大学生
医者という仕事をしていると、時々、尊敬せずにはいられないような人と出会います。二十年以上お付き合いしたことになるでしょうか、仮に松山さんとしますが、彼もその一人です。
松原さんとは月に一度、病院で会うだけの間柄でしたから、事細かに彼の生活を知っているというわけではありません。しかし、何せ付き合いも長いですから、診察のたびに色々とお話をするんですよ。私の勤めているのは小さな町の診療所で、顔見知りのお年寄りばかりいるようなところでしたから、のんびりしたものです。
それで、その松山さんですが、初めてお会いしたときなどはひどく不愛想で、挨拶もせず、どうも食欲が出ないものだから、いい薬はないかというような調子でした。
その頃は私も新人に毛が生えたようなもので、面食らったし、率直に言って不快でもありました。しかし仕事は仕事ですから、ひとまず色々と問診やできる限りの検査をして、一応大きな病院への紹介状も書きましたが、まあ、それだけです。ともかく松山さんは初め、毎月薬のために来院して、年に一度は総合病院でちゃんとした検査を受けに行くという、それだけの患者さんでした。
それが、大体七、八年した頃でしょうか、松山さんはちょうど定年退職してしばらく経っていたのですが、突然、先生は大学でどんな勉強をしたのかと聞いてきたんです。私は、そりゃあ医師になるための勉強をしたんだと答えました。
ところが松山さんはそれで満足しなかったようで、医師になるための勉強とはどんな具合かとさらに訊ねるのです。私は怪訝に思いながらも、いろんな病気のことを覚えたり、実習に行ったりといった具合のことをごく簡単に話しました。すると松山さんはいやに素直な様子で、そりゃあ大変だ、俺は先生のこと尊敬するよと言い出しました。
何か月かに渡って聞いた話を総括すると、どうも彼は、いわゆる学びなおしというものを始めたらしいのです。
松山さんはずっと、その町の工場で働いていました。高校も入ったはいいが出ていないんだ、ということは、私も以前から聞いていましたが、実のところ彼は、それなりの家柄の出だったようです。
松山さんは私の二回りほど上の世代で、いわゆる受験戦争というのが大変だった頃です。彼の両親は学もあれば、息子にきちんと勉強させたいという思いも強かったようで、子供のころからそれは厳しく勉強をさせたということでした。しかし、受験戦争といっても、小学生ぐらいの子供にたくさん勉強させるというのはやはり一般的でなかったようで、松山さんは友達が無邪気に遊んでいるのを見ては、どんどん勉強が嫌いになっていったそうです。
家で勉強させられる反動で、中学や高校では非行に走り、そういった連絡が親に行くと、また一層厳しく勉強させられ、といった具合で、とうとう彼は家を飛び出して、そのまま工場の親方に拾ってもらったようです。それ以降、松山さんは年がら年中仕事に打ち込み、それなりのお金と地位も得て、その代わりに少しずつ、体を壊していきました。それであるときから、この診療所に通い始めたんです。
そのうち定年になった松山さんは、これという趣味もなく、すっかり生きがいを失ってしまいました。しかしある日、行きつけの定食屋で、働きながら大学を出たという人の話を聞きます。初めのうちはむしろ「学のある」その人を小馬鹿にすらしていた彼でしたが、その人が経済のことを勉強したおかげで、自分の仕事が社会にどう役立っているのか分かったのだと話すと、こと仕事に関しては熱心な彼でしたから、少しばかり興味を持ったようです。
途中まで高校に行っていたのと、子供時代で勉強の基礎ができていたのでしょう、仕事がなくなった時間に勉強するようにしたら、一度の試験で高卒認定資格を取れたそうです。松山さんが私に大学のことを聞いたのは、認定試験を控えた頃だったと後から聞きました。
彼がすごいのは、通信制の大学に行きたいからといって、パソコンのことも自分で調べて使えるようになった、というところです。そのうち無事に大学に入った松山さんは、毎日決まった時間にパソコンを立ち上げて、勉強するようになりました。
彼が言うには、何かを学ぶということがこんなに楽しいことだとは知らなかったと。かつての自分にとって、勉強というのは誰かに強制されてするもので、罰のようなものだった。だが本来、新しいことが身についていくという過程は、楽しいものだ。この年になって、新しいことが分かるようになるとは思っていなかったが、むしろ今まで俺は、世の中のことをこれほどまでに知らなかった。
知識を得るということは、今まで何とも思っていなかった色々な、雑多なことが、欠けていた部品を介して次々に繋ぎ合わされて、正しい場所に収まっていくようなものだ。今になって、取引会社の役員やら、役所の窓口係やら、政治家やら、なにを考えているんだか分からなかった大勢の人のことが、少しずつ分かってきたような気さえする。勉強なんかできなくたって生きていくことはできると思っていたが、そんなのはごまかしだ。先生は、早くに勉強の大事なことに気付いて、若いうちから頑張ったんだから、偉いものだ、と言うわけです。
私はそんな真っ当なことを考えていたわけではなくて、ただ医者になったらいい暮らしができるだろうと思って、その上たまたま学校の勉強ができたものだから、大学に通っていただけでした。興味のない科目はどうやってサボるかということばかり考えていましたし、難しい科目はどうやって試験を乗り切ろうかということで頭がいっぱいでした。ですから私は、六十歳も過ぎて、病気もあって、それでも非常に真剣に学問をしている、もっと言えば、自分の成長ということに努めている松山さんは、非常に尊敬すべき人だと思われたわけです。
さて、そんな松山さんですが、それからいくらもしないうちに、毎月の簡単な検査の数字が悪くなりはじめました。
