滅びの少女
夜明け前の森は、まだ深い闇に沈んでいた。
冷たい夜気が、レオの肌を刺す。
背には、崩れかけた神殿を後にしたイリスのか細い体。
彼女は、疲れ果てて眠っていた。
かすかな寝息が、肩越しに伝わってくる。
レオは、歩みを止めなかった。
追手が再び現れる前に、少しでも遠くへ。
傷ついたイリスを、もう二度と危険に晒したくなかった。
不安と焦燥が胸を締め付ける。
だが、レオはそれを押し殺した。
足元に広がる雪混じりの大地。
凍えるような寒さの中、夜明けを目指して歩き続ける。
イリスを抱き締めながら、レオはふと思った。
――なぜ、自分はここまで必死なのか。
かつて、世界を救うと信じていた頃の自分なら、
たったひとりの少女のために、これほどまで命を懸けることなど考えなかった。
だが、今は違う。
世界はレオを裏切った。
神も、仲間も、信じたものすべてが彼を否定した。
その中で、ただひとり、イリスだけが違った。
彼女は、何も望まなかった。
選ばれることも、称えられることも、愛されることすらも。
ただ、そこに存在していただけだ。
そして今。
彼女は、レオに"存在していい"と言われた。
それは、レオにとっても、初めての救いだったのだ。
――世界なんて、どうでもいい。
――彼女だけが、生きていてくれればいい。
レオは、そっとイリスを抱え直した。
その時、彼女が微かに目を開けた。
「……レオ?」
かすれた声。
レオは微笑み、低く答えた。
「起こしたか」
イリスは、首を横に振った。
「ここ、どこ……?」
「まだ森の中だ」
レオは、歩みを緩めながら答えた。
「すぐに、村があるはずだ。
そこに着いたら、少し休もう」
イリスは、ふっと小さく息を吐いた。
「……ごめんね」
レオは、彼女を見下ろした。
「何がだ?」
「私のせいで……レオ、傷ついた」
レオは、少しだけ目を細めた。
そして、歩きながら答えた。
「違う」
イリスは、驚いたように顔を上げた。
「お前のせいじゃない。
俺が勝手に決めたことだ」
「……でも」
「それに――」
レオは、言葉を切った。
そして、真っ直ぐにイリスを見た。
「俺は、こうしてる方が、ずっと楽なんだ」
イリスは、言葉を失った。
「世界を救うとか、誰かに選ばれるとか……
そんなもののために生きるより、
お前ひとりを守るために生きる方が、ずっといい」
それは、レオの偽らざる本心だった。
イリスは、何度も瞬きを繰り返した。
まるで、その言葉が信じられないかのように。
レオは、静かに言葉を継いだ。
「だから、謝るな。
お前は――生きろ」
イリスの喉が詰まった。
熱いものが胸に込み上げ、視界が滲む。
ずっと。
ずっと、こんな言葉を待っていた。
誰にも必要とされず、誰にも愛されず。
ただ、存在そのものを呪われてきた彼女にとって。
レオの言葉は、
凍りついていた心を溶かす、春の陽射しだった。
イリスは、そっとレオの服の裾を握った。
小さな手。
でも、確かにそこにあるぬくもり。
レオは、その手に気づき、そっと微笑んだ。
「もう少し、頑張れるか」
イリスは、小さく頷いた。
「うん」
レオは、再び歩き出した。
目指すは、森を越えた先にあるという、小さな辺境の村。
そこならば、しばらくは身を潜めることができるだろう。
そして、ほんの少しでも。
ふたりにとっての"日常"を、取り戻せるかもしれない。
レオは、夜明けの空を見上げた。
闇の向こうに、かすかに光が滲み始めている。
希望とは、こうして見えない場所に、
微かに存在しているものなのかもしれない。
レオは、胸の奥に小さな光を抱きながら、
新たな一歩を踏み出した。
イリスとともに。
滅びを背負った少女と、
世界に裏切られた少年の、
小さな逃避行が――今、始まった。
***
森を抜けるのに、丸一日以上かかった。
レオは何度も足を止めながら、慎重に進んだ。
追手がいないか耳を澄まし、道を外れぬよう注意を払う。
イリスも疲労の色を隠しきれず、それでも一言も弱音を吐かなかった。
