そなたにお願いがある。
32
小さな部屋だった。相変わらず辺り一面真っ白で、女神の後ろに人の形をしたものが何かに包まれて浮かんでいた。
(アンジュ……)
それがアンジュだと、一目で分かった。
肌は色白のまま、髪は薄い茶色、まつ毛は黒かった。そして身体は、とてもやせ細っていて、顔は見ていられないほど、こけている。でも、天使のような顔で目を閉じていた彼は全く変わっていない。
俺はゆっくりと足を進めると、女神の隣に立ち、包まれているアンジュを見上げた。
「これが、あの子の肉体だ。あの日のままにしてある」
俺が隣を見上げると、高い位置に女神の横顔が見える。
「………戻すの、ですか?」
これを俺に見せる意味、それはアンジュをこの肉体に戻そうとしているのではないか。
「…あの子を人間界に行かせたのは………誰かに、あの子を見つけて欲しかったからかもしれない。純粋な気持ちで、あの子を愛してくれる誰かを。……悪魔の生き残りがいるかもしれないという噂を理由に、153を人間界に行かせた。我はここでずっと様子を見ていて、もしあの子が誰にも見つからなかったら、その時は連れ戻そうと考えていた。…でも、そなたが現れた」
「………」
「そなたはあの子に、帰る場所を与えてくれただけでなく、愛してくれただろう」
「………」
「子供を思う親とはこんな感じなんだろうな。…………前までの我は、幸せそうに暮らす悪魔たちを見て妬ましく思っていた。ちょうどその時に天使から密告があった。だから戦争を仕掛けたのだ」
「………」
そんな、簡単に……
自己の都合で、俺の父上や母上…大切な人たちは殺されたというのか。
怒り、というよりも呆れというか、複雑な感情すぎて説明できない。
俺が記憶を完全に戻せていないせいか、それとも時間が経っているから、情が薄れているせいか。
怒れない自分を、最低だと思った。あの日、ミュエルに感じた沸騰するような怒りを抱けない自分を……
「……でも、それは間違っていたのだな」
「…………」
「そなたにお願いがある。………我を、我をそなたの手で殺してほしい」
「………」
女神は俺を真っ直ぐ見つめ、そう言った。
アンジュの肉体の目の前で、はっきりと。
「天使は悪魔を、悪魔は天使でないと、殺すことができないのだ。……ミュエラから聞いた。魔王は天使と共存する世界を作ろうとしていたと。それを我は勘違いして……………。我は、この世に必要のない…いや居てはならない存在、消えるべきだ。……だから、そなたが我を殺してくれ」
「できません」
俺は即答した。
「……なぜだ。我はそなたにとって恨みの対象であるはずだ。戦争を持ち掛け、そなた以外の悪魔を殺し、153を苦しめ、そなたまでも殺そうとした、そんな相手だぞ」
「確かに…俺はあなたのこと好きじゃないです。………でも、父上だったら…ルシフェルだったら、………そして、アンジュだったら、あなたを殺さない。そう思ったから」
俺はもう、同じ過ちを繰り返したりはしない。
「………」
「それにあなたがアンジュを助けていなかったら、アンジュは死んでいた。……疑問なんです。…そのまま彼を放っておくこともできたのに、そのまま天使にすることもできたのに、それをしなかったのはどうしてですか?」
ミュエラやミュエルのように、天使として迎え入れていればこんな複雑なことにはなっていない。アンジュは出来損ないにもならなかったであろう。
「……暖かい場所に、いさせてあげたかったのだ」
「………」
「アンジュは、母親によって家に閉じ込められていた。多分、彼が幼い時からずっとだ。…ろくに食事も与えられず、寂しく冷え切った部屋でたった一人きり、いつ帰ってくるのかも分からない母を、ただ純粋に待っていた」
女神は包まれたアンジュに優しく手を当て、ぽつりぽつりと話し出した。
「健気に待っていた153とは対照的に、その母はひどいものだった。我が子を放置して自分は恋人の元へ入り浸り、仕事だと嘘をついて、家に戻る頻度をどんどん減らしていったのだ」
どうして、アンジュばかりがこんな目に遭わなくてはいけないのだろう。あの子が一体何をしたっていうんだ。
「少量の食料と、母という存在のためだけに日々生きていた153。そんな彼を、母は邪魔に思っていた。自分の人生での汚点、彼さえいなければもっといい生活ができたと、いつもそう思っていたのだ。………そして、自分のストレスを153にぶつけていた。出来損ない…だと」
「………」
アンジュの根底にある、あの自信のなさは、ずっと前から持っていたものだった。だから、人間の頃の記憶がない今でも、心のどこかに残っていたのだろう。それほどまでに出来損ないという言葉は、アンジュの胸に深く刻まれていたのだ。
初めて会った時、偉そうな口調だったのも、強気な態度だったのも全て、弱い自分を押し隠し、強く見せることで必死に自我を保っていたのかもしれない。
そう思うと、より一層愛おしく感じた。
「それでも、153は母を愛していた。自分を愛してくれる、こんな出来損ないを捨てないでいてくれる存在は母しかないのだと………彼は母に洗脳されていた」
「………」
「そして些細な出来事がきっかけで、母は家に戻ることをやめた。………153は」
「もういい。もう……いいです」
これ以上、聞いていられなかった。その先のことも何となく想像ができてしまうから。胸が、張り裂けそうになる。
彼はずっとそんな環境に一人でいた。その事実に、俺は耐えられなかった。
アンジュのことを知りたい、そう軽率に思った自分がひどく腹立たしくて、当たり前だけどその時何もできなかったことが悔しかった。
「……153は孤独だ。本物の愛情を知らないまま、暖かさを知らないまま、天使にするのは、我は……嫌、だと思ったのだろうな。よく分からないが。気づいた時には、彼を保護して…保存していた」
女神にも、一応そういう感情が備わっていたのか。
「ミュエラとミュエルを例にとろう」
「………?」
「彼らもまた忌み嫌われた存在であった。親に捨てられ、周りからは蔑まれ、居場所を与えてもらえなかった。……それでも孤独ではなかった」
「………」
「彼らには彼らがいた。………そして、ミュエラは病にかかっていた。…ミュエラの肉体を保存したところで、彼女の病が治るわけではないのだ。それに、彼らを離れ離れにするのも忍びないだろう。だから、二人の行く末を見守った後、こちらに引き入れた」
「………」
二人にそんな過去があったなんて…知らなかった。いや、あの二人ですら知らないことだ。俺が知りようもなかった。
そして女神も全知全能といったわけではない、ということだ。
「…我は最後に153の魂を戻し、ここを去る。……それが、我にできる最後の仕事だ」
女神はアンジュから視線をずらし、もう一度俺の方を見た。




