#1 交差点
電車から降りた。逃げるように降りた。人の声、電光掲示板の音、何もかもが敵のようだ。呼吸の苦しさは、ごまかせない。トイレにかけこもうとしたが、間に合わなかった。息が吸えない。だから、大きく吸おうとする。でも、吸えないから苦しいの繰り返し。人が通っていく。私が倒れても、世界は止まらない。誰も振り返らず、私を置いていく。止まってほしいわけではないけど、さみしさが襲う。涙が出る一歩手前で、その人は現れた。しゃがみこんで私に右手の人差し指を振る女性。不思議そうに覗き込むその目に濁りはない。すぐに、同じ年くらいの女性がやってきた。
「すみません。この人、耳が聞こえないんです。なにか失礼なことをしたなら、ごめんなさい。というより、大丈夫ですか?座り込んで…。」
いつの間にか息は落ち着いていた。「大丈夫です。心配かけてごめんなさい。ちょっと気分が悪かっただけです。」
「なら、良かったです。気をつけてくださいね。よし、行こう。」
女性はその聞こえない女性の手を引こうとした。すると、その人は私に向かって、物凄い勢いでジェスチャーをした。何を訴えたいのか全く分からない。ただ、その顔には怒りがこもっている気がした。すぐさま隣の女性がジェスチャーをする。私は2人の会話が気になって言った。
「何を話しているのか教えていただいてもよろしいですか。」
女性は戸惑いの表情を見せたが、こう言った。
「あなたが嘘をついているって。大丈夫じゃないはずと言っているんです。私は後から来たので分からないのですが、彼女が今、あなたを放っておけないと言うんです。」
何で、分かったのか。一瞬、ぞっとした気持ちと安心した気持ちで複雑になった。また、彼女はジェスチャーを始めた。
「お茶を奢るので、良ければお話しませんか、と言ってます。嫌だったら、全然断ってもらって構いません。この子すぐに変なこと言うから…。」
「良いですよ。」
口からすっと出てきた言葉に一番驚いたのは僕だろう。
駅前のカフェまでの道は遠いようで短く、静かだった。席について、おもむろに言葉が溢れてきた。
「聴覚過敏なんですよ、僕。音が鮮明に聞こえるというか、尖って聞こえるというか。とにかくそれが苦痛なんです。今日もそれがつらくて過呼吸になってたんです。薬も飲んではいるけどね。」
苦笑交じりに言ったが心は重かった。隣で必死にジェスチャーをして伝えている。今更だが、これが手話だと気づいた。彼女は驚いた顔で私を見つめ、きらきらした顔で僕に手話をした。
「聞こえる世界なのに、悩みがあるの?色んなことがはっきり聞こえるって羨ましい。と彼女は言ってます。」
僕の中で何かの糸が切れた。思わず口を開いてしまった。
「あなたには分からないでしょ。聞こえすぎる世界が毎日どれほど苦痛か。普通の人でさえも分からないのに、聞こえないあなたには分からないはずだ。」
強く、黒い言葉だ。言ったあとに気づいた。とんでもないことを言っていると。でも、彼女は訳された言葉を噛み締めて、それでもなお訴えてくる。
「あなたの気持ちは理解できない。でもそれはあなたも同じはず。私の気持ちは理解できない。当然よ、人はどうやっても他人だから。」
彼女の言葉は重かった。続けて彼女は言った。
「でもあなたの気持ちに土足で踏み込んでしまったならごめんなさい。聞こえる世界に憧れがあったの。私はただ、鳥のさえずりで目覚める朝に憧れただけ。」
言葉が出てこなかった。そのとき初めて気づいた。悲劇のヒロインぶって、惨めな人をアピールしているのは僕なんだと。訳していた彼女が急に話し始めた。
「彼女は生まれたときから耳が聞こえないんです。耳が聞こえない人の中で手話を話す人って少ないんですよ。でも彼女は手話を好んで話します。彼女曰く、手話は自分の思いを素直に届けられるものなんだそうですよ。あなたや私は口で物事が言えるのに、どうしてまっすぐな言葉が言えないんだろうっていつも彼女と話していると思います。あなたは自分の気持ちに蓋をしていませんか。口で伝えられる言葉を盾として使っていませんか。」
もはや、怖いまでの領域だ。言葉を失った私に彼女は言った。
「自己紹介していなかったですよね。彼女はひなの。私はふゆかです。あなたのお名前は?。」
「僕の名前はあずさです。」
「かっこいい名前ですね。あずささん。」
「私は女性なんですけどね。」
慌てるふゆかさんに大丈夫ですと言い、さらに続けた。
「性別が日によって違うんです。女の子になりたい日もあれば男の子になりたい日もあって。変ですよね。」
笑う僕にふゆかさんは真剣な目で言った。
「変じゃないですよ。むしろ人生2倍得していますよ。」
心がすっとした。わだかまりが消えた気分だ。インスタグラムを交換し、解散したあとも澄み切った心は続いた。