9話 オフィスにて
ぼんやりとした映像が流れている。
——これは記憶か。
数百年も生きていると、何がいつ起こったのか、もはや分からなくなる。遠い昔のことは特にそうだ。
顔のない女性がいる。思い出せない。けれど、見上げている自分は子供だ。もしかしたら母親かもしれない。顔は見えないが、優しい表情をしているのはわかる。声も聞こえないが、愛おしむように自分の名を呼んでいるのがわかる。
穏やかな気持ちになった次の瞬間、その女性が力なく倒れている映像に切り替わる。
……女性は死んでいた。それを見ている自分の目線は少し高く、呆然として何の感情も有していなかった。
悲しみが湧き上がって来ようとした時、また映像が切り替わる。
今度は若い女だった。また、顔がない。ただ、彼女を見ている自分はとても幸せだった。彼女も、自分に屈託無く微笑みかけ、楽しげに話してくる。もちろん、音声はない。
ずっと、この人と一緒にいたいと思った。
そして、また切り替わり、静かに横たわる老いた女性が映る。彼女の棺の横で腰掛けているのは、年の変わらない自分。彼女は寿命を全うしてこの世を去った。
——ああ、またか。
幾度となく経験したことのある喪失感を再び覚えて、さらに別の映像に変わる。
今度は、怒りのうちにあった。
目の前にいるのは知らない男。顔も声ももちろんない。だが、そいつを自分は憎んでいる。そしてその時、殺そうとしていた。恐ろしく湧き上がる怒りのうちに、相手はどんどん痩せ細り干からびていく。
相手の中にあった命がもはや全て失せようとした瞬間——胸に激痛が走った。
辺りは真っ暗になっていた。真っ暗闇のなかで、胸を貫かれたような痛みに耐えていた。
気を失いそうになり、また映像が切り替わった。
今度ははっきりしていた。
温かな明るみの中、隣に彼女はいた。顔は見なかった。……が、知っている。まだあどけなさが残る少女。彼女は自分の手を握りしめていた。その子に抱く感情は、何のことはない。ただの保護対象というだけだ。
——この子を守ろう。
なんとなくそう思った。
……突然、咳が止まらなくなった。臓物を滅茶苦茶に掻き回されるような痛みに襲われる。思わず腹を押さえて蹲ると、咳き込んだ拍子に、青く光るガラスの破片のようなものが次々と吐き出されてきた。大量に込み上げてくるそれを大方出し切ってしまうと、痛みも咳も治まった。
肩で息をしながら、疑念と安堵のうちに自分のなかから出てきた破片の山を見る。辺りはいつの間にか、また暗闇になっていた。
闇にポツンと浮かぶのは、その青く輝く破片の山と、淡く光を放つ自分の身体。魂だけ離れてしまったように傍から二つの光を眺めていると、だんだんと視界がぼやけ、闇が白んでいった……——
——目を覚ますと、白い天井に窓から射す陽光が当たり、光のベールの中で細かな埃がきらきらと舞っていた。
身体がひどく疲れているのがわかる。腕一つ動かそうにも、重く怠く力が入りにくい。
ふと視界の端に、点滴の袋が目に入った。伸びている管は、辿っていくと自分の腕に行き着く。
とりあえず起き上がりたかった。上掛けが暑かったのと、麻痺したように横になっているのが嫌だった。
力むと、筋肉や骨、節々にまで痛みが走る。それらを堪えつつなんとか上体を起こした。
頭と胴体にはキツく包帯が巻かれ、いたるところ擦り傷にはガーゼがあてがわれている。
そこで、漸く事の次第を思い出した。
彼は、上掛けを捲りベッドから降りると、ふらふらと立ち上がってドアに向かった。その際に腕につながった点滴の管が引っ張られ、袋のぶら下がっているスタンドがベッドの脚に引っかかって鈍い金属音を立てた。
思うように動かない腕で管を力任せに引き抜くと、よもや倒れかかるようにしてドアノブに手をかけた。
ドアを挟んで向こうの人物が物音に気づく。
「——おい、もう大丈夫なのか?」
ガチャ、というドアの開閉音とともにベッドにいたはずの患者が姿を現したのを見て、お洒落な口髭を蓄えた紳士が驚いた顔をした。この男、スラックスにベストという西洋風のいでたちをした人の良さそうな壮年である。
