裏切られた救世主
「――レオ、お前はここまでだ」
その言葉が、耳を打った瞬間、レオは理解できなかった。
眼前に立つのは、かつて共に訓練を受け、剣を交え、笑い合った仲間たち。
剣士カイル、魔導士セラ、神官リュシア。
彼らは、無表情でレオを囲んでいた。
祝福の地と呼ばれるこの神殿で、最後の選別が行われるはずだった。
"救世主候補"たちが、世界を救う役割を担うための最終試練。
誰もが、ここに至るまで何年も血を流し、涙を呑んできた。
当然、レオもその一人だった。
仲間を信じ、世界を信じ、神を信じて歩んできた。
だから――
この瞬間、剣を突きつけられたことを、受け入れることができなかった。
「どういう、ことだ……カイル……」
震える声で問う。
カイルは剣をレオに向けたまま、冷たく言い放った。
「神の審判だ。
お前は、選ばれなかった」
「選ばれなかった……?」
「お前は、弱い。
情に流され、正義に迷う。
そんなものに、世界は救えない」
カイルの言葉に、セラも、リュシアも、うなずいた。
まるで、最初から決まっていたことのように。
レオの手が震えた。
「そんな……俺たちは、仲間だったはずだろ……!」
叫びは、虚しく空に消えた。
「仲間? それは違う」
セラが、初めて口を開く。
その瞳に、かつての優しさはなかった。
「俺たちは"選ばれた者"。
お前は"不要な者"だ」
リュシアは、静かに祈りを捧げながら言った。
「レオ。あなたは、ここで消えるべき存在なのです」
レオは、その場に崩れ落ちそうになった。
理解したくなかった。
信じたくなかった。
だが、彼らの視線は冷たく、変わることはなかった。
「さあ、消えろ」
カイルが剣を振り上げた。
レオは、本能的に身を翻し、走った。
背後から、鋭い風を切る音が聞こえた。
剣閃だ。
振り返る余裕もない。
レオはただ、必死に逃げた。
神殿の白い回廊を駆け抜け、崩れかけた石畳を踏みしめ、
冷たい夜の森へと飛び込んだ。
冷気が肌を切り裂く。
足元は悪く、何度も転びそうになる。
それでも走った。
(なんでだ……)
頭の中で、何度も問いが渦巻く。
(なんで……俺が……)
彼らと共に過ごした日々を、思い出す。
共に剣を磨き、魔法を学び、
勝利を喜び、敗北に涙した日々を。
それが、すべて偽りだったのか。
心の奥底に、ひびが入った音がした。
誰も信じてはいなかったのだ。
最初から、"選ばれるか、捨てられるか"だけの関係だったのだ。
(俺は……)
***
深い森の中。
レオは、足を取られ、地面に倒れた。
息が上がり、傷ついた体は動かない。
追っ手の気配は、いつの間にか遠ざかっていた。
おそらく、すでに死んだものと判断されたのだろう。
レオは、空を仰いだ。
夜空には、神の象徴とされる星々が、静かに瞬いている。
かつては、この星空を見上げ、誓ったことがあった。
「俺は、世界を救う」
「この手で、すべての人を救う」
だが、今。
その誓いは、どこにも届かない。
レオは、かすかに笑った。
乾いた、ひび割れた笑い声。
(救う、だと……)
(誰も……俺を救わなかったくせに)
世界は、救う価値などなかった。
神も、仲間も、信じたものすべてが裏切った。
ならば、これ以上、何を信じるというのか。
冷たい夜風が、レオの頬を撫でた。
その時だった。
ふと、森の奥から――微かな、光を感じた。
かすかな、誰かの気配。
まるで、呼ばれるように。
レオは、傷だらけの体を引きずりながら、その光の方へ向かった。
どこかで、もうどうでもいいと思っていた。
死んでも、生きても、何も変わらないと。
けれど――
あの光だけは、なぜか見逃せなかった。
まるで、絶望の中に灯った、最後の小さな希望のように。
レオは、倒れそうになりながらも、歩き続けた。
そして、森の奥深く。
崩れかけた古い神殿の前に辿り着いた。
そこに――
彼女はいた。
淡い光を纏い、ひとり、静かに佇む少女。
それが、イリスだった。
レオは、目を見開いた。
どんな敵よりも、どんな恐怖よりも、
その存在に心を奪われる感覚。
たとえ世界が全て壊れたとしても――
この手だけは、離したくない。
その時、レオの中で、確かに何かが始まった。
少女は、レオを見ていた。
静かな、夜の湖面のような瞳で。
その姿は、まるでこの世界に存在しない幻のようだった。
白い髪。
透き通るような肌。
そして、手を伸ばせばすぐに消えてしまいそうな、か細い光。
「……誰?」
少女――イリスが、かすかに声を発した。
その声もまた、壊れそうなほど儚かった。
レオは、答えるべき言葉を探した。
けれど、声が出ない。
立ち尽くす彼に、イリスは一歩だけ後ずさった。
「近寄らないで」
震える声。
怯えた小動物のように、イリスは警戒していた。
無理もない。