半年ほどは薬でごまかしていたものの、いよいよきちんとした治療をしたほうがよいだろうとなって、私はとうとう、ここではなく総合病院の方に通うよう勧めました。松山さんは、戸惑ったような顔をして、それではもうここには来られないのかと言います。独り身の松山さんにとって、私は気づかないうちに、貴重な話し相手になっていたようです。どうしてもというときは来てもいいからと、私は彼をなだめすかしました。そして、ふと思い立って、彼にメールアドレスを教えておきました。
ほどなくして、松山さんからのメールが届きました。数日かかったところを見ると、あまり詳しくなかったのを、また自分で調べて何とか送信したんでしょう。来週総合病院に行ってみるとありました。彼はメールが使えるようになったのが嬉しかったのか、翌日、翌々日と、大学の課程がどこまで進んだとか、そういったことを送ってきました。
来週になって届いたその次のメールは、あまり愛想のあるほうではない松山さんには珍しく、長い文章でした。検査をしたところ、入院を提案されたとのことで、これこれこういう検査結果だが、本当に入院しなければならないだろうかといったことを切々と相談されました。
私は容態の思わしくないことに気付いていたからこそ、もっと早くに大病院へ行かせるべきだったと後悔しました。精密検査の結果や入院の予定を見ても、たちまち命に関わるという具合ではなさそうでしたが、大事をとって、言われたとおりにする方がいいだろうと返信しました。
同じ日のうちに松山さんからまたメールがあって、今度は、折角大学の勉強も慣れてきたのに、家のパソコンは大きくて病院へ持っていけないから、これでは入院している間勉強ができない、というような内容です。私はそのとき、一週間かそこらの話だから仕方ない、しっかり体を休ませて、体調が落ち着いたら取り返せばいいと返信しました。
ですが予定していた一週間が過ぎても、松山さんは具合が良いと言えるほどには回復しませんでした。一旦帰宅してきたらしいタイミングで、また来週あたりにすぐ病院に行って検査をして、そこでも数値が良くなかったら再入院しなくてはならないかもしれない、というメールが届きましたが、文面を見ても、あれほど生き生きしていた松山さんが、すっかり気弱になっていました。今まで自分の体のことを顧みなかったつけが回ってきたようです、今までだって大した人間ではありませんでしたが、こんなに薬をたくさん飲んで、それでも間に合わずに入院を繰り返すだなんていうのは、とても真っ当な人間だとは言われません、先生私はこのまま何にもできずに死ぬのでしょうか。私はこのとき、医者としてふさわしくないことをお返事しました。ちゃんと治療すれば絶対に良くなりますからと。このとき私は自分の医師免許を、嘘をそれらしくするために使ったのです。松山さんの病は、進行を遅らせることや症状を緩和することはできても、完治して元通りにするということは、現代医学ではできないようなものでした。
彼は結局、再び入院しました。私はもはや松山さんを助ける手立てもなければ、その立場にもいないということを理解していながら、やきもきせずにはいられませんでした。今度の入院は十日ほどになると、松山さんの入院日前日のメールにはありました。
それが、たったの五日で新しいメールが来たものですから、私はすっかりたまげてしまいました。差出人だけ見て、一体どうして松山さんは帰宅することになったのか、あれこれ不安に思いながらメールを開くと、ずらっと長い文章です。
まずいきなり、入院先でベッドが隣になったという男性の話から始まっています。すっかり意気消沈していた松山さんが見たのは、その人が病室で華麗にノートパソコンを操る姿だったと。その人は松山さんよりは若くて働いていたため、会社に迷惑をかけないように色々とすることがあるのだと、松山さんに話したそうです。彼が興味を示すと、その人は色々と事情を聞いて、うちにほとんど使っていないタブレットがあるから貸してあげようと言い出しました。それで、その人の見舞いに来た奥さんにタブレットを持ってきてもらって、メールの使い方やら、通信制大学の講義の見方やらを教えてくれたのだ、という話でした。ですから彼は帰宅したというわけではなくて、病室からメールを送ってきていたのです。
幸い松山さんはパソコンの勉強をきちんとしていましたから、習得も速かったのでしょう。彼があまり嬉しそうに、検査も治療もない時間には延々講義を聞いているものですから、初めはタブレットを貸すだけのつもりだった男性も、大事に使ってくれる持ち主の方がこいつも嬉しいだろうと、とうとう譲ってしまうことにしたそうです。
その後も松山さんは、入退院を繰り返しました。数か月何とも言われないときもあれば、ずるずると入院期間が延びて、二週間以上になることもありました。もとより完治が難しい病気ですから、症状を見ながら後手後手で対応するしかないのです。
しかしそれでも、彼から届くメールは、あれ以来ずっと明るいものばかりでした。
最初の入院から半年たつかたたないかという頃でしょうか、彼からとうとう進級できた、これで晴れて大学二年生だと連絡がありました。その頃には、病室でいつも熱心に勉強している老人がいると、彼はすっかり評判でした。私が松山さんを診ていたとは知らない、ただの医師仲間から噂を聞いたほどですから、相当なものです。新聞の取材も来たが断ってしまったと、いつだったかメールに書かれていました。大学のための時間を取られるのが嫌だったようです。
彼はあのとき、自分が治らない病気だということも承知していましたし、もっと言えば、このまま容態が悪くなれば、自分の命がどうなるかも分からないのだと理解していたはずです。彼の残りの人生において、大学の勉強が直接何かの役に立つということはありえなかった。それでも松山さんは、楽しいからという、ただその理由のみにおいて、学び続けたのです。私はなんだか、勉強というものの真髄を見たような気がしました。そして、もし自分が死ぬとなったら、ああいった姿勢で最期を待ちたいと心底思いました。
お題:勉強×純朴
毎週日曜日に習作を投稿しています。




