Ⅱ 旅立ちの暁
飛行機を降りてからは、まるで違う世界に来てしまったような気分だった。
都心から出たことがない、まさに井の中の蛙だった僕は、北九州にたどり着くまでに一日近くの時間を要した。
まさか東京で一日潰れるとは思わなかった。
紆余曲折あって福岡についたのは翌日だったが、過ぎてしまえば疲労以外、感じるものはもうない。
ネットで調べたとおりに地下鉄と鹿児島本線を乗り継いで揺られること数時間。
ここに来ることを選択してしまった消極的な後悔と脱力感を乗せた鈍行列車は、ガタガタと分岐を乗り越えながらついに終点のホームへと進入してゆく。
門司港駅。照りつける日差しを遮る駅のホームは、まるで過去に遡ったような感覚すら覚える独特の趣があった。
駅舎に降り立つと、教科書の中でしか見たことがなかった景色が、目の前に広がっている。
貼り付けられたモルタルで重厚な様式を示す駅舎を出ると、眼前にはただ青く高い空があった。
じわじわと照りつける真夏の太陽の下、駅前広場で行き交う人は少なくないが、東京と違う雰囲気で溢れていた。高層ビルに遮られない広い空と見渡す先々に点在する煉瓦れんが造りの建物が「門司に来た」という感覚を後押しし、腹の底にある得体の知れぬ高揚感を掻き立てた。
びゅうと一時強く吹いた風に乗ってやってきた潮の香りは、視界を自ずと左側、海へと向けていた。
「すごい……」
駅からほんの少し歩いただけで、門司の港が現れた。ぽつりぽつりと停泊する大小の漁船と、長蛇の列を形成する観光客船の待機列。眼前にあるようにすら感じさせる巨大な構造物――関門橋だ。見渡せるほどの位置ではあるが確実に距離を感じさせる下関の対岸までかかる純白の鉄橋は、空や海に負けじとその存在を主張していた。
桟橋を歩きながら全身で海を感じる。いわゆる「海の匂い」というのは初めてだった。ほんのりと感じられるのは生魚のような鼻をつく異臭ではあるものの、どこか懐かしいような感覚、安心するかのような感覚すら覚える。体感したことはなかったが、これが海の匂いなのだと確信はできた。
桟橋に打ち付ける小さな波と、耳元をすり抜ける潮風。そよそよと揺れる広葉樹が少しだけ青い香りを乗せてきて、海の匂いとともに不思議な感覚をもたらした。
手元の地図をもう一度広げてみた。今いるのがこの桟橋だから、まずは桟橋から戻って駅を基準に考えよう。
しかしこの時代になって紙の地図を渡されるというのも驚きだ。場所を伝えるならスマホの地図アプリで転送してくれればいいのに。
そんな事を考えながら大きく広げた地図を畳むのに苦戦していると、一陣の風を受けたそれが帆船のごとく手元から激しく飛び出した。
「あっ!」
思わず叫んだときには、もう遅かった。手元を離れた紙面がばさばさと空を舞い、あっという間にその音も聞こえなくなる。伸ばす手がそれに届く気配は、ついに無かった。
一時高く舞い上がった紙は徐々に失速し、微風に流されるままに海面を目指す。
唯一の手がかりを失った僕は、呆然と立ち尽くした。次の瞬間までは。
刹那、僕の横を弾丸のように何かが駆け抜けた。思わず振り向いた視界に映ったのは、素足とセーラー服、そして一つに結った髪をなびかせる少女の後ろ姿だった。
その少女はコンクリートの桟橋から勢いよく踏み出し、その体を躊躇なく宙へ舞い上がらせた。
「ちょっと!」
考えるよりも先に、手が動いていた。あまりにも急な出来事に、「危ないよ」とは言えなかった。
飛び出した少女の腕を掴む。刹那、少女が振り向いた。可憐な顔立ちだった。驚いたように光る、ビー玉のように透き通るまん丸の瞳が、果てしない青空を映していた。
水に落ちる瞬間というものは、思わず目を瞑ってしまうものだ。どぼんというこもった音と全身に纏わりつく水と泡が、自分が水に落ちたということを実感させる。
水泳は、小学校の授業でやったきりだ。ゴーグルをつけずに水中で目を開けるのは、痛くて嫌だった。
でもとにかく水上に顔を出さなければ。両目をギュッと瞑りながら、片目をわずかに見開いた。僅かに感じた頭上の光を頼りに、手足を必死に動かした。
我ながら、みっともない動きだったと思う。手足がバラバラに動いているのが分かった。頭では分かっていても、教本通りの平泳ぎは叶わなかった。
ざばんという音と共に、ようやく頭が水面を突き抜けた。
こもった音が響き、直後、体温で温められた生温い海水が耳孔を流れ落ちた。
海水によって冷やされた体が肺を締め付け、呼吸が荒く、速くなる。どうやって岸に上がればいい?そうだ、一緒に落ちた女の子は?
