第7話 新しい世界
「ギル様、ここを見て下さいませ。これは何ですか?」
夫婦の寝室にて、ギルバートが座るソファからは少し離れた壁に掛けられた、小さな絵画の一部をステラが指差す。
「なんだいステラ? うーん……黄色いのはわかるぞ。虎かな?」
ギルバートがいつにも増して眉根に皺を寄せ、目を細めながら答える。
傍から見れば、かなり機嫌が悪く映るだろう。
「向日葵です」
「……」
「ギル様、思っていたよりも目が悪いですね。
よくそれで普段の生活ができていました。
目つきが悪いのもそのせいかと」
「そうなのか。皆、こんなものなのかと思っていた」
「ガラス工房の炉が完成したと報告がありました。
試運転も問題なかったとのことです。
ギル様の眼鏡を作りたいのですが、どうでしょうか?」
「眼鏡? ああ、あの拡大鏡を顔に二つ付けるやつか。
王城の文官が使っているのを見たことがある。
両手が空くのはいい。紙の上の文字や数字を追うのにも便利なのだろうが、けどなぁ……うーん」
ギルバートが困り顔をした。
うんうんとしばらく唸った後、話を続ける。
「ステラ、俺は今は領主だけれど元は軍人だ。
領でなにかあれば剣を持って馬で向かわなくてはいけない。
そんな時にあれはずれて邪魔だ。
戦闘などでは外すとしても、いつもと見え方が違うのでは障りがある」
なるほどなとステラは思った。
他国から入ってきて日が浅い眼鏡はまだこの国に根付いてはいないが、高給取りの文官など一部の事務方が使い始めている。
使っている者たちからの評判はよく、時間と共にさらに広まっていくだろう。
体を資本とする武官たちに人気がないのは、ギルバートが言ったあたりが原因なのだ。
「貴重なご意見をありがとうございます。
ですが、ずれるかどうかは誂え次第です。
激しく動いてもずれないよう工夫いたしますわ。
もしくは最新型として、眼鏡ではなく、目に直接レンズを入れるものもございます」
「目に直接入れる……それは怖いから嫌だ」
ギルバートが心底嫌そうに渋面をする。
「まあ、ギル様は大きいのに怖がりなのですね。お可愛いですわ。
眼鏡でいいので一度お試し下さいませ」
ステラがギルバートの頭を胸に抱き、甘やかすように囁く。
「あ、ああ……ステラがそう言うのなら」
ギルバートは柔らかな感触にデレデレと緩んだ声で答えた。
数日後、鞄にたくさんのレンズを抱えた職人がやってきて、ギルバートは目の検査をされた。
近視がどうとか乱視がどうとか色々と説明されたが、理解できなかったギルバートは曖昧に頷きながら窓の外の雲を眺めた。
その後、次々に変えられるレンズ越しに、壁に掛けた検査表の文字だの欠けた輪だのを延々と答え続けた。
それからしばらくして、完成したギルバートの眼鏡が送られてきた。
普通は既製のレンズの中から使用者に合うものを選んでもらうが、今回はギルバート専用の一点物。
現時点での最高峰である、ほぼ無色透明の四角いレンズ。
フレームは漆黒の黒檀でできており、耳にかけるつるの側面には繊細な蔦の意匠が彫られている。
つるの先端は左右で非対称になっており、片耳の上部が欠けているギルバートにぴったりと沿うよう調整されていた。
ステラに促され、初めて眼鏡をかけたギルバートが息を呑む。
当たり前だと見ていた世界が、いかにぼんやりしていたかを思い知らされた。
子供のころにどう見えていたかは覚えていないが、少しずつぼやけていく視界に気づかなかったのだろう。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「青い花、雲、黄色い花……向日葵、裸の女……裸婦」
「全部正解です」
「はっきり見えるぞ!」
前と同じように寝室の絵を指差すステラの問いに全て正解したギルバートが、嬉しそうに眼鏡をクイッとする。
ギルバートのくすんだ金髪と灰色の目を、黒い眼鏡が差し色となって引き締めている。
眉間の皺はすっきりとなくなり、涼しげな目元にステラも嬉しくなった。
「それはようございました。とてもよくお似合いです。
普段はそれで問題ないと思いますが、荒事の際はこちらをお使い下さい。
頭の後ろでしっかり結べば激しい動きでもずれません」
ギルバートは渡された紐状の付属品を眼鏡に取り付け頭の後ろで結ぶ。
しばらく頭を激しく振ったり横に跳んだりした後、窓から飛び出していった。
「寝室は二階なのですが……」
ステラは思わず半眼で呟いた。
三十分ほどで戻ってきたギルバートは、興奮を隠しきれない様子だった。
ははっと笑ってステラの腰を引き寄せる。
「練兵場で試してきた。
うん、これなら誰にも負ける気がしない」
「それはようございました」
「ステラのおかげだ。今なら近衛騎士団の連中にだって勝てるぞ。
俺に新しい世界を見せてくれてありがとう」
ギルバートがステラを抱いた手にさらに力を込める。
「ギル様、ちょっと強いです。落ち着いて下さいませ」
「ステラの顔もこれまでよりよく見える。やはり俺の妻はかわいいな! 肌などまるで透けるようだ!」
ギルバートが一層腰を引き寄せ、ステラの頬にキスをする。
「ギル様、強いです。どうか落ち着いて下さいませ」
「オレ猛る」
「ギル様ー」
翌日、ステラは訪問客の予定を体調不良で中止することになった。