Ⅺ 赤星 アンタレス
暗雲によって真夏の日中とは思えないほど暗く、海も時化る中、祭りは決行された。
幸いなのは雨が無かったことのみで、気温も真夏のそれとは程遠く寒かった。
「船出せ!」
すでに出港を終えたいくつかの小型船に続くように、僕を乗せた御座船は錨を上げた。
急ごしらえで船上に建てられた木組みの櫓の上に座し、その進行を見守る。
宇慶曰く、踊り子は島に着くその瞬間まで、体力を温存させることが重要なのだという。
踊り子の装束だけでは寒くてかなわないので着たベンチコートが、風と波しぶきから身を守りながら裾を大きくはためかせた。
顔に吹き付ける風は冷たかったが、宇慶より飲まされた、おちょこ一杯程度の屠蘇という薬草を溶かし込んだ神酒が血行を促進させ、身体を芯から温めていた。
船上からの光景は圧巻だった。数百隻にもおよぶ船が海上を埋め尽くし、橋を架けるようにその船体で列をなしてゆく。
僕を乗せた御座船はその橋を渡るようにゆっくりと脇を航行し、沖ノ島を目指した。
『大島・神湊間、橋架け終わりました!』
「よしわかった!このまま沖ノ島まで頼むぞ!」
指揮を執る宇慶は無線に呼びかけながら、他の船員たちも慌ただしく作業に奔走していた。
「あの、何か僕も――」
「凪くんは大丈夫だ!気がかりかもしれんが、今は体力を持たせることが仕事だ!」
「――はい」
思わず立ち上がった僕に、宇慶は少し強い口調で言い放った。僕が、この祭りを行う皆に
対して出来ることはないだろうか。
ぐるりと大島を回り込み、今度は沖ノ島へと進路を取る。
いつか見た遥拝所。その小さな屋根が、視界に映った。
「タキリヒメ。どうか僕たちを、見守っていてくれ。君に逢いに行く。だから、島に近づいたのが僕だと分かったら、道を示して欲しいんだ」
手を合わせ、小さく呟く。礼拝の仕方は間違えたかも知れないが、想いを伝えたい。ただそれだけだった。
「なんと!やはりか……」
受け取った無線通信に、宇慶が力なく嘆いた。船が足りないのだ。
このままでは橋を架けることは叶わず、神への道は閉ざされる。
『宇慶さん!』
「なんだ!」
『ひょっとしたら、いけるかもしれません……!』
灰色の空の下、巨大な汽笛が轟いた。
目に映ったのは巨大な壁にも見える大型船。タンカーだ。
その船首に刻まれた紋を見逃すはずがなかった。
「佐一郎さん!」
周りの制止を振り切って、操舵室へと降りた。
『あー、聞ことるか。今一般的な周波数で呼びかけとう』
「聞こえます!どうしたんですか、その船!」
『存外、総務部ん説得に時間ばかかってな、門司ん盟主として、宗像様ん祭りに手ば貸さん
わけにはいかんばい』
佐一郎の会社のエネルギー部門が所有するそのタンカーは、たった二隻ではあったが大きな橋の一端を担うには十分だった。
『それだけやなか、古か友人にも無理言うて船ば出してもろうたばい』
二隻のタンカーに続くのは、何ヶ月も外洋を航行する巨大なコンテナ船や、海峡間を結ぶカーフェリーだ。
『――というわけだ、凪くん、我が社からも数隻、参列させてもらうよ』
「社長!」
やれやれ、といった馬主の男の声は今までにないほど頼もしくて、心の底から炎が燃え上がるように心臓が高鳴った。
橋が架かる。宇慶によれば、大型船であればそのぶん、大きな間隔を取って連なることが
可能だという。即席の大船団が、御座船を導くように先導して連なった。
直後、船を激しい嵐が飲み込んだ。沖ノ島の上に積み上がる巨大な積乱雲の影響下に入ったのだ。
これまでにないほど波は高く弾け、その海水が容赦なく船へ襲いかかった。
「気を確かに保て!もう間もなくだ!」
宇慶が叫ぶ。見えてきた。
沖ノ島。暁と来たころよりもずっと恐ろしい様相を呈しているその島は、明らかに僕たちの侵入を拒んでいるようにも感じられた。
「錨下ろすぞ!明かり灯せ!」
