プロバイダ(提供者)
「遂にやったぞ。成功だ!」
海原大樹は奇声を張り上げると、やがて腹を抱えながら狂ったように笑い出した。彼の感性は正しかったのだ。世界中の科学者がこの成果に驚愕するのも、さほど遠くないことであろう。
気がつくと応接室の扉がドンドンと叩かれている。「やれやれ、俺の笑い声があんまり大きかったから、連中びっくりしちゃったかな?」
部屋の中央には大きな水槽が置かれている。その水槽に大樹は目をやった。「どうやらお前をお披露目する時がやって来たようだな……」大樹はくすくすと笑った。
大樹はノブに手をかけるとゆっくりと扉をあけた。さぞ沢山の仲間が表を取り囲んでいるだろうと期待したのだが、そこには白衣姿の平池小枝子がたった一人で心配そうに覗きこんでいるだけだった。
「騒がしいわね。一体何があったの?」美しい眉を吊り上げながら小枝子がまず第一声を発した。
「なんだ、君だけか?」大樹はうっかり愚痴をこぼしていた。
「なんだとは何よ。失礼ね。折角心配して来てあげたのに……。あなた今が何時だと思ってるの? 土曜日の九時過ぎよ! あたしだってそろそろ仕事を切り上げて帰ろうと思っていたんだから」小枝子はムッとしていった。
「わりい、わりい、柄にもなく興奮してたもんで。この通り、平に謝るよ。その代わりといっちゃなんだが、君はこれから歴史的大発見の名誉ある立会人になれるんだぜ。さあ、入ってくれたまえ」
いきなり小枝子の小さな手を握ると、大樹は彼女を部屋に引っ張りこんだ。
帝都大学の若き准教授海原大樹の個室は二重構造になっている。入ってすぐの部屋には応接用のソファとテーブルが置かれ、正面にはパソコンが乗ったデスクがあった。横壁全面にまたがる天井まで届きそうな本棚には、医学書をはじめとする難しい書物がびっしりと並んでいた。さらに部屋の奥には扉がもう一つあった。それは大樹専用の実験室へ通じる扉だ。いつも鍵がかけられて固く閉ざされていた実験室の扉が今はあいている。博士号取得と同時に准教授に推挙された海原大樹は、平池小枝子達と同年代でありながらただ一人研究用の個室が与えられていた。そこで彼が密かに行っていたのは、研究室の仲間でさえも詳細を知らされていない極秘実験であった。それが今小枝子だけに公開されようとしている。帝都大学で十年に一人の逸材といわれた神童海原大樹が、二年もの間ひた隠してきた研究とは……? 小枝子の胸は期待と不安で高鳴っていた。
「見ろよ、こいつを。さっきから驚異的な数値を叩き出しているんだ! 心拍数は正常。初期血圧はなんと四十代の平均男性の数値に匹敵している。こいつに比べりゃ、これまでのプロバイダなんておもちゃ同然さ!」
狭い実験室の中央には透明の円筒形をした水槽があった。水中の小さな肉の塊を大樹は得意げに指さした。その肉の塊は魚の類ではないことは一目でわかった。人の握り拳ほどの大きさをしていて、水面に浮き上がるでもなく、底に沈むでもなく、まるでクラゲのように水中を漂っていた。さらに異様な塊は定期的な振動を着実に刻んでいた。よく見ると透明なチューブが塊から伸びていて、中には青く着色された液体が注入されていた。塊が振動を繰り返す度にチューブの液体が勢いよく流れるのが見える。そう、この塊は人工的に培養された心臓であった。
「信じられないわ……、すごいじゃない。でも、どうして?」小枝子は息を呑んだ。
ここ数年の再生医療学の進展は凄まじかった。iPS細胞(誘導多能性細胞)にどのような命令をインプットすれば目的の臓器に成長するのか、そのような研究はここ十年間でほぼ解明されたといえよう。人類は次々とプロバイダと呼ばれる人工臓器を作っていった。最初に作られたプロバイダは腸や胃といった単純な臓器に過ぎなかった。やがて胆嚢、腎臓、肺のプロバイダの生成に成功すると、遂には膵臓、肝臓など当初はとても生成不可能だろうと思われたプロバイダまで人類は作り出すことに成功した。
しかしそんな栄光の裏でどうしても作れないプロバイダがあった。それが心臓だ。
一見、血液を循環させるだけの単純構造の臓器である思われた心臓……、化学物質やホルモンを生成する複雑な臓器に比べて、物理的な機能しか持たない心臓は、当初比較的簡単に生成できるであろうと考えられていた。ところがこの物理的機能というのが意外と厄介だった。心臓はその大きさのわりにとんでもないパワーを有した臓器なのだ。
iPS細胞から作られた心臓のプロバイダは、大きさや形こそ人間の心臓と瓜二つであったものの、そのパワーはお話にならない程貧弱なものだった。世界中の科学者がプロバイダのパワーアップを試みたが、あらゆる努力が水泡と化した。実用的な心臓のプロバイダの生成は少なくとも後二十年は要するであろう――それが大方の科学評論家の一致した意見であった。
しかし、小枝子の眼前に設置された計器の針は、確かに大樹のいう通り驚異的な数値を叩き出している!
