だった時の癖が出てるじゃん!
「す、すみません!ちょっと考え事してたら佐藤さんに声をかけられてビックリして……ごめんなさい!」
「え、ごめん...でも、そんなにビックリさせたかなあ?」
あっぶな~~!
バレてないよね?ね?
タイムリープなんてバレるわけないけど!!
「最近、詩織さんもだいぶ独り立ちできてきたし、いい感じで成長できてるよね」
だから!その笑顔やめてー!!
その誠実さが危険なんだってば!!
「ありがとうございます、佐藤さんのおかげです」
「いやいや、詩織さんが頑張ったんだよ。僕なんてサポートしてるだけだから。辛いときは遠慮なく頼っていいからね」
……あ、これ。
この優しさ、昔の私なら100%惚れるやつ。
ダメダメダメダメ!!!
逃げなきゃダメ!やられる!
「そうだ、急ぎの資料!忘れてた!すみません佐藤さん、先に会社行きます!」
そう叫ぶなり、私はカバンを抱えて全力でダッシュした。
置き去りにされた直樹さんの、不思議そうな顔が視界の端で揺らめく。
危なかった……心が揺れそうになった......
⸻
会社のエントランスをくぐると、懐かしい光景が広がっていた。
「うわー……この空気!懐かしい!!」
パソコンの立ち上げ音、電話のコール音、キーボードを叩く音。
全てが2015年のまま。
あっ、いた。
角張ったメガネをかけて、腕を組みながら眉間にしわを寄せている男――下沢課長。
「……この人、昔は怖くて仕方なかったんだよね。……でも今見ると、ただの面白いおじさんにしか見えない!」
思わず大声で、
「下沢さん!おはようございます!」
「えっ!?お、おお……おはよう。なんだ、今日はやけに元気じゃないか?」
驚かれてしまった。そりゃそうだ。
だって2年前の私、下沢さんにこんな大きな声で挨拶したことないもん。
机に着くと、次々と資料を整理して作業に取りかかる。
10年分の経験値を積んだ頭脳で進めれば、2年目の業務なんて楽勝だった。
仕事を辞めてからも、派遣社員として営業事務も経験していたから。
午前中で終わるはずのない資料をあっさりと片づけ、下沢に声をかける。
「下沢さん、こちらの資料、今日の16時までに確認お願いできますか?」
「おう……?お前、今日なんかおかしくないか?いや、悪い意味じゃなくて……そんなテキパキしてたっけ?」
「いえ、まだまだですよ。でも、クライアント提出が明日なので。お忙しいところ申し訳ありません」
「……わ、分かった。なるべく早めに見ておく」
周囲の同僚たちがひそひそと囁き合う。
詩織さんって、こんなにできる人だったっけ?
なんか、別人みたい……。
心の中で、私は深呼吸した。
よし、少しずつ……未来を変えていこう。
定時が近づき、社内の空気が少しずつゆるんでいく時間帯。
キーボードを叩く手を止めた瞬間――カツ、カツ、と規則正しい足音がこちらに近づいてきた。
きた……!
背筋に電流が走る。
この足音、間違いない。直樹さんだ。
心臓が口から飛び出しそうになるのを押さえつけるように、呼吸を整える。
落ち着け、詩織。これまで何十回もシミュレーションしたじゃない!
「詩織さん、ちょっと今、時間ある?」
その優しい声がすぐ後ろから聞こえた瞬間、私は硬直した。
ああ、この声、久しぶりすぎて……。
「……は、はい!大丈夫ですよ!」
声、裏返ってない!?
大丈夫?私、平常心保ててる?
「今日の夜なんだけど、良かったら一緒にご飯にでも行かない?」
来た……この誘い。
運命を狂わせたあの一言。
ここで断れれば、未来は変わるんだ。
何度も頭の中で練習した言葉を思い出しながら、口を開く。
「今日ですか……ごめんなさい、私、友だちとご飯行く約束しちゃってて……」
言えた!
堂々と、ちゃんと断れた!!
これで未来が変わる!
よくやった、詩織!!
と思ったのも束の間。
「……どうしてもダメかな?」
直樹さんが少しだけ寂しそうに笑った。
え?待って。
そんな顔しないで?
「ほら、この前、詩織ちゃんが行ってみたいって言ってたイタリアンあるでしょ?
たまたまさっき確認したらキャンセル出たみたいで、今夜なら2席空いてるって言われたんだ。せっかくだからどうかなって。」
え、なにそれ……聞いてないよ!
いや、行く店知ってるから聞いているけど!
「え、えっと……でも、その、友だちとの約束が……」
「友だちならまた別の日でもいいじゃん!こんな機会めったにないし、俺もすごく楽しみにしてたんだ」
ええええ!?
な、なんでそんな押してくるの!?
「あっ、でも……」
声が震える。
頭の中で警報が鳴り響いていた。
ダメ!これ以上行ったら、また同じ未来になる!
「……そっかあ。無理だよね……ごめんね」
直樹さんが、ほんの少しだけ肩を落とした。
ああああああああああ!!その顔は反則!!
やめて、その落ち込んだ表情……昔の私がどれだけ弱かったか、今でもよく分かってるくせに!
「……わ、分かりました。行きます」
ああああああああ!!!
なんでそうなるのー!!!
未来を変えるって言ったばっかりなのに!!
「本当?ありがとう!じゃあ18時半にエントランスで待ってるから」
「は、はい……」
背中を向けて去っていく直樹さんの後ろ姿を見ながら、私は机に突っ伏した。
嘘でしょ……断れなかった……。
私の未来、ピンチすぎるんですけど!?
頭の中で、番人の声が聞こえた気がした。
「えっと...本当にそれで良かったのかな?」