第56話 ホワイトデーの約束
それは、バレンタインデーにチョコレートを貰った者がお返しを贈る日。限定的な強制イベントである。
高層マンションの前で深く呼吸をしてチャイムを鳴らすと久々に聞く彼女の声が応えてくれた。
オートロックの扉が開き、エレベーターに乗り込んでボタンを押す。
自宅のチャイムを鳴らす直前に扉が開いて、ニヤリと彼女は笑った。
「そろそろ来る頃だと思っていた。今年の本命チョコはいくつだった?」
昨年の春、シンがシエルカードの件で彼女を訪ねるまでは二人の交流は年に一回だった。その一回というのがホワイトデーの直前である。
シンはお返しの品を彼女と共に選ぶ事を毎年の恒例行事としていた。
「毎年、本命チョコを貰ってるような言い方すんなよ」
「……いつか刺される日が来るかもしれないから気をつける事だ」
なんでだよ、と苦笑いを零すシンを呆れ顔で眺める彼女は椅子に座り直し、マグカップに口をつける。
そしてシンが話しやすい雰囲気を作り上げた。
「凪姉、約束の物だ」
普段は持ち歩かないデッキケースを開き、中から三枚のカードを取り出して彼女に差し出す。
純白黒尾の兎が描かれたカード、角と翼の生えた兎が描かれたカード、開いた花弁の上に立つ妖艶な女性の背後に兎のような獣の影が描かれたカード。
彼女は三枚のカードを受け取り満足そうに微笑むと、一転して曇った表情でそれらを返した。
「私が"戦う理由"を与えたからシンを傷付けてしまった。すまない」
「謝るなよ。実際に楽しかったし、もうシエルカードゲームに関わらないから」
――違うんだ、シン。お前は分かっていない。お前は選ばれたんだ。だからこのゲームを降りる事は出来ない。
伝えたくても伝えられない言葉達は彼女の胸の内から溢れ出そうになるがそれらを必死に留めた。
「よくやった、ありがとう。良いカード達だ」
シンは彼女との約束だけは絶対に守ってきた。
だから今日は約束を果たしに来たと同時に次の約束をする為に来たのだ。
「俺は凪姉と同じ弁護士を目指すよ」
――あぁ。また、一つ約束を交わしてしまうのか。
一生懸命、勉強をしているのだろう。そんな彼の姿は容易に想像出来てしまう。
何故、彼が弁護士を目指すのかは分からないが、それが彼の夢であり目標であるのなら見守ってやるのが姉としての役目だろう。
「そうか。応援しているよ」
「一緒に働けるかな」
「なんだ、私と一緒に居る為に将来の職を選ぶのか? 相変わらず可愛い奴だな」
彼女は嬉しくもあり、悲しくもある絶妙な面持ちだったが、顔を伏せていたシンは彼女がどんな表情をしていたのか知らない。
約束通り、日を改めて二人きりでホワイトデーのお返しを買いに行き、マンションの前で別れる。
次に会えるのは来年のホワイトデーだろうか。それとも、また会いに来てくれるだろうか。
もしも、ホワイトデーよりも前にこの家を訪れるのならば、彼は自らの意思で戦いに挑む時だろう。
「その時はあの子のやりたいように協力してやれ」と父から言われている。
もしも、シンが負けそうになったらこのカードを渡そう。
願わくばその日が来ないで欲しい。そんな淡い願望を胸に潜め、弟の後ろ姿を見送った。
彼女の名は鷺ノ宮 夕凪。
【色欲の魔兎】の"裏面"を預かる者である。
無事に亜梨乃へお返を渡したシンは麻々乃にも同じ物を贈った。
怪訝な顔で見つめる麻々乃を気にせず、笑顔で差し出すシンに悪意はない。
チョコレートをくれたとは言え、姉にだけプレゼントを渡して妹を手ぶらで返す訳にはいかないという心遣いだったのだが、それは麻々乃にとってありがたくも余計なお節介だった。
かと言って受け取らない訳にもいかず、麻々乃はそれを受け取り、気まずそうに亜梨乃を横目で見ながらシンに礼を述べた。
彼女にとってもシンからの贈り物は嬉しいがタイミングが悪過ぎる。
「相変わらず」
「は? なんだって?」
「別に」
こうして、ホワイトデーは幕を閉じた。
麻々乃がシンからの贈り物を大切に抱きながら帰宅した事を知っているのは亜梨乃だけだ。