ドア向こうから現れた患者が、立っているのもやっとといった様子でいるのを見兼ねて紳士は駆け寄った。
「まだ結構痛むんじゃないか? 無理しなくていいぞ」
紳士は彼に肩を貸し、そのまま部屋の窓寄りに設置された大きなソファまで歩くのを手伝った。
——身体が重い……
自分で自分の体重を支えられないくらいには消耗しているようで、患者は紳士に肩を借り背中を支えてもらい、やっとのことで広いソファの端に腰を下ろす。
「頭は?」
すかさず紳士は、座らせた彼の額に手を当てて訊ねる。
「……まだ、痛むが……大丈夫」
声は発することはできるが、大きく張ろうとすれば脳天と腹の奥に鋭い痛みが走った。
「傷は塞がってきているな。腹は?」
「何もしなきゃ……大丈夫だ」
「そうか。そりゃ、何よりだ」
一通り彼の傷の具合を調べると、何か食べるのはよしといた方がいいな、と紳士は付け加えて、壁際のキッチンへ向かった。
無駄に広い部屋だ。窓のある壁にはこのソファとガラス製の丈の低いテーブル、そして重厚な作りのアンティーク素材でできた仕事机が設置されている。ゲストルームを出た正面には湯を沸かしているキッチンが、左手には玄関らしき入口と靴箱が見える。玄関部に並んで、壁いっぱいの大きな本棚、その前には来客用だろうか、古びた長椅子が横たわっていた。
ランはこの紳士を知っていた。
「いやあ、こんな形になってしまったが、再び会える日が来るとは」
紳士はマグカップを手に嬉しそうに言いながら戻ってくる。
「……なんで、あんたが俺を?」
温かい飲み物の注がれたマグを手渡されながら、怪訝な顔をして彼は問う。
「なんでって……見つけたからだよ」
当たり前じゃないか、という風に紳士は笑いながら答える。ランはきょとんとしてしまった。
「お前さん、電波飛ばしたろ? わたしの機械がそれを探知してね。すぐ一般人の家からだって分かったんだ。で、その元のケータイをハッキングしたら、なんとインターネットサイトで刀を探しているって呟いていたもんだから」
彼は、ああやっぱり、あの時実験は成功していたんだな、と確信した。
「で、さらに奇妙なメッセージも受け取っていただろ? それでそのメッセージ元を探って行ってみたわけさ。そしたらちょうどそこに、お前さんが可愛いお嬢さんを連れて来ていたから……」
懐かしくて、思わず外からランチデートを覗き見してしまった、と上品に高笑いする紳士。苦々しく思いつつ、ランはそれを聞いて藍のことを考えた。
「あいつは……?」
訊ねられて紳士が笑うのをやめると、穏やかに言った。
「あのお嬢さん、倒れたお前さんのことを抱きしめて泣き叫んでいたよ。助けてくれって。別のやつに手こずっていて戦闘には助太刀叶わなかったが、その声が聞こえたから、他人より早く見つけられたんだ」
「…………」
「駆けつけたら、ものすごく警戒されて睨まれたけどね。それも分からなくはない。なにせ普通の人間だと思ったのが化け物みたいになったのを目の当たりにしたんだから。それでしかも、慕っているお前さんがそいつに傷つけられたのを見ちゃあ——」
「——で、あいつは、今どこにいるんだ?」
語気を荒げて紳士の言葉を遮る。紳士が瞬きながら視線を彼へ向けると、苦しそうな表情していた。
「昨日お前さんを運び込んでから、お嬢さんには着替えてもらって一旦おかえりいただいたよ。ご両親に心配をかけたくないというから、友人が事故に遭って、着ていたものも汚れたので服を借りた、ということにさせてある」
紳士は一旦そこで言葉を切り、相手の気分が落ち着いたのを見計らって続けた。
「……かなり動揺していたし、ここに残ると言って聞かなかったけどね。どうにか信用してもらったよ。予定通りなら今日の昼ごろにまた来るって話だったが……」
そう言って時計を見上げる紳士。時刻は午後一時をちょうど過ぎたところだった。ランはほぼ丸一日眠っていたことになる。
その時、コンコンと部屋の戸をノックする音がした。
「どうぞ!」
紳士がすかさず返答する。
するとドアが開いて、不安げな面持ちの少女が姿を現した。
——また敵か……!?