ようやく森を抜けたとき、ふたりは、朽ちた柵とぼろぼろの小屋が点在する小さな村にたどり着いた。
辺境の村。
地図にも載らないような、忘れられた土地。
だが、レオたちにとっては、この上ない避難場所だった。
陽の光は弱く、空気もどこか淀んでいる。
だが、人影はまばらで、村人たちは旅人に無関心だった。
これなら、しばらく身を潜めることができる。
レオは、安堵と警戒をないまぜにしながら、村の端に建つ空き家を探した。
「ここにしよう」
使われなくなった納屋。
壁は崩れかけているが、屋根はかろうじて残っていた。
雨風をしのぐには十分だ。
イリスは、レオの後ろに隠れるようについてきた。
まだ、外の世界を恐れているのだ。
レオは、そっとイリスを振り返った。
「怖いか?」
イリスは、小さく首を振った。
「……ううん。レオがいるから」
その答えに、レオは心の奥がじんと熱くなるのを感じた。
――俺は、こいつを守る。
あの日、神殿で誓った想いが、再び胸に刻まれる。
レオは、納屋の扉を押し開け、中へ入った。
中は埃だらけだったが、薪の山や古い寝台があり、最低限の生活はできそうだった。
まずは掃除だ。
レオは、埃を払い、壊れた家具を端に寄せた。
イリスも、慣れない手つきで手伝った。
箒を持ち、真剣な顔で床を掃く姿は、どこか微笑ましかった。
(こんな光景を……また見られるとは)
レオは、心の中で呟いた。
世界を救うために育った頃、未来を思い描いたことがある。
戦いのない日々。
誰かと笑い合う日々。
けれど、それは裏切りと共に奪われたはずだった。
今、目の前にある光景は、あの頃に夢見た未来とは違う。
だが、それでも――
(……悪くない)
レオは、微かに笑った。
掃除を終えたふたりは、簡素な寝床を整え、手持ちの食料を分け合った。
干し肉と固いパン。
水筒の水。
贅沢とは程遠い食事だったが、イリスは静かに食べ、時折レオを見上げた。
「……美味しい」
小さく呟く。
レオは驚いた。
「本当に?」
「うん」
イリスは、ふわりと微笑んだ。
それは、これまで見た中でいちばん自然な笑顔だった。
レオの胸が、きゅっと締め付けられる。
守りたい。
この笑顔を、絶対に。
世界に拒絶されても、神に背いても。
たったひとりのこの少女だけは、守り抜く。
レオは、静かに誓った。
夜になり、ふたりは並んで寝台に横たわった。
イリスは、レオの背にぴたりと寄り添うように眠っている。
時折、寝息に混じって、かすかな呟きが聞こえた。
「……ありがとう」
レオは、そっと目を閉じた。
(こっちこそ、ありがとうだ)
お前がいてくれるから、俺はまだ歩ける。
レオは、心の中でイリスにそう語りかけながら、深い眠りに落ちていった。
こうして。
裏切られた救世主と、滅びの少女の、
小さな共同生活が始まった。
世界の片隅で、
誰にも知られず、
誰にも邪魔されず。
ただ、ふたりだけで――。
***
数日が経った。
辺境の村での生活は、驚くほど静かだった。
レオとイリスは、村人たちとほとんど関わらず、納屋に身を潜めるように暮らしていた。
それでも、少しずつ。
ふたりの間には、言葉にはできない温かなものが育っていった。
朝は、レオが薪を拾いに森へ出かけ、
イリスは留守番をしながら、簡単な食事の準備をする。
昼には、ふたりで野草を摘みに行ったり、
小川で水を汲んだり。
夜には、寄り添うように眠る。
それだけの、ささやかな日常。
それでも、イリスにとっては初めての経験だった。
誰かと一緒に、
同じ空の下で、
同じ時間を過ごすということが。
レオは、イリスに無理をさせなかった。
少しでも疲れた素振りを見せれば、すぐに休ませたし、
言葉が途切れても、無理に聞き出そうとはしなかった。
それが、イリスにはたまらなく心地よかった。
ある日のこと。
レオは、納屋の隅に転がっていた古びた木の板を拾い上げた。
何をするのかと思っていると、
器用にナイフを使って、何かを彫り始めた。