もがきながらあたりを見回す。海面に少女の姿はなく、その視線は、岸壁の上から送られていた。どうして、なんてことを考えていると突如、足先に電流のような感覚が走った。
足がつった。突き刺すような痛みは、泳ぐ気力を容易く奪ってゆく。
気力もなくなり、力尽きかけた頭に、ばしゃんという音がもう一度響く。
体を担がれるような感触を得たのは、その直後だった。
「がはっ……ごほっ、ごほっ」
熱せられたコンクリートに膝と両手を付きながら、激しく咳き込んで荒い呼吸を繰り返した。
――死ぬかと思った。
びしょびしょになった全身などは既にどうでもよく、ただ体を楽にするために仰向けに寝返りを打った。体を大の字にして空を見上げる。冷やされた体に伝わるコンクリートの熱が心地よかった。
ようやく息も整ったころ、一つの影が空を遮った。
僕を見下ろすように仁王立ちする少女。しっとりと濡れた髪とビー玉のようなまん丸の瞳が不思議そうに僕を見る。濡れたスカートが少女の体にぴとりとはりつき、そこから伸びるすらりと細い脚の輪郭が浮き出ている様子に思わずドキッとした。
ごめん、ありがとう。そう言うため、口を開きかけた矢先、
「あんたもしかして泳げんと!?まったく、男なんに情けなかね!」
まったく可愛げのない言葉を吐きかけられた。方言だったが、何を言いたいかははっきり分かった。
「ごめん、悪かったよ」
純粋にそう思い、少女に伝える。それもそうだ。おそらくこの子は、飛ばされた僕の地図を取ろうとして飛び出した。それを思わず引き留めようとして海に落ち、あげく助けてまでもらったのだから当然だろう。
謝られた少女はぷいと、頬を膨らませてそっぽを向く。それから一枚の紙を差し出してきた。
飛ばされた地図だ。
「ありがとう」
渡された地図を眺め、もう一度少女の顔色を伺いながら、口を開いた。
「その、ところでこの場所なんだけど……」
そっぽを向いた少女は、ちらっとこちらを見るやいなや、地図を僕からぶんどった。少女は地図をじっと眺め、はあ、とため息をつく。そして何かを言うわけでもなく、地図を持ったまま歩き始めた。
「ちょっと」
予想外の動きをした少女に出足がつかず、小走りのように追いかける。つんと胸を張った少女はすたすたと足が早く、そこから言葉を発することはほとんどなかった。
少女の後ろを歩くこと数分。少女が立ち止まったのは、辺り一帯でひときわ存在感を放つ、立派な屋敷だった。
日本家屋のような屋根を持つが、門構えは洋風だ。門司港の駅舎のように、近代の欧州の影響を受けた建築なのだろう。
少女はそのまま大きな門を開き、屋敷の中へ入ってゆく。まさか。その予感は的中した。
「アキラ!」
男の怒号が聞こえた。思わず身をすくませる。束の間を置いて現れたのは、紋付袴に身を包んだ大柄な男だった。短く切りそろえた髪、蓄えられた髭、そして熊のような鋭い目つきに、思わず萎縮した。
「っとすまん、客人か。どんな御用で」
鋭い目つきの大男は、先程までの恐ろしい顔先から一変、目元を緩ませて問いかけた。
「あ、えっと」
緊張して声がうまく出ない。不貞腐れた表情で、先程の少女が突き出すように地図を男に押し付けた。
それを気にも留めることなく男は地図を眺め、
「おお、君が凪くんか!よう来た!遠かったろう」
大きな声だが、先程の怒号とは真逆に暖かみすらある声で男が話し始めた。
「当主の佐一郎だ。勇、君の父さんから話は聞いとうばい。まあ上がりんしゃい」
「お世話になります……」
すくんだ肩をもどせずに、佐一郎さんに小さく礼をした。めちゃくちゃ緊張する。僕はこの人に会ったことがあるのか?いや、こんなに怖かったら覚えているだろう。
なんてことを考えながら大きな玄関に入ろうとすると、
「アキラ!挨拶ぐらいせんね!」
佐一郎は少女に怒号を浴びせ、その少女もまた頬を膨らませてやってきた。