レオの顔は泥と血で汚れ、ボロボロの剣を手にしていた。
だが、レオには戦う気力など残っていなかった。
ただ、目の前の少女の孤独に、胸が痛んだ。
(……同じだ)
孤独に晒され、誰にも救われず、
ここにいることすら許されない存在。
彼女も、俺も――同じだった。
レオは、そっと剣を地面に置いた。
そして、両手を上げて見せた。
「俺は、戦うつもりはない」
かすれた声だった。
イリスは、しばらく彼を見つめたまま、動かなかった。
やがて、微かに唇を動かす。
「どうして、ここへ来たの?」
「……逃げてきた」
それが、レオの精一杯だった。
イリスは、小さく目を伏せた。
そして、ぽつりと呟いた。
「……ここは、滅びの場所」
「私も、滅びの器」
その言葉に、レオは眉をひそめた。
だが、すぐに思い直す。
(どうでもいい)
世界を救うだとか、滅ぼすだとか。
そんなことは、もうどうでもよかった。
ただ。
この孤独な少女と、ここにいる。
それだけで、いいと思った。
レオは、そっと手を差し出した。
「名前、教えてくれないか」
イリスは、驚いたように目を見開いた。
それから、戸惑いながらも、かすかに答える。
「……イリス」
「イリス」
レオは、その名前を噛みしめるように繰り返した。
そして、微笑んだ。
「俺は、レオ」
「……レオ」
イリスは、彼の名を呼んだ。
それは、夜の静寂を破る、小さな奇跡のようだった。
***
イリスは、レオを神殿の奥へと案内した。
そこは、崩れかけた壁に囲まれた、小さな空間だった。
床には古びた布が敷かれ、かろうじて雨風をしのげるだけの粗末な寝所が作られている。
「ここに……住んでるのか?」
レオが、掠れた声で問う。
イリスは、うなずいた。
「……ずっと、ここで」
外から来た者に怯えながらも、それでも、彼女はレオを追い出さなかった。
なぜなら――
レオが、誰よりも壊れかけた目をしていたからだ。
イリスには、わかった。
彼は、もう世界を信じていない。
神も、人も、何もかも信じていない。
だからこそ、彼女を怖れなかった。
彼女の呪いも、滅びも、恐れることなく、ただ同じ孤独を抱えていた。
イリスは、そっと手を伸ばした。
破れた布の端を引っ張り、空いている場所を示す。
「……休んでいいよ」
レオは、一瞬迷った。
けれど、体はすでに限界だった。
礼を言う余裕もなく、布の上に倒れ込む。
イリスは、慣れた手つきで水を汲み、小さな布切れでレオの顔を拭った。
泥と血にまみれた頬。
熱を帯びた額。
(……ひどい怪我)
イリスの胸が、痛んだ。
誰かに触れることを恐れてきたこの手で、
今、自分はこの人を癒している。
それが、不思議だった。
レオは、ぼんやりと目を開けた。
「……ありがとう」
イリスは、小さく首を振った。
「別に……好きでやってるわけじゃない」
素っ気ない言葉。
けれど、その手は優しかった。
レオは、微笑んだ。
(ここに来て、よかった)
そう思った。
世界に裏切られた。
仲間に見捨てられた。
でも――
この小さな神殿の片隅で、
誰よりも孤独だった少女に出会った。
それだけで、もう十分だった。
目を閉じると、すぐに深い眠りに落ちた。
イリスは、しばらくレオの寝顔を見つめていた。
そして、そっと呟く。
「……おやすみ、レオ」
誰にも届かない、優しい祈りのように。
こうして、奇妙な共同生活が始まった。
滅びの少女と、裏切られた救世主。
互いに傷だらけの、ふたりだけの、
小さな小さな世界で――。
***
数日が過ぎた。
レオは、神殿の片隅で傷を癒やしながら、イリスと少しずつ言葉を交わすようになった。
イリスは、必要最低限のことしか話さなかったが、
それでも、ふたりの間に流れる空気は、初めて会った時よりも幾分柔らかくなっていた。
レオは時折、神殿の外を見つめた。
遠くに見える森。
凍りついたような空気。
ここには、誰も来ない。
来るはずがない。
……そう、思っていた。
だから、最初に違和感を覚えたとき、レオは自分の直感を疑った。
だが。
足音がした。
複数の。
「イリス、隠れろ」
レオは低く言った。
イリスも、異変に気付いたように、顔色を変えた。
神殿の奥、崩れた柱の影へと身を潜める。
次の瞬間――
神殿の入り口を、鋭い光が切り裂いた。
白銀の鎧に身を包んだ男たち。
胸には、神聖教会の紋章。
聖騎士団。
レオがかつて所属していた、世界を守ると謳われた組織。
そのはずだった。
「探索対象発見」
冷徹な声が響く。
レオは、唇をかみ締めた。
(……やはり、追ってきたか)
裏切った仲間たちは、彼を完全に排除するために、聖騎士団を差し向けたのだ。
そして、封印された存在――イリスをも、処分するために。
"世界を脅かす存在"を、徹底的に消し去る。
それが、あの者たちの正義。
ならば、問うまでもない。