宇慶の呼びかけに、各船が一斉に反応した。仄暗い空の下、船内外に取り付けられた照明が煌々と灯り、さながら光の橋のように沖へと伸びた。
「よいか!この浜で首まで海水に浸かり、身を清めるんだ!お主が着とるのは踊り子の正装だ。禊のときに着崩さぬよう用心するのだぞ!」
激しく揺れる船の上で、宇慶は暴風に負けぬように声を張り上げた。
「ここから儂らは行けぬ、お主一人で、タキリヒメ様のところへ!」
「はい!」
ざぶんと、海に飛び込んだ。海中で目を開けるのは怖かったが、飛び込んですぐ地に足がついたので、地面を蹴り上げて浜を目指した。
海水で濡れた身体を、暴風が容赦なく冷やす。それでも、僕の足を止めることは出来ない。
「暁!」
大きく叫んで、走り出した。素足にかまわず、坂を登る。
巨石群の間を通り抜けた。覚えている。恐ろしくざわめく木々も、生き物の気配すらしない草の茂みも、動物の頭骨で組み上げられた鳥居も、しめ縄に吊るされた骨の音も。
あの時はあんなに怖かったのに、今は全く逆だ。
暁に近づいている。その裏付けになりうるのだと思えば、小さな島の見た目に見合わない
長い坂など、苦ではなかった。
たどり着いた。見覚えのある石室。
「暁!」
叫ぶ声が反響する。見渡せるほどの小さな石室に、彼女の姿はなかった。
「そんな……」
暁は居ない。宇慶が見た、「草が茂るだけの現し世」とは違う、紛れもない黄泉のはずだ。
しかし、僕らが腰掛けた段差に少女の姿はなく、蓋を押し動かした小さな石棺が、そのままの状態で置かれているのみだった。
石棺。予感のように背筋を走る電流が一度、ぶると身体を震え上がらせた。
とうてい人が寝そべることは出来ないであろう石棺を、恐る恐る覗き込む。
その石棺に溜まった水は鏡のごとく僕の姿を映していた。
その水面に手を触れようとした瞬間、心臓が跳ねた。
直感。おそらく、ここから先が本当の黄泉だ。この場所以上に、帰ってこれなくなるような予感さえする。全身を、恐怖の霧が飲み込んだ。
足が、手が震える。だが何のためにここに来た?暁を助けるためだ。
刹那の自問を経て、結論はすぐに出た。
生贄として、神様へ求婚する。ここに来ただけで、現し世に戻れない可能性が高いと宇慶さんは言っていたんだ。どうせ引き返せないのなら何を今更、躊躇う必要がある。
鏡のような水面に触れる。それは人肌のように温かく、全身に絡みついてくるようだった。そして底が無いのかと疑うほど、腕がみるみる入ってゆく。確信した。ここから先は別の世界なんだ。ならば。
「迷うな!凪!」
己の名を呼び、その水面に足をつける。一瞬の恐怖を噛み潰し、縁にかける手を離した。
温かな感覚の中、ざぷんという音がくぐもって響いた。
暗く大きな空間に、ふわりと降り立った。恐る恐る目を開けたが、海水のように目に染みる感覚はなかった。
くぐもった音とともに、足元の土が煙のように舞い上がる。
見上げた天井は高く、上下感覚はない。この場所にどこから入ってきたのかも判別がつかなかった。
水中のはずなのに、不思議と息は苦しくない。全身を包み込む温かい水のような感覚は、安らぎさえ感じさせた。
直後、思わず声が出た。
「暁!」
瞳に映るのは、ずっと探していた少女。
暁は、その肢体を顕にしながら眠るように目を閉じていた。
「凪……凪!」
「暁!」
目を開けた少女に、思わず抱きついた。良かった。また逢えた。
「暁、ごめん。君をここに置いてきてしまった」
「ううん、凪が来てくれて、嬉しかばい」
目を開けた暁は、僕の耳元で呟いた。
「暁、伝えたいことがあるんだ」
肩を掴み、暁の目を見つめる。ビー玉のような瞳が、僕を見つめ返した。
「うん」
暁はそういって微笑んだ。
「暁、僕は君が好きだ。ずっと一緒に居たい」
暁の瞳が、微かに見開いた。
「これからも、一緒にいろんなところに行って、一緒にいろんなことをしたい」
