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帰宅難民

作者: 標準的な♂

 今年の猛暑は特に酷く、日中はとても外など歩けたものではありません。四〇度にも迫ろうかという気温もさることながら、日本の夏特有のじめじめした湿気は、頬を撫でる風が本来持つ心地良ささえも、損ねるに十分でした。

 元々、わたしはあまり夏が好きではありません。今年の夏は特に暑いなどとは先に申し上げましたが、これは大体、わたしに限らず、皆が毎年言っていることですから、これにはいくらかの同意が得られることかと思います。次に、この季節と来ると、暑さに頭をやられたのか、少々浮ついた方が多いように見受けられます。特に、ビーチで焼いた肌を自慢気に見せつけているような方々などは、それができぬ身の上の者が居るなどとは露ほども思っていないことは明白であり、ああいう夏特有の軽薄な方々は、わたしが最も嫌う人種の一つです――他にも夏が嫌いな理由はありますが、これを申し上げるとキリが無いので、今日はここまでとしておきましょう。

 さて、世間はお盆休みです。皆がそうであるとは限りませんが、休暇をとって遠方の実家へと帰省する方も多いことと存じます。言い伝えでは、お盆というのは、死者があの世から帰ってくる日だとか。鬼籍に入られた方のお墓参りをするのも、この期間に行うのが通例です。皆様に置きましては、もうお済ませでしょうか?

 時刻はようやく日が沈んだ頃ではありますが、この時間帯の空気には、まだ昼の日差しの名残があり、夜風も不快な湿気を多分に含んでいます。すっかり暗くなった墓地には、その人を寄せ付けぬ不気味な雰囲気もあってか、既に人影は殆どありません。そして今はお盆期間ですから、わたしもそろそろ実家に帰らないといけません。

 わたしの実家は、この共同墓地からそう遠くないところにあり、電車で一時間もかかりません。日の長い夏にあって、日が沈みきるような時間帯というのは、夕食には少々遅く、間食などをしていないのであれば、普通は相応にお腹が空いている頃でしょう。帰りの電車の中の物産展の広告、駅前の飲食店から漂う料理の匂い、実家のすぐ近くのコンビニの新商品の登り――お腹を空かせたわたしにとって、ひどく誘惑の多い道のりでした。しかし、わたしは実家での温かい食事を楽しみにしておりすし、また古人曰く、空腹こそ最上のソースと申しますから、ここはぐっと我慢します。


 実家は駅から十分ほどの距離で、長年慣れ親しんだ我が家に着いたのは、時刻はおよそ九時を少し回った頃でした。わたしは「服部」の表札の前に立ち、インターホンを執拗に連打します。もうお腹もペコペコで、一刻も早く温かみのある家庭料理を食べたいという気持ちが良識に勝り、つい不作法をしてしまいました。

「はーい」

 受話器を取ったのはお母様のようでした。時刻は夜九時を回ったくらいですから、明日のお父様のお仕事のスケジュール次第では、もうお休みになられていることすらあるくらいです。そんな時間の不意の訪問を歓迎する人は稀でしょう。実際、今から就寝するところだったようで、あからさまな不機嫌が伺えます。

「恵理子でーす! ただいまー!」

 インターホン越しでもわかるように、わたしは努めて明るく振る舞いました。可愛い一人娘が帰ってきて元気な姿を見せるのですから、夜遅くのアポ無しの訪問から来る悪印象は、きっと補って余りあるものでしょう。

「……」

 ですが無言の後、乱暴に受話器を下ろす音が聞こえました。短いやり取りですが、明確な拒絶の意図を見て取れます。

 自分で言うのも何ですが、わたしは育ちも行儀も良いので、たとえ慣れ親しんだ我が家であろうとも、招かれていない家に勝手に入るほどの不作法はできません。

 家に入れてくれないものは仕方ないので、今日は最寄りのコンビニに寄って、何か夕食になりそうなものを調達することにします。

「いらっしゃいませー」

 コンビニの自動扉が開き、中年の店員さんの出迎える声を確認してから、わたしは店内に入ります。何か良いものはないかと店内を見回しましたが、空腹にも関わらず、あまり食欲をそそるものがありませんでした。

「へへ……」

 次の店へと向かおうと思った矢先、恐そうなお兄さんたちが駐車場で屯していて、こちらに不躾な視線を向けているのが見えました。しょうがないので、彼らを食事に誘い、今夜は自棄食いへと洒落込むことにしました。とはいえ、今宵のディナーは、洗練されたフランス料理や、格式高い京料理、刺激の強い高級中華などとは違い、さしずめジャンクフードでありましたから、どれもあまり味は良くありませんでした。


 翌日の夜、わたしは昨日と同じように電車に乗って実家へと向かいました。二度もあてが外れたとあっては、明日こそはと思うのが人情というものでしょう。丁度、駅前に塾帰りの女子中学生が居たので、わたしは彼女を人気のない路地裏に誘い、しかる後に軽食をとりました。熟しきっていない果実にも似た味わいは、昨日の夕食よりはいくらか良く、傷心の埋め合わせとしては悪くはありませんでした。

 再び「服部」の表札が書かれた門の前に立ちますが、しかしながら、昨日と同じことをしたところで、結果は変わらないことは明白です。すぐにインターホンを押す手を、まずは引っ込め、何か良い手はないかと思案します。

「ちわーす、宅配便でーす」

 宅配便を装って家へ入れてもらおうというのは、いささかベタな作戦ですが、昨日のように正面から行くよりかは、まだ勝ち目があるはずです。

「……ちょっと待ってください」

 すると昨日と違って、今度はお父様がインターホン越しに応じました。しかし、なかなか「入っていい」という言質がとれず、しかも、待てども待てども出てきません。わたしがせっかちなだけかもしれませんが、インターホン越しの返事を聞いてから、二分以上待っている気がします。でも実際、最近物騒ですからね。確かに、こういう警戒心は大事だと思います。

 もうしばらく待つと、二回の窓のカーテンが少し開くのが見えました。お父様の姿を確認したわたしは、満面の笑みとピースサインをもって応じました。するとお父様は、勢いよくカーテンを閉めました。

「開けてー、開けてー」

 こうなると、わたしも意地でした。わたしはインターホンのボタンを連打しました。開けてくれるか、夜が明けるまで続けるつもりです。今夜は寝かせるつもりはありません。

 大体三分くらい連打を続けたところ、インターホン越しに怒声が聞こえました。

「いい加減にしろ! 恵理子はもう居ない!」

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― 新着の感想 ―
[良い点] 描写を明後日の方向にして主人公を勘違いさせる叙述トリックによる、帰り道に人を食らう話ですか。 伏線が沢山あったので直ぐに「日光に弱い」「墓から出てきた何か」とは分かりましたが、人を食らう描…
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