第64話 開かれし扉
魔界の扉が、開かれた。
扉の向こう側は、こちらの世界とは質感が異なる真っ黒な空間が広がっている。そこから吹く冷たい風が肌を撫で、掌にじんわりと汗をかいた。
アリサは恐怖で震えながら私に抱きつく。私も奥歯を噛みしめて、震えを抑えるので精一杯だった。
扉の向こうから顔を覗かせていた魔物が、ゆっくりとその姿を現す。蜘蛛の体に人間のような頭……その魔物は私達を興味深げに見下ろすと、口から涎を垂らした。
その魔物は私達をじっと見つめながら、ゆっくりと近づいてくる。嬉しそうに開いた赤い口には鋭い歯が覗く。……この魔物はムーナやコクヨウとは違う。目を逸らしたら食べられてしまう。本能的にそう察した私は、目を逸らせなかった。
「これでも、帰るつもりですか?」
私達の後ろ、扉から距離を取っていたベルメールが、やや興奮気味に尋ねてきた。その言葉で我に返る。
(本来の敵はベルメールだ!! 殺されている場合ではない。私達にはまだやることが残っている!)
私は自分に言い聞かせるように、低く静かに宣言した。
「帰るよ。私もアリサも……ケルベロス達も!!」
言葉と同時に、蜘蛛の魔物が素早く動き出す。私も素早く印を結んで魔法を展開しようとするが……その時、魔物の動きがピタリと止まった。
魔物は黒い何かに絡みつかれ、動けないでいる。それはまるで巨大な手のようだった。魔界の扉から巨大な手がもう一本伸びてくる。人間なんて握りつぶせそうな程大きく真っ黒な手。その手は、包み込む様に蜘蛛型の魔物を掴み……力が込められる。『ぐじゃっ』と嫌な音が響いた。
「「!!」」
「きゃーっ!!」
アリサの悲鳴が静かな森に響く。巨大な手の隙間からは魔物の青い体液と肉片が、ぼたりぼたりとこぼれ落ち、地面を青黒く染める。そして、巨大な手は扉の中へ戻ってゆくと同時に、蜘蛛の魔物の亡骸は手に吸収された……。
手が完全に扉の中へ帰っていくと、黒い空間は先ほどとは違い、ピリッとした緊張の気配を漂わせていた。
一呼吸置いて、ベルメールが騒ぎ出す。
「な、何だ!! あの巨大な手!!ま、まさか……」
あの手は、この世界の住人達が、幼いころから伝え聞いた存在の特徴そのもの。彼がその名前を口にする前に、明るい声が、森の茂みから響いてきた。
「メル~!! 本体と意識がつながった~!!」
声がした茂みからムーナが現れた。嬉しそうにこちらに駆け寄ると、私達を抱きしめて頬ずりする。彼女の太陽のような香りにふわりと包まれ、私とアリサは危機を脱したと理解して安堵した。
ムーナは視界の端にベルメールを見つけると、両手を腰に当てて胸を張り声高らかに宣言する。
「「魔王ムーナが命ずる!! 扉から出た物は、魔王に対する反逆と見なす! ケルベロス! 動くな!! 」」
彼女の声に重なって、扉から太く低い男性の声が聞こえた。これが魔界に居るムーナの本体の声……可憐な彼女とは対照的な声だ。地面を震わせる魔王達の声に、ケルベロスは動けない!!
「この声が魔王! 近くに居るのですね!! 丁度いい!! 魔界の王よ!! この元聖女を供物に私と契約を!!ぐわっ」
目を輝かせて喜んでいたベルメールが、情けない声を出して地面に倒れた。森の茂みから飛び出して来た黒い影に、体当たりを受けたようだった。
「メ゛エェェェ!!!」
「コクヨウ! ナイスタックル!!」
呻いて地面に倒れるベルメールに対し、プスンと短く鼻を鳴らしたコクヨウ。彼は悠々と私達の元へやって来て『頭を撫でろ』と言わんばかりに、こすり付けて来た。要求通り彼の頭を撫でて、感謝を伝える。
「コクヨウ、ありがとう! 打ち合わせ通り、アリサの事お願いね?」
「メッ!」
だがアリサはコクヨウの姿を見て怯える。
「メルティアーナ様? このヤギ……。魔物では……?」
「そう、彼はコクヨウって言うんだけど、私達の仲間だよ。言葉は理解してくれるし危害は加えない。アリサ、彼の背に乗って先に逃げて」
「そんな……。私に生きる価値ありません……。どうか、メルティアーナ様が逃げてください」
「ううん、帰ったらアリサにお願いしたいことが沢山有るの。だから必ず生きて。私達はまだやることが有るから……。さぁ、ベルメールが動き出す前に早く!!」
戸惑うアリサを、コクヨウの背に乗せた。しっかりとコクヨウの角を握らせ、彼女達は薄暗い森を駆けて行く。ほっと一安心したら、後ろでムーナが騒ぎ出した。扉の奥に向かい叫んでいる。