若き天才科学者海原大樹は誇らしげに説明をはじめた。「従来のプロバイダ生成技術には何が足りなかったのか? 答えはプロバイダを培養する時間が決定的に不足していることだ。培養期間をもっと延長することができれば、よりパワーアップしたプロバイダが生成できるはずなんだ。しかしただ培養液に浸けているだけでは、その期間は精々半年が限界だった。半年も経てばプロバイダは腐敗しはじめた。なぜ腐ってしまうのか、その原因はよくわからなかった。従来の科学者は培養液の無菌化などに精力を傾けてきたが、その試みはことごとく失敗に終わった。暗礁に乗り上げてしまった再生医療学における最大の難問……、ところが意外なところにその解決策はあったんだ。これまで世界中の誰もが思いつかなかった奇想天外な発想だ!」
「それは……、何だったの?」小枝子が興味深げに訊ねた。
「現実の人の臓器生成を場合、受精卵が分裂して初期の胚が形成される。それぞれの胚には目的の臓器に成長するための設計図が組みこまれている。そして、最新の再生医療学はその設計図の解読に成功したということだよね。人類はその設計図の命令をiPS細胞に課すことで、思い思いの人工臓器――すなわちプロバイダを自在に作り出せるようになった。ところが常にさっきいった培養期間の限界という問題にぶち当たってしまう。心臓のように形成に時間を要する臓器は上手く作れなかった……」ここで大樹は一息吐いた。
「――結論として、従来のプロバイダ生成法と人間の臓器成長の過程とは、何か根本が違っているということになる。人間の場合は初期の胚が設計図に従ってそれぞれの臓器に発展した後でも、さらにその臓器は時をかけて成長していくよね。これに対してプロバイダの培養は単に臓器形成までの過程をフォローしているに過ぎない。これだと思ったよ。臓器生成後の臓器の成長という過程をプロバイダにも課してやればいいのではないかということに僕は気がついた!」
小枝子は無心で話を聞いていた。大樹はさらに続けた。「人間の臓器は形成後も無事に成長していくのに、なぜプロバイダは途中で腐ってしまうのか? 人間の場合は臓器形成が完了すると同時に脳細胞もほとんど形成されている。そうだ、脳が鍵を握っているんだ! 脳が形成されると、その後は脳から臓器成長に関するなんらかの重要な指令が送られて、それによって臓器腐敗の進行が止められているのではないかと僕は推測した」
「プロバイダの生成においても、初期の臓器形成期とその後の臓器成長期を区別して行わなければいけないということね」平池小枝子が口を挟むと、大樹はニヤリと笑った。
「そこで僕はまず人間の脳細胞を準備した。ここの病院に担ぎこまれた身元不明の死体から脳をもらってきて、その脳とiPS細胞を神経接続しながらプロバイダの培養を行ってみたんだ」
小枝子は水槽に浮かぶ心臓のプロバイダから何本もの神経が伸びていて、それが水槽の外に置いてある黒いボックスに繋がっていることにはじめて気づいた。黒いボックスの中身は……? 思わず小枝子は息を呑んだ。その時天才科学者海原大樹は悪魔的な笑みを浮かべていた。
「ところが事態はそんなに簡単ではなかった」大樹は青ざめている小枝子を冷静に見つめながらいった。「今度は肝心の脳が活動を停止してしまうという新たな問題が生じたんだ。どうやら脳というものは常に外部からの刺激を受けていないと、すぐに機能を失って活動を停止してしまうらしい。それもそうだろうな……。アルツハイマー病が外部刺激に対する反応が鈍くなった脳の部分的な細胞欠損が原因であることは、すでに解明された事実だ。そこで僕は脳に娯楽を与えることを考案した。はじめは脳に適当に電気刺激を与えてやってみたんだが、どうも上手く行かなかった。試行錯誤の末に、僕は脳に視神経を残してやることにした。何か物を見れば、自然と脳は何かを考える。このアイディアは実にすばらしかった! 視神経を残した脳は機能損失が劇的に抑制された。さらに当初の予想通り、健康な脳と接続されたプロバイダは一年経過しても腐敗が全く生じなかったのさ! おお、神よ、何という劇的な結末だろうか……。かくして長期間にわたるプロバイダの培養が実現可能になったというわけだ」
