第1話|わたしの選択
「ママはね……あなたのことを、本当に愛していたのよ。だけど……ママ、行かなくちゃいけないの。
……待ってる子が、いるから。」
涙でにじんだ視界の向こう、小さな手が、何かを言いたげに伸びてくる。
声を出せば崩れてしまいそうで、私は黙って首を振った。
そして、静かに背を向けた。
振り返ることは、できなかった。
その瞬間、世界が音を失った。
───
私は、葉月詩織。
8歳の娘と5歳の息子の、二人の子どものママです。
夫とは2年前に別れました。
理由は、彼が別の女性と関係を持ち、そのまま何も言わず家を出て行ったから......
離婚後、養育費は滞りがちで、最初の数ヶ月こそ振り込まれていましたが......やがて口座は空のまま...
私は、週5のドラッグストアのパートで何とか生活を支えています。
住んでいるのは古い市営団地。築何十年になるんだろう...
エレベーターもなく、階段を何往復もしながら、重い買い物袋を運びます。
服は、新しいものを買う余裕がないので、少しぐらい穴が空いていても、我慢して着るしかありません。
美容院には半年に一度だけ。
お金の節約のためにショートヘアとロングヘアを交互に繰り返しています。
長くなったらショートヘアに。
そうすれば、半年行かなくても何とかなるから。
お化粧もできるだけ手を抜きたくて、外出時はマスクが手放せません。
電気代を節約するため、真夏でもエアコンは控えて、扇風機一台で子どもたちを寝かしつけています。
近所のスーパーのお惣菜が、何時に値引きされるか、全部覚えているのは自慢です。
少しみじめですけど...
それでも、頑張れていたんです。
「ママ、だいすき!」
そんな無邪気な笑顔に、どれほど救われたことか。
この子たちのためなら、私はどんなことでも耐えられるって、思ってた。
……でも、限界は突然やってくるんですね。
ある日、Instagramを何気なく見たんです。
エステに通って、オシャレして、毎日お弁当がキラキラで。
「#3児ママ」
「#育児も仕事も楽しむ」
そんなタグが、まるで私の存在を全否定してくるみたいで、息が詰まりそうになりました。
「違う人生だったら、私だって……」
「私はこうやって、惨めな思いをして死んでいくのかな......」
そう思った瞬間、涙が溢れて、止まりませんでした。
家に帰っても、子どもたちの喧嘩が始まる。
「ママ、これ見てー!」
「ママー、ジュースこぼれたー!」
私は立ったまま、食卓で寝落ちしてしまったこともあります。
寝不足と貧血でふらつきながら、それでも毎日、ごはんを作って、洗濯をして、学校や保育園に送り出す。
でも、ある朝、洗面所の鏡に映った自分の顔を見て、ふと、思ってしまったんです。
「……こんな生活、もう限界だな。......全部リセットしよう。」
そして気づいたら、私は駅のホームに立っていました。
「夏樹、春香……ごめんね……」
電車の音が近づいてくる。
誰にも気づかれずに消えたほうが、楽かもしれない。
そう思った瞬間、身体が自然に線路へと傾いた──
その刹那、世界は暗闇に包まれた。
「……え……?しん....だ?」
「いいえ、貴方はまだ、完全には死んでいませんよ」
どこからか、青年のような声が響いた。
「だ、誰……!?」
顔を上げると、そこには見たことがない、高校生ぐらいの青年が立っていました。
ただ、その服装は奇抜で...あまり見たことがないような和装をしていたのです。
「僕は、時と魂を司る番人。貴方は本来なら、あの電車に轢かれて死ぬはずだった。だけど……その直前、強く“後悔”したよね?子どもを残して、死にたくないって。でも、身体はもう線路に向かっていて後戻りはできなかった......」
私は、ただ息を呑むことしかできなかった。
確かに、死の直前に子どもたちの顔が思い浮かんで、強く後悔をしたから。
「その後悔の念が、僕を呼び寄せた。死の直前に、もう一度生きたいと強い信号が発生すると、時々僕の存在とシンクロする時があるんだ。」
「......どういう、ことですか?」
「難しくてよく分からないよね。結論から簡単にいえば、貴方がもう一度生きたいと強く願えば、“別の人生”を歩むことができる選択肢があるんだ。今度こそはこうならないような人生を歩む、そんな選択肢を与えるために僕は今ここにいる。
今から10年前、まだ貴方の元の夫に出会う前に戻ることができるよ。新しい未来を、自分の手で選び直せるんだ」
「……本当に……?」
「ただし、君が10年前に戻れば、パラレルワールドとして扱われるから、“今の世界”の君は消える。
つまり、夏樹君と春香ちゃんは……当たり前だけど存在しない世界で生きることになる。
万が一、元の夫と再度結婚したとしてもね。
......それでも、やり直したい?」
私は言葉を詰まらせた。
あの子たちは、私の宝物。
でも、この生活を続けていくことに、もう自信が持てなかった。
「……今なら、まだ戻すことはできるよ?あの線路に飛び込む前に。生活は辛いかもしれないけど、子どもたちは家で貴方を待っている。
それでも、貴方は……10年前に戻る?」
しばらく沈黙が続いた。
私は、ギリギリの選択を迫られていた。
でも、胸の奥で、小さな声が響いた。
「……やり直したい。今の人生じゃない未来を……もう一度、選び直したい!」
「わかった。貴方の願い、確かに受け取ったよ。
ただ──その選択の責任は、貴方自身が背負うことになる。それだけは、忘れないで。今を捨てるということは、そういうことだから。」
そう言い残すと、青年は静かに消えていった。
そして──私は、再び、目を覚ました。
10年前、まだ夫も子どももいない、私が独身だった一人暮らしの家で。