レオは、剣を手に取った。
「――ここは通さない」
レオは、聖騎士たちの前に立ちはだかった。
剣は、かつて彼らと共に訓練したものと同じ型だった。
だが今、その剣は、かつての仲間たちに向けられている。
騎士たちは、レオを一瞥し、問答無用で剣を抜いた。
「裏切り者に、慈悲はない」
最初の一撃は速かった。
鋭く、重い斬撃。
レオは間一髪でかわし、反撃に転じる。
だが、数が違う。
一対多。
しかも、自分は負傷しており、彼らは正規の兵。
じりじりと押される。
それでも、退くわけにはいかなかった。
後ろには、イリスがいる。
世界に拒絶された少女。
ただ、静かに生きていたかっただけの少女。
彼女を傷つけさせるわけには、いかなかった。
レオは必死に剣を振るう。
全身に走る痛みを無理やり押さえ込みながら。
一人、また一人。
騎士たちを倒していく。
だが、限界は近かった。
膝が震え、視界が霞む。
(……ここまでか)
そう思った瞬間。
「やめて!」
イリスの叫びが、神殿に響いた。
次の瞬間――
空気が、変わった。
神殿全体を包み込むような、冷たく重い圧力。
聖騎士たちが、戸惑い、後退する。
床が、黒く染まり始める。
それは、イリスの力だった。
触れたものを腐敗させ、世界を蝕む、禁忌の力。
「イリス、やめろ……!」
レオは叫んだ。
だが、止めることはできなかった。
イリスの瞳は、涙で濡れていた。
彼女は、恐れていた。
再び誰かを傷つけることを。
再び世界に拒絶されることを。
それでも。
「レオを……傷つけないで!」
その叫びとともに、黒い瘴気が爆発した。
聖騎士たちは、触れた瞬間、次々と崩れ落ちた。
まるで砂になったかのように、跡形もなく。
レオは、ただ立ち尽くしていた。
目の前で起こった光景を、理解できないまま。
そして、イリスが、膝から崩れ落ちた。
「……ごめん、なさい」
震える声。
レオは、駆け寄り、彼女を抱きしめた。
「謝るな」
レオは、必死に言った。
「君は、俺を守ってくれた」
イリスは、戸惑いながら顔を上げた。
「……でも、私……」
「それでも」
レオは、強く言った。
「俺は、君を守る。
たとえ、世界が敵になっても」
その言葉に、イリスの瞳が大きく揺れた。
長い間、誰にも言われなかった言葉だった。
滅びの器だと恐れられ、拒絶されてきた彼女にとって――
初めての、救いだった。
夜が、静かに神殿を包み込んでいた。
先ほどまでの戦闘の痕跡が、まだそこかしこに残っている。
崩れた柱、砕けた石床。
そして、聖騎士たちが残した無数の武具。
レオは、焚き火の前に腰を下ろしていた。
隣には、布にくるまったイリスが座っている。
ふたりとも、疲弊していた。
けれど、互いにそばを離れようとはしなかった。
火のはぜる音だけが、二人の間を満たしている。
レオは、ゆっくりと口を開いた。
「ここには、もういられないな」
イリスは、小さくうなずいた。
「また、来る……?」
「ああ。あいつらは諦めない」
レオは、薪をくべながら、続けた。
「俺たちを……殺すまで、な」
イリスは、ぎゅっと布を握りしめた。
怖かった。
震えるほど、怖かった。
でも。
それ以上に、レオと一緒にいたかった。
その気持ちが、心の奥に芽生えていた。
レオは、立ち上がり、剣を拾った。
「逃げよう」
イリスが顔を上げる。
「……どこへ?」
「わからない。
でも……どこへでも行けるさ」
レオは、優しく笑った。
その笑顔は、どこか寂しげで、けれど温かかった。
「お前が、行きたい場所へ」
イリスは、しばらく黙っていた。
そして、ぽつりと呟いた。
「……一緒に、いてくれる?」
レオは、即座に答えた。
「ああ。
世界の果てだって、どこへでも」
その言葉に、イリスの胸が熱くなった。
レオは、神殿の崩れた扉を押し開けた。
夜の森。
冷たい風が、ふたりの髪を揺らす。
イリスは、一歩、外に足を踏み出すのをためらった。
この場所は、彼女にとって唯一の居場所だった。
誰にも知られず、誰にも傷つけられず、ただ静かに眠ることができた場所。
けれど。
(もう、ここにはいられない)
彼女は、レオを見た。
レオは、振り返って手を差し出していた。
大きくて、暖かい手。
イリスは、おそるおそる、その手に自分の手を重ねた。
温もりが伝わる。
それは、どんな祝福よりも尊いものだった。
「行こう」
レオの声に導かれるように、イリスは頷いた。
ふたりは、森へと踏み出す。
どこへ向かうかも、何が待ち受けているかもわからない。
ただ、互いに手を取り合って。
夜の中を、ふたりだけの光が進んでいった。
裏切られた救世主と、滅びの器。
世界に拒絶された者同士が出会い、
ここに、ひとつの物語が始まった。
それは、世界のすべてを敵に回しても、
たったひとりを選び抜く、愛の物語だった。