平池小枝子は愕然とした。自分には想像すらできなかった、プロバイダに脳を移植するなんて、ましてや脳の活性化のために視神経まで取りつけるなんて発想は……。世界中の科学者が束になってかかっても十年は要するであろう二つの難関ハードルを、若干三十にも満たない海原大樹はたったひとりでいとも簡単に克服してしまったのだ。
平池小枝子は帝都大学院医学部医学科という日本一のエリート集団の中でも、ひときわ群を抜いた秀才だった。美人で帝都大学の大学院生でもある彼女は、現代を代表する才女としてテレビ取材を受けたこともあった。女ながらも負けず嫌いでいつも人の倍の努力を怠らなかった。もちろんそんな小枝子の成績は常に誰にも負けることはなかった。少なくとも帝都大学の院生になるまでは……。そんな小枝子の前に立ちはだかった巨大な壁が海原大樹だった。大樹は何をするにもそつがなかった。小枝子が一週間も費やして導いた計算を、翌日により良い計算方法に改良して紹介したこともあった。「君の計算がいいヒントになっただけだよ――」大樹の謙遜の言葉が逆に小枝子のプライドを傷つけた。どんなに努力してもいつも天才的なひらめきでそれを上回る結果を出す大樹の前に、平池小枝子という存在が次第に薄らいでいくように思えた。またやられた……と小枝子はこの時正直に思った。
強い嫉妬の念から発せられた言葉であった。「あなた、間違ってるわ! 私は許せない。そんな行為は倫理的に……」
「おいおい、待ってくれよ。こいつは世紀の大発見だぜ。今までの科学者の誰も気がつかなかったことだ」いつものようにあっけらかんと、しかも人を小馬鹿にしているような口ぶりで大樹が答えた。
「でも、そのプロバイダは痛みを感じるのよね」小枝子が訊ねた。
「当然だよ。脳があって神経を持っている。痛みを感じる神経があるからこそ筋肉が人間並みに増強するんだ。それのどこが許せないのかな?」
「だから、あなたの作り出したプロバイダはもはや物とはいえないのよ」
「その通り、プロバイダは立派な生物だよ。そんなことは当たり前じゃないか」
「違う違う。あなたの作り出したプロバイダは、もはや人間そのものになってしまっているの。脳細胞を持ち、神経を有し、感情を持っている……」小枝子は泣きそうになりながら訴えていた。
「なるほどね、君の主張はよくわかったよ。確かに僕が作ったプロバイダは、単純な生物という範疇を超えてしまっていて、人間に近い生命体であるともいえる。出来損ないのミュータントではあるけれどね」大樹はあっさりと認めた。
「それじゃあ、そんなプロバイダから臓器を取り出す行為は、人殺しと同じじゃない。そのプロバイダは痛みを伴って死んでしまうのよ」
「こいつの脳の持ち主はもうすでに死んでいるんだ。交通事故で……。死してなお、こいつは人のお役に立てるんだ。案外光栄なことだと草場の陰で喜んでいるかもしれないぜ」大樹は茶化すようにいった。
「あたしのいっているのは……、脳の持ち主ではなくて生み出されたプロバイダ自身のことよ。視神経を持ち、感情を持ったプロバイダ――彼が人間であるということなの。生成された心臓は彼を殺さなければ取り出せないのよ!」
今度は大樹が両手を振って反論した。「ちょっと待ってくれよ、君は家畜の肉を食べたことがないのかい? 人間に育てられた家畜は、人間の生命維持のために犠牲になっていくんだ。そうだよ……。それと、同じさ。プロバイダの飼育は人類の繁栄のために必要な一つのカテゴリーに過ぎないのさ」
「そんなの屁理屈よ」小枝子が切り返すが、大樹は一向に気にしていないようすだ。