イリスは、興味深そうにその様子を見つめた。
「……何、作ってるの?」
レオは手を止めずに答えた。
「……看板だ」
「看板?」
「納屋の入り口にかけるやつ」
イリスは、首をかしげた。
レオは、微笑んで板を傾けて見せた。
そこには、拙い文字でこう書かれていた。
【静かなる家】
イリスは、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。
「……名前?」
「ああ」
レオは、照れくさそうに頷いた。
「この場所は、俺たちだけのものだ。
誰にも邪魔されない、静かな家だ」
イリスは、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
自分には、居場所なんてなかった。
生まれてからずっと。
けれど、今。
レオが、自分のために場所を作ってくれている。
それが、たまらなく嬉しかった。
イリスは、そっとレオの手に自分の手を重ねた。
レオは、驚いた顔をしたが、すぐに微笑んだ。
「……気に入ったか?」
イリスは、こくりと頷いた。
レオは、ナイフを置き、イリスの手を包み込んだ。
小さな手。
か細い手。
でも、確かにここにある。
レオは、静かに思った。
(守りたい)
改めて、強く。
どんなに世界を敵に回しても。
どんなに神を冒涜することになっても。
この小さな手だけは、絶対に離さないと。
***
その夜。
ふたりは、納屋の入り口に【静かなる家】の看板を掲げた。
ぼろぼろの納屋は、相変わらずみすぼらしかったけれど、
その扉の向こうには、確かな"居場所"があった。
だが。
そんな穏やかな日々は、長くは続かなかった。
ある夜、レオが薪を拾いに外へ出たとき。
ふと、鋭い殺気を感じた。
レオは、すぐに背後を振り向いた。
そこには、黒衣の男が立っていた。
顔を隠し、紋章も持たない。
だが、身のこなしと纏う気配から、それがただの山賊でないことは明らかだった。
(……聖騎士団の手の者か)
レオは、心を冷たく研ぎ澄ませた。
男は、何も言わずに剣を抜いた。
そして、すべてを無言で語った。
【滅びの器を差し出せ】
【さもなくば、死】
レオは、ゆっくりと剣を抜いた。
静かな夜に、金属の擦れる音が響く。
(ここで引くわけにはいかない)
あの小さな納屋に戻れば、イリスがいる。
守らなければ。
この命に代えても。
レオは、剣を構えた。
夜風が、ふたりの間を吹き抜ける。
一瞬の静寂。
そして――戦いが、始まった。
レオは、静かに一歩踏み出した。
敵は一人、しかし油断はできない。
訓練された剣士の動きだった。
夜の森。
月光がちらりと差し込む中、ふたりは剣を交えた。
一撃、二撃――
レオは紙一重でかわし、反撃する。
だが、傷は浅い。
相手も慎重だった。
じわじわと間合いを詰め、レオを消耗させようとしている。
(長期戦は不利だ)
レオは、すぐに判断した。
傷は完全には癒えていない。
体力も万全ではない。
加えて、ここで足止めされれば、
別の追手が村に迫る可能性もあった。
焦りを押し殺し、レオは一気に間合いを詰めた。
ガキィン――!
剣と剣がぶつかり、火花が散る。
間近で見えた敵の瞳は、感情を欠いていた。
命令だけに従う、兵士の目。
(……昔の俺と、同じだ)
レオは、心の奥にわずかな痛みを覚えた。
だが、今は迷わない。
守りたいものがある。
それだけが、彼を支えていた。
レオは、力を込めた。
剣を振り抜き、相手の剣を弾き飛ばす。
わずかな隙を突き、短剣を敵の脇腹に叩き込んだ。
男は呻き声を上げ、膝をつく。
レオは、息を荒げながら剣を構え直した。
「誰が……送った」
男は答えない。
レオは、刃を喉元に突きつけた。
それでも、男はかすかに笑った。
「――もう、すぐだ」
それだけ言い残し、男は自らの喉を切った。
レオは、硬直した。
死を恐れない。
つまり、彼一人ではないということだ。
(……仲間がいる)
胸がざわめいた。
イリスが、危ない。
レオは剣をしまい、全力で駆け出した。