ぽろぽろと、少女の眼から涙がこぼれ落ちる。
「うん、嬉しか、嬉しかばい、凪」
今度は暁が、僕を抱き寄せた。
「うちもね、凪のこと、好いとーよ」
耳元で囁く暁の声が、甘く溶けた。
顔が熱い。心臓も爆発しそうだ。
「暁」
内より滾る欲求を抑えきれず、眼の前の唇を奪った。
触れ合う鼻先がくすぐったくて、ふたりして笑う。
至近で見つめる大きく開いた瞳孔が、きらきらと輝いていた。
「凪」
暁が、じっと僕を見つめる。
「呼んで、もっと。名前」
「うん、暁。暁」
少女の細い体を抱きしめながら、耳を食むように呼びかける。
黄泉返りだとか、祭りだとか、どうでもいい。
今はただ、暁を感じていたかった。
声にならない悲鳴にも似た少女の微かな嬌声が、吐息混じりに聞こえてくる。
少女の内腿より滴り落ちる鮮血が、波紋のように広がっていた。
黒く荒れる海を、一人の少女が眺めていた。人の気配ない社殿の屋根にひとり腰掛け、沖に浮かぶ光の橋を指でなぞる。
遠く浮かぶ島の上で渦巻く雲は雨を降らせ続け、吹く風が荒ぶった波に理由をつけている。
「あ」
玉のように赤く輝く髪をくるくると弄んだ少女は、思わず声を漏らした。
少女はその両手で自分の体をぎゅっと抱きしめるように体を縮ませると、今度はその手で頬を抑えながら彼方の島を物欲しそうに見つめる。
「いいなあ~、私もしたいなあ~」
少女がぽつりとつぶやくと、空の色に、明確な変化が訪れた。
踊り子は岩戸を穿ち、暗く凍えた世界に暁が訪れる。
時化た海はたちまち凪ぎ、人々は思いのままに歓声を上げた。
「凪くん」
ぽつりと、少女が呟く。胸元のペンダントが、きらりと紅く輝いた。
「わかってるよ。でも、好きなんだもん」
儚く吐き出した少女の声は霧に溶け、晴れ渡る空へと消えてゆく。
暗く曖昧な空間に、柔らかい光が差し込んだ。空間は徐々に収縮したかと思えば、あの時
見た石室に、その姿形を変えてゆく。
横たわったまま手を握り、隣の少女と見つめ合った。
「凪」
隣で暁が囁く。また共に海を見るその声が嬉しくて、思わず一筋、涙がこぼれ落ちた。
「一緒に帰ろう、暁」
「うん」
少女の手を、確かめるように握り直した。
石室から眺める、晴れ渡った空。今度は暁と歩ける。
帰ってきたんだ、僕らの世界へ。石室より一歩、足を踏み出した直後。
閃光とともに、巨大な稲妻がその雷鳴を轟かせた。
「――っ!」
踊り子の上衣を羽織った暁が、驚いて僕の背に抱きついた。
間違いない。今この瞬間この場所に、雷が落ちた。
山頂付近の灯台が、その雷撃に撃ち砕かれて燃えていた。
あまりにも偶然とは考えづらい、恐ろしく大きな雷鳴、あろうことかその予感は的中する。
瞬く間に空が黒く染まったかと思えば、滝のような雨が僕たちに襲いかかった。
「暁!」
もう一度、彼女の手をぎゅっと握る。無意識に石室を振り返る。
だが、そこに戻ってはならないことを直感が教えていた。
「暁、港に出よう!あそこには、戻ってはいけない気がする」
「うん」
暁もこくりと頷いた。ものすごい風だ。踏ん張っていなければ押し返されてしまいそうだ。
一歩、また一歩、着実に歩を進める。
足元を確かめながら。雨風に抗いながら。少女の手を握りながら。
瞬間、玄い奔流が、僕たちを押し戻す勢いで眼下より流れ込んだ。まるで、生者には渡れぬ冥途の激流のように。あるいは、逢瀬を引き裂く大河のように。
「凪……」
「暁!」
絶対に離すもんか。少女の身体を、強く抱き寄せた。
水流の勢いは収まらず、ついにはそれに飲み込まれ、呼吸さえ出来なくなる。
地面より足が浮き、やがて水流にとられて上下の感覚すら分からなくなる。
ただ、どんなに強い流れでも、抱きしめる先の少女をいかなる者にも渡す気は毛頭なかった。
しかしその力は残酷で、ついには少女を抱き寄せる力すら失いかける。