「……暁」
目も合わさずにぐいっとお辞儀をした少女は、屋敷の奥に走り去っていく。
「アキラ!何ばしようと!お客さんに失礼じゃなかとか!」
「い、いえ、気にしてませんので」
「すまんなあ、凪くん。暁は俺ん娘や。見てん通り、人見知りでな。まったく、誰に似たんだか。気難しいやつだが、どうか仲良うしてやってくれ」
佐一郎は深く頭を下げた。つられるように、こちらも深く頭を下げる。
彼の娘、港で僕を助けてくれた少女の名は暁というらしい。
まさかあの子と同じ家で暮らすことになるとは思ってもみなかった。うまくやっていけるだろうか。そんなことを考えると、少しばかり憂鬱になる。
佐一郎に感づかれぬよう、小さくため息を漏らした。
そんな憂鬱に構ってる暇もなく、眠れば朝が訪れる。普段と違う布団と枕で眠るのには少し抵抗があったが、目覚める頃には気にならなくなっていた。
結論から言うと、九州での暮らしは思った以上に心地よかった。なんというか、適度なストレスと開放感がバランスよく存在し、経験することもほとんどが新鮮だった。
それには大きな理由が一つある。夏休みだからといって、この家での暮らしは遊んでいられるわけではなかったからだ。
「凪くんも客人とはいえ、家におる以上は家族として扱う。大人として君ば守るし、何かありゃあ親のように頼って良か。だがそれ以上に、俺たちは商人家系や。施すもんがありゃあ、納めるもんもある」
佐一郎から聞いた話だが、父と佐一郎は従兄弟の関係だそうだ。そういった話を殆ど聞かなかったので険悪な仲だと思ったが、そうでもないらしい。
厳密には、お互いの先代が会社の経営方針で意見衝突したのちに佐一郎の先代である本家の方に事業が吸収されて、とか生々しい話があったそうだが、父の代ではまったくそういうことは無いようだ。
「まあ難しいこと考えんで、うちん手伝いばしてくれって話や」
佐一郎は豪快に笑った。
僕もつられて笑う。この人の人柄には、何か引き込まれるような、カリスマ。一言でいうと、そういったものがある気がした。
佐一郎は勤務先の会社の仕事があり、僕たちが手伝うのは「初代」が創業した商店の仕事らしい。佐一郎の奥さんである部長の「景子さん」から指示をもらっていた。
一口に手伝いと言っても、まさに仕事と言って差し支えなかった。
一日目。門司の地図を覚える。町名、番地、どこに誰が住んでいるか。漢字も読み仮名も覚える。暗記は得意だったのですぐに出来たが、実際の地形と地図を結びつけるのに少し苦労した。
二日目からは早くも躓きが訪れた。挨拶回りをしてこいと言うのだ。朝から夕方まで、その日決めた地図の区画の住民ほぼ全てに挨拶をしに行った。とんでもなく胃が痛かったが、想像していたより門司の人たちは暖かかった。
知らない人の家を訪ねても、悪質勧誘対策が行き届いている東京では誰も出てくることはないだろうし、理由もなくお菓子をくれたり麦茶を飲ませてくれたりはしないだろう。
そういうのは、なんだかとても嬉しかった。
おおよそ三日程度、あいさつ回りを繰り返してから、初めて仕事を任された。
「よ、よろしく」
髪を結んだ少女、暁はまた、ぷいっとそっぽを向いた。
(やりづらい……)
ひきつった顔のまま、心の底で呟いた。
今日の仕事は配達だ。景子さんから受け取った荷物を、指定された家や会社、お店、事務所まで届けに行く。
まずは暁と一緒に行動し、一連の作業を見て学ぶ。無料で渡すもの、代金を受け取るもの、追加で注文を取るもの。
町の人々に対しての暁の口ぶりは、普段のぶっきらぼうな態度からは感じられないほど達者だった。なんというか、地元の皆に愛されているような印象があり、ぎこちなく挨拶をするだけの自分が少し情けなかった。