納屋に戻ると、イリスが不安げな顔で出迎えた。
「レオ……?」
「何でもない」
レオは、息を整えながら微笑んだ。
心配をかけたくなかった。
イリスは、レオの袖をそっと掴んだ。
「……怖い?」
その問いに、レオは少しだけ迷った。
本当は、怖いに決まっている。
また誰かを失うかもしれない恐怖。
また何も守れないかもしれない絶望。
けれど。
レオは、イリスの手をぎゅっと握り返した。
「怖くない」
「……嘘だよ」
イリスは、かすかに笑った。
「でも、ありがとう」
レオは、何も言わなかった。
ただ、イリスの手を離さなかった。
夜が更け、ふたりは小さな寝床に潜り込んだ。
イリスは、レオの胸元に顔を埋めた。
レオも、そっと彼女を抱き寄せる。
どちらからともなく、体が寄り添った。
互いの鼓動が、伝わる。
温もりが、伝わる。
生きている。
ここに、いる。
それだけが、今の彼らにとってのすべてだった。
(守り抜く)
レオは、再び誓った。
たとえ、世界がすべてを敵に回しても。
この小さな命だけは、必ず。
レオは、そっと目を閉じた。
明日は、どんな戦いが待っているかわからない。
だが、今は。
この瞬間だけは。
守りたいものが、確かにここにある。
それを、忘れないために。
***
翌朝、レオは胸騒ぎとともに目を覚ました。
夜明け前の村は、まだ霧に包まれている。
だが、森の向こうに、確かに"何か"が迫っている気配があった。
静かすぎる。
鳥の鳴き声も、虫の羽音もない。
レオは、隣で眠るイリスにそっと布をかけると、慎重に外へ出た。
湿った空気。
重い沈黙。
レオは、剣に手を添えながら、周囲を見渡した。
そして――
視界の隅に、それを見た。
森の入り口に、立ち並ぶ黒い影。
聖騎士団。
今度は、仮面も隠す気もない。
純白の紋章入りの鎧が、朝霧の中で不気味に光っている。
数は十を超える。
しかも、彼らの中心には、かつてレオと共に育った顔――
カイルがいた。
レオは、無意識に拳を握った。
(……やはり、来たか)
彼らは、レオの逃亡を許さなかった。
滅びの器であるイリスを殺し、
裏切り者であるレオを排除するために。
すべては"正義"の名の下に。
その時。
カイルが一歩、前に出た。
そして、声を張り上げた。
「レオ=ヴァレンティア!
滅びの器を引き渡せ!」
澄んだ声だった。
かつては、戦場で幾度となくレオの背を預けた男。
今は、敵。
レオは、剣を握りしめたまま、答えなかった。
カイルは、続けた。
「まだわからないのか!
あの女を生かしておけば、この世界は終わる!」
(……終わっても、かまわない)
レオは、心の中で呟いた。
世界なんて、とうに終わっていた。
仲間に裏切られ、神に見捨てられたあの日に。
カイルは、剣を抜いた。
周囲の聖騎士たちも、刃を光らせる。
完全な殺意。
(時間がない)
レオは、一瞬で状況を整理した。
戦えば、イリスを巻き込む。
村も、無関係の人々も、すべて。
選択肢は、ひとつしかなかった。
逃げる。
イリスを連れて。
ここではないどこかへ。
レオは、踵を返し、納屋へ駆け戻った。
イリスは、布にくるまったまま、目を覚ましていた。
レオの険しい顔を見て、すぐに察する。
「……来たの?」
レオは、短く頷いた。
「急ぐぞ」
イリスは、何も聞かず、レオに従った。
二人は、わずかな荷物をまとめ、納屋を飛び出す。
背後では、聖騎士たちの叫び声が聞こえた。
森へ。
深い森へ。
追手の目をかいくぐりながら、夜明け前の闇の中へ走る。
イリスは、小さな体で必死にレオに食らいついた。
レオは、彼女の手を離さないように強く握りしめた。
一度でも手を離せば、
二度と取り戻せない気がして。
必死だった。
すべてを捨てても、守りたかった。
足元の草を踏み、枝を掻き分け、
ふたりは、森の奥へと逃げ込んでいった。
遠くで、追手の声が木霊する。
「逃がすな――!」
レオは、息を切らしながら、なおも走った。
(追いつかれるな……!)