直後、僕らを暖かな感覚が包み込んだ。いつか見た異質な妖光とは違う、暖かい赤光だった。
恒星のごとく輝いた紅い光は激流を灼き、あたりは暖かな霧に包まれた。
「タキリヒメ……」
思わず口に出す。僕たちを守ってくれた者の正体が分からないほど、愚かではなかった。
「また名前呼んでくれたね、嬉しいな」
霧の中で響く声は、ゆらゆらと揺れるおぼろげな姿。
刹那の時を経て、それはやがて少女の姿へと昇華した。
紅く輝く美しい髪と、宝石のような瞳。
この少女の姿こそ、暁の肉体への憑依ではなく、実体として顕現したタキリヒメだった。
「タキリ……ヒメ?」
暁はその少女を見つめ、小さく呟いた。タキリヒメは暁を見つめると、目を細めてふふっと笑った。
「やっと会えたね、暁ちゃん」
「タキリヒメ、ほんに、ほんまに沖津宮の神様?」
「うん。暁ちゃんがずっと私のこと想ってくれていたの、知ってたよ」
暁の問いかけに、タキリヒメはまた穏やかに微笑んだ。
「一度死んだ暁ちゃんを黄泉返らせたこと、それから凪くんに至っては二度目の黄泉返り。
黄泉の神様、カンカンに怒っちゃってさ」
タキリヒメは後ろ手に組んだ指先を弄びながら、どこか他人事のように嘆いた。
「だから私はしばらく黄泉で反省するの。勝手なことしてごめんなさいって、それはもう気が遠くなるほど働かされるんだって」
タキリヒメは儚げに、それでいてどこか楽しそうに呟いた。
「でも仕事の仕方は凪くんが教えてくれたから、きっとばっちり!」
僕たちを包む霧の壁は激流に押し戻され、わずかにその空間を狭めた。
「もー、容赦ないなあ、黄泉の神様」
頭上を見上げ、その少女はが虚空へ文句をつけた。
「久々の現し世、楽しかったなあ。本当は暁ちゃんとも友達になって、もっとたくさん話したかった」
「友達……」
もじもじと暁が呟く。
そんな暁にタキリヒメは一度ぎゅっと抱きつくと、「手を出して」と促した。
言われるままに両手を差し出す暁の手のひらに、タキリヒメはその美しく紅い髪をぷつりと解いて載せてみせる。紅い一本の髪はたちまち纏まって、紅く小さな石となって輝いた。
手のひらに紅く輝く宝石は六条の光を放って輝き、それを見つめる暁の瞳を輝かせた。
「それから凪くん」
タキリヒメは、今度は僕の方を向いた。それから僕の胸元にぎゅっと一度抱きついて、
「大好き。片想いだったよね。買ってくれたペンダント、すごく嬉しかった」
タキリヒメは僕に微笑みかけ、「凪くんに持っておいて欲しい」とあの時買った人工石のペンダントを、今度は僕の胸元につけて笑った。
「えへへ、ちょっとずるいけど、これでお返し、出来たかな」
タキリヒメは笑う。その儚い表情に居ても立っても居られなくなる。
思わずもう一度、彼女を抱きしめていた。暁の体ではない、タキリヒメの体を。
「うん、やっぱり凪くんのほうがずるいな」
目元より一筋を走らせたタキリヒメは、まるで赤子のように声を上げて泣いた。
「また会おうね、約束だよ」
最後に暁ともう一度抱き合ったタキリヒメはそう言い残し、きらきらと輝く霧となって消えていった。
胸に手を当て、居なくなった彼女の確かな感覚を確かめる。
僕らを飲み込む激流も雷雨もすっかりとなくなり、日は没して空はすっかり暗くなっていた。
見下ろす海に浮かぶ船が架ける光の橋が、水平線の先まで続いていた。
「綺麗だね、暁」
「うん、綺麗」
もう一度、暁の方を見て笑う。言葉を返す彼女の声が、たまらなく好きだった。
「なあ、凪」
「なに?暁」
暁は僕の方を向いて、ぎゅっと抱きついてきた。
「もうちょっとだけ、こうしていたか」
「うん、もうちょっとだけ、こうしていようか」
耳元で呟く声に、同じように耳元で応えた。
夏の夜空を、あまねく星が輝いている。
深く青い夜空。さそり座の一等星が、大三角の傍らでひときわ赤く輝いていた。