「家畜は人間が育てなければ生命すら得ることができない。彼らは人間様のお陰で自分たちの種を繁栄させている。このプロバイダだって同じさ。僕が作らなきゃこいつはこの世に存在することすらできなかった……」
「プロバイダは家畜だっていうの?」小枝子の言葉にはすでに力がこもっていなかった。
「そもそもプロバイダという言葉は二十一世紀前半の作家アリス・ガーブが初めて使用した言葉なのだが、その時、彼女は臓器提供のために生成されたミュータントの呼び名として用いたんだ。そのミュータントは人間と同じ体型を持ち、同じ臓器を持ち、同じ筋肉を持っていた。ところで僕の作ったこのお粗末なプロバイダが、アリスの描いたミュータントに匹敵するとでもいうのかい? 僕のプロバイダはとても人間と呼べる代物ではないんだ。アリスの小説に登場するプロバイダの印象で、僕のプロバイダが人間であると勝手に誤解されるのはいささか心外ではあるね。そもそも人工臓器にプロバイダという名前をつけるからおかしくなるんじゃないかな。僕が作ったプロバイダは改良型人工臓器と呼ぶべきなんだよ」
平池小枝子は一切反論できずに無言のままだった。大樹はさらにつけ足した。「いいかい、現在の日本人富裕層の平均寿命は男性で九十七歳、女性が九十五歳だ。五十年前の統計と比べて、男性は二十歳近くも寿命が伸びてるんだ。なぜだかわかるかい? そうさ、プロバイダの研究が進んだお陰なんだ。ただ、心臓だけが実用とするには不十分なものだった。近年、金持ち連中が金をばらまいて、生成過程での揺らぎ誤差によって生まれたわずかな品質の高い心臓を奪い合っているが、それでもその心臓は七十歳程度の機能しか持っていない。それが、どうだ? 僕の作りだしたこのプロバイダRA13のパワーを見ろよ。これ一つだけで、僕の年収の十倍は支払うという馬鹿どもが世の中に五万といるぜ。今回の研究の成果によって、平均寿命はいよいよ百歳の壁を突破するだろう。いいかい、冷静になれよ。こいつはビジネスだと考えればいいのさ」
平池小枝子は黙って首を横に振った。大樹は残念そうに呟いた。「君はもっとスマートな科学者だと思っていたがね。我々科学者の血と汗の結晶が時の権力者たちによって悪用されたにしても、それは宿命なんだ。科学者に非はないと僕は断言するよ。あの二十世紀前半の大惨事の原爆投下事件がアインシュタインやフェルミに責任があったなんていう奴がいたら、それはお門違いというものさ。はっはっ……。それじゃあ、僕はこれで帰るけどいっしょに食事でもどうだい?」大樹から誘ってきた。
「ごめんなさい、もう少し、やらなきゃいけないことがあるから……」とても今晩大樹といっしょにくつろぐことなどできそうもなかった。
「そうか、残念だな。じゃあ、お先に失礼するよ。あっ、そうだ。実はこの脳みその持ち主は男だったんだ。こいつ久しぶりに美人の君を目の当たりにして、ひょっとしたら興奮しているかもしれないぜ……」最後に大樹は小枝子の耳元でそっと囁いた。
海原大樹が部屋から出て行った。暗い部屋に一人取り残された小枝子は、有機溶媒のプールに目を向けた。確かに、大樹に対する嫉妬がなかったとはいえない。大樹の名前は大きな木、自分は小枝――、ジョークのような名前のコンプレックスが小枝子の脳裏をいつまでも駆け巡っていた。
ボックスの中から伸びた何本かの電極の先に取りつけられたLEDのほのかな灯りが、絶え間なく点滅を繰り返している。その時小枝子は計器が示すプロバイダの心拍数が、先ほどの正常値を大きく超えていることに気がついた。プールの水面には、プロバイダから伸びた視神経が、すなわち瞼を有した不気味な目玉がポツンと浮かんでいた。
やがて自らに下される残酷な運命を察することもなく、その目玉はただ嬉しそうに小枝子に向かって、瞬きをひたすら繰り返すのだった……。
(完)
ロアルド・ダールの有名な作品にヒントを得て書いてみました。ご感想をお待ちしております。