だが、敵は訓練された兵士たち。
地の利もない森の中、いつまでも逃げ切れるとは限らない。
それでも。
それでも、諦めるわけにはいかなかった。
イリスを守ると誓ったから。
たとえ、どれほどの絶望がこの先に待っていても。
レオは、必死に足を前へ運んだ。
ただ、イリスを守るために。
世界に背を向けても、
神に見捨てられても。
この手だけは、絶対に離さないと――。
森の中は、ほとんど真っ暗だった。
わずかな月明かりだけが、枝葉の間から洩れている。
レオは、イリスの手を強く握ったまま、前を走った。
木々をすり抜け、獣道を縫うようにして進む。
後ろからは、聖騎士たちの怒号と、枝を踏み割る音が追ってくる。
焦りと恐怖が、胸を締め付けた。
だが、レオは必死に冷静さを保った。
逃げ道を探す。
この森には、かつて訓練で訪れたことがある。
僅かな記憶を頼りに、隠れられる場所を探した。
(この先に……あったはずだ)
朽ちた神殿跡。
誰も寄り付かない、忘れられた廃墟。
そこなら、しばらく身を潜められるかもしれない。
だが、森の奥は足場が悪かった。
ぬかるみ、倒木、絡みつく蔦。
イリスは、必死についてきたが、小さな体では限界があった。
つまずき、倒れそうになる。
レオはすぐに彼女を抱き上げた。
「ごめん……!」
イリスが、悔しそうに呟く。
レオは、首を振った。
「謝るな。俺がいる」
イリスの体は軽かった。
だが、そのぬくもりは、何より重かった。
守るべき命。
かけがえのない存在。
レオは、イリスを腕に抱きかかえたまま、再び走り出した。
後ろから、矢が飛んできた。
シュン、と鋭い音を立てて。
一本はレオの脇をかすめ、木の幹に突き刺さった。
もう一本は、イリスの肩をかすめた。
薄く、血が滲む。
「イリス!」
レオは叫びそうになるのを堪えた。
イリスは、必死に笑った。
「……大丈夫、平気だよ」
震える声だった。
レオは、怒りで歯を食いしばった。
(許さない)
この少女を、これ以上傷つけさせない。
絶対に。
ようやく、廃墟が見えてきた。
森の奥深く、苔むした石造りの遺跡。
壊れた柱と、倒れたアーチ。
その中央に、朽ちた広間があった。
レオは、そこにイリスをそっと降ろした。
「ここで、少しだけ隠れる」
イリスは、小さく頷いた。
レオは周囲を見渡した。
この場所なら、敵も簡単には入り込めない。
地形を利用すれば、時間を稼げる。
レオは、イリスに毛布代わりの布をかぶせ、優しく言った。
「絶対に、ここから動くな」
イリスは、目を潤ませながらも、強く頷いた。
「レオは?」
「俺は、囮になる」
「だめ!」
イリスが、咄嗟にレオの手を掴んだ。
小さな手。
震えている。
「……一緒に、いて……」
その声に、レオは一瞬、胸が締め付けられた。
イリスは、恐れていた。
自分がまた、誰かを失うことを。
自分だけが、生き残ることを。
レオは、そっとイリスの手を握り返した。
「大丈夫だ」
静かに、でも確かに言った。
「俺は、お前を置いていかない。
絶対に、戻ってくる」
イリスは、震える手でレオの袖を掴んだまま、小さく頷いた。
レオは、その姿を胸に刻み、そっとイリスから離れた。
外では、聖騎士たちの足音が近づいている。
レオは、剣を抜いた。
たとえ、どれほど多勢に無勢でも。
この命が尽きるその瞬間まで。
――守るために。
レオは、廃墟の闇に身を潜めた。
そして、牙を剥いた世界に、
たったひとり、立ち向かう覚悟を決めた。
すべては。
この小さな命を、守り抜くために。
廃墟の空気は、重く、沈んでいた。
静まり返った石造りの広間。
その奥、崩れた柱の陰に、イリスは身を潜めている。
レオの気配は、もうすぐそばにはなかった。
彼女は、布にくるまったまま、膝を抱えてうずくまっていた。
こわい。
レオが、自分のせいで傷つくのが。
自分が、また誰かを壊してしまうのが。
――私さえ、いなければ。
ふと、そんな思いがよぎる。
だが、すぐにレオの顔が浮かんだ。
あのとき、神殿で。
「お前が世界を壊す存在でも構わない。俺も同じだ」
あの言葉が、心に焼き付いていた。
レオだけは、自分を"器"としてではなく、"人"として見てくれた。
それが、どれほど嬉しかったか。
あの瞬間、自分は確かに生まれ直したのだ。
だから。
今度こそ、失いたくなかった。
そのとき、外から剣戟の音が響いた。
激しい金属音。
怒声。
踏みしめる足音。
イリスの体が、びくりと震える。
(レオ……)
彼が戦っている。
ひとりで、世界と。
自分を守るために。
その現実が、胸を締め付けた。
――このまま隠れていていいの?
心が、囁く。
逃げてばかりで、いいの?
誰かに守られてばかりで――
違う。
イリスは、静かに立ち上がった。
同時刻。
廃墟の外、レオは剣を振るっていた。
相手は三人。
すべてが、かつての仲間だった聖騎士たち。
その手には、かつて自分が使っていた同じ訓練用の剣。
その構えも、呼吸も、すべてが馴染みあるものだった。
だが、今はすべてが敵。
容赦はなかった。
ひと太刀受ければ、即座に殺される。
レオは、無我夢中で剣を振るった。
ひとりを退け、またひとりをかわす。
疲労は限界を越え、傷は増えていく。
だが、動くのを止めなかった。
(ここで倒れたら……イリスが……!)