そして「独り立ち」初日。悔しいので仕事の効率で対抗することにした。配達のリストと地図を照らし合わせ、拠点であるこの家から一筆書きのルートで最短距離で配達を遂行する。「巡回セールスマン問題」。数学教師が余った授業時間を活用して紹介していた難問だ。一筆書きのように一見単純な作業に見えても最適解を導き出すのはコンピューターですら困難というオチだったが、誤差や多少のロスを許容して考え方だけ捉えるのであれば問題ないはず。完璧な作戦だ。
「遅すぎ!どんだけ時間かけると!」
暁が僕に声をかける時は、決まって文句だった。
結論から言えば、巡回セールスマン作戦は大失敗だった。暁はむやみに非効率なルートを通っていたわけではなかった。時間帯により不在の家があるということは見事に計算外だった。
「次は絶対勝つ!」
気づけば僕も、暁に対してムキになっていた。だが、僕の挑戦をあざ笑うかのように、次の日もその次の日も負け続けた。そして、
「よし!今日は僕の方が早いだろ!」
タッチの差だが、初めて暁より早く帰ってこれた。しかし、
「ふーん、それで?あんた、今日はいくら稼いだと?」
「は?」
暁は、じゃりじゃりと小銭の音を鳴らす巾着袋を見せつけてきた。
聞くところによると、言われたことだけをこなして配達するだけでなく、お客さんが必要そうなものを売り込んで買ってもらったりすることで出した儲けは、会社の最低限の取り分を引いたら小遣いにできるらしい。
――なんだその制度は。
「まあうちより早う帰ってくることは出来たわけやし、どうしてもって言うならうちがわたしんお金で奢っちゃってもよかよ?」
ツンとした表情で自慢気に言う暁。こいつ、本当に可愛げがない!
でも今までにないほど彼女が言葉をかけてくれている。打ち解けられず、気まずいまま過ごすよりは良いだろう。
「ああ負けたよ。暑いしアイスが食べたい。あと僕からもお願いなんだけど」
「なん?」
「教えてほしいんだ。……暁の、仕事のコツ」
思い切って彼女の名前を呼ぶ。暁は一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐにそっぽを向いてしまった。
そこから少しだけ、ふたり無言で歩いた。海岸沿いを歩く二人を、何台もの自動車が追い越した。空から照りつけるじわじわとした日差しがアスファルトから照り返し、目線の先を陽炎がゆらゆらと揺らしていた。
「ん」
「ありがとう」
コンビニから出てきた暁は、突きつけるようにビニール袋を差し出してきた。
ビニールの包装を剥がすと、大きなソーダバーが純白の冷気を伴って現れた。
しゃくり、と。遠慮なくその氷塊にかぶりつく。
美味しい。甘く芳醇な氷が舌の上でじゅわっと溶け、つるりと喉を通って体を内側から冷やしてゆく。
この上ない贅沢だった。隣で同じアイスバーを食べる暁も、小さな口で一生懸命氷を削っている姿は小動物のようで、性格に似合わず可愛らしかった。
「東京ってさ」
そんな中まじまじとその横顔を見つめていると、前を向いたまま、暁がおもむろに口を開いた。
「東京って、どげんところと?何があると?」
「そうだな、退屈なところ、かも。なんでもありそうで、なんにもない」
前を向き直し、力なく答える。
「ふーん」
暁はまた一口、アイスをかじった。
「――凪は、さ。学校行くん、好いとー?」
「うーん。たぶん、好きじゃない、と思う」
「ふーん」
アイスを食べ終えるまで、それ以上の会話はなかった。それでも、暁が僕のことを名前で呼んでくれたことは嬉しかった。
あとから気づいたが、暁に仕事のコツを教わるのを完全に忘れていた。それでも、暁が少しだけ心を開いてくれた気がして、不満はなかった。
でも、その日以降、暁と特別会話が増えたわけではなかった。変化といえば、かかった時間だけではなく、稼いだ金額でも勝負するようになったということだ。
無論、勝てたことは一度も無かった。