その思いだけで、体が動いていた。
剣戟の合間に、カイルが現れた。
かつて、最も信じていた男。
レオは、剣を握りしめながら問う。
「……どうして、そこまでイリスを殺そうとする」
カイルは、感情を込めずに答えた。
「任務だ。滅びの器は存在してはならない」
「お前は……あいつの何を知ってる」
レオの声が、怒りで震える。
「何も知らないまま、"役割"だけで人を裁くのか」
カイルの目は、冷たく揺れなかった。
「それが、正義だ」
レオは、剣を振り上げた。
「なら、俺は正義なんて捨てる!」
そのとき。
雷鳴のような音が、廃墟の奥から響いた。
レオとカイルが同時に振り返る。
そこに、歩いてくる影があった。
イリスだった。
その身から、黒い瘴気がにじみ出していた。
しかし、それは暴走の兆しではなかった。
彼女は、恐れるでもなく、涙を流すでもなく。
ただ、真っ直ぐに歩いてきた。
レオに、向かって。
レオの目が見開かれる。
「……イリス!」
彼女は、小さく微笑んだ。
そして、囁くように言った。
「わたしも……守りたいの。レオを」
その瞬間、瘴気が形を変えた。
黒い霧がレオを包み――
彼の体に、かすかに輝く光が灯る。
力が、流れ込んできた。
体の痛みが和らぎ、視界が澄む。
それは、共鳴。
イリスの力が、暴走ではなく、意思として制御された瞬間。
ふたりの心が、ひとつに重なった証だった。
力が、満ちていた。
レオは、自分の体の奥からあふれ出すようなエネルギーを感じていた。
イリスの力――
滅びの器として忌まれたはずのその力が、いま、レオと響き合っていた。
それは、決して破壊の衝動ではなかった。
彼女の心が、生きたいと願った結果だった。
カイルが、警戒したように一歩引いた。
「……何をした、あの女」
「知らないのか?」
レオは、剣を構えたまま、冷たく言った。
「お前が"滅び"と呼んだものの正体を。
それは、誰かのために生きようとする、ただの――心だ」
レオが駆けた。
剣が閃き、カイルの防御を打ち崩す。
鋭い太刀筋が一撃で彼の剣を弾き、肩口へ食い込む。
カイルは呻き声を上げて倒れ込んだ。
他の騎士たちが動こうとする。
だが、その周囲を、黒い霧が取り囲んだ。
イリスの力。
それは、攻撃ではなく、抑止だった。
「もう……やめて」
彼女は静かに言った。
「これ以上、誰も傷つけたくない。
レオを、奪わせない」
誰もが、その言葉に動けなくなった。
やがて、レオは剣を収めた。
静寂が広がる。
重苦しい空気の中で、レオは最後に言い放った。
「お前たちに、俺たちは渡さない」
騎士たちは、応えなかった。
そして、ゆっくりと後退していった。
それが、勝利の合図だった。
ふたりは、崩れかけた廃墟に腰を下ろした。
イリスは、息を切らしながらも笑った。
「レオ、すごかった」
「いや……お前のおかげだ」
レオも、苦笑を浮かべる。
ふたりは、並んで空を見上げた。
木々の隙間から覗く空は、まだ暗かった。
だが、夜明けは近い。
イリスが、小さく呟く。
「レオ。わたし、少しだけ……怖くないかも」
「何が?」
「世界が。
人が。
……自分が」
レオは、彼女の手を握った。
「それでいい」
「怖くないふりをする必要はない。
お前が怖がるなら、俺がその隣に立つ」
イリスの目に、ぽろりと涙が浮かんだ。
その涙を拭うことなく、彼女は笑った。
レオは、立ち上がった。
「行こう」
「……どこへ?」
「まだ知らない。
けど、俺たちの場所は、この世界のどこかにあるはずだ」
イリスは、小さく頷いた。
ふたりは、廃墟を後にする。
まだ誰も知らない場所へ。
まだ見ぬ未来へ。
世界の片隅に、ようやく生まれたふたりだけの絆が、
今、新たな旅路を歩き出す。
それは、逃亡ではない。
世界の終わりではない。
ふたりにとっての、
たったひとつの"はじまり"だった。