藍はその時、咄嗟に相手の正体を疑った。瀕死のランを尚も狙うのではないか。そんな懸念が思考を支配し、なんの武力も持たない彼女はただ気迫で対抗するしかなかった。
手を出させてなるものかと、抱く腕に力を込めた。涙で濡れて紅くなった目元と頬は、恐怖と緊張と不安とでさらに充血していた。
「——落ち着いて。敵じゃないよ」
穏やかな口調に惑わされるものかと、彼女はしゃがみ込んだまま重い肉体を引っ張り後ずさる。大人の男性を抱えて逃げられるほどの力はない。せめて自分が盾になるべく声の主に背を向けようとしていた。
「ああ……そんなに圧迫したら良くないよ」
藍はハッとした。自分の腕が彼を苦しめていると思った彼女は力を抜き、頭を上げた。
足音が間近に迫り、男はゆっくり腰を屈めると、健気な少女の背を優しくさすった。
「大丈夫だよ。よく頑張ったね。彼を運ぼう。車を近くに停めてあるから、そこまで一緒に」
藁にもすがる思いの彼女はもはやその言葉を信じるしかなかった。掠れた声で「うん」と頷き、見知らぬ男の言う通り従った。
——車の中。毛布で冷え切ったランの身体を包み、ハンカチで止血した頭を膝に乗せて、藍はぼんやりと窓の外に流れていく景色を眺めていた。
「お二人は、どういう関係なんだい?」
彼女の顔色をミラー越しに見ながら、男が訊ねる。
「……兄です」
彼女は無表情のまま、ぼそりと独り言のように答えた。
男はとても不思議そうな顔をしたが、遠くを眺める彼女は気がつかなかった。
「そうなんだね。——もうすぐ着くよ」
見覚えのある街。登校の時に電車を乗り換える駅を走り過ぎた。ここには友達とも遊びに来ることが多く、今日も電車で来るときに通過した。
——車だとこんなに速いのか。
なんでもないことを考えていると、人で溢れた賑やかな景色からは少し外れ、オフィスビルが林立する静かな一角にやってきた。その中でも住宅街と中小企業や老舗、下町の工房などが並ぶ細い横道に入ったところ、とあるビルの前で止まった。
新しくはないが、小洒落ていて、小綺麗で、街並みによく馴染むビルだ。一階部分はガレージになっていて、二階のフロアが自分のオフィスだと男は言った。
ワゴン車をガレージに収めてから、男はランを担ぎ上げて運んだ。男は彼女に、その間怪しい人が通らないか車の影から見張っているように言った。もう年配にさしかかりそうな年頃の男なのに、凄く力があるなと虚ろな気分で彼女は思った。
部屋に入ると、男が彼を看るから、安心して着替えて帰るよう促された。せめて彼が目を覚ますまで居させてくれと懇願したが聞き入れてもらえず、明日また来なさいと窘められてメモ紙を手渡された。彼女は致し方なく帰路についた。
家に帰り着いてからも気持ちが落ち着くはずはなく、沈んだ面持ちの彼女を両親は心配した。
当然のように服のことを訊かれたので、あの男に言われた通り、友人が事故に遭って怪我をし、自分は無事だったが服が汚れてしまったのでやむなく借りたという旨を説明した。
服を脱ぐと、彼の流した血が腕や首筋など至る所に付いていた。男の部屋で濡れタオルを借りて拭いたくらいだったから、取り除ききれていなかったようだ。親には見られただろうか。気づかれていないことを祈った。
そもそも、あんな得体の知れない男一人に彼を任せて大丈夫だったのだろうか。あんな大怪我では大病院にでも行かないとどうにもならないのではないか。あの人はちゃんと連れて行ってくれただろうか。……等々、現場から離れて冷静かつ客観的になるといろいろな疑問が浮かんでくる。自分の判断は正しかったのか、とめどなく不安になって、鼓動は部屋に響きそうなくらい速く打ち、一睡もできずに夜が明けた。
翌日。
正直あの男の元を訪ねるのが怖かった。貰ったメモ紙にはオフィスの住所と電話番号が書いてあり、その場での約束はとりあえず昼ごろに訪問するとだけしてあった。だが、行って彼がもし目を覚ましていなかったら。あの男は安心していいと言っていたが、彼がもしもすでに逝ってしまっていたら。……あらゆる可能性を考えるほど恐ろしくなり、なかなか出かける用意が進まなかった。
「——お友達のお見舞い、行かなくていいの?」
行けばきっと元気になるわよ、と扉越しに声をかけてくれた母の言葉に勇気をもらい、重い腰を上げた頃にはすでに正午に迫る時刻だった。
——男のオフィス前。藍はビニール袋をいくつか両手に提げ、男の部屋がある二階へ上がる階段手前で立ち尽くしていた。
手持ち無沙汰ではどうも落ち着かず、道中コンビニと薬局に立ち寄り、彼女なりに、おにぎりやサンドイッチや飲み物などの食料と、治療の足しになりそうな包帯や冷却シートなどを購入してきていた。
重い足取りで階段を上る。彼がいまどんな状態か想像もつかなかった。病院でなく部屋にまだいるならば、願わくば、ベッドで目を覚ましているくらいには回復していてほしい。でも、そうでなかった時、自分が普通でいられるかひどく不安で心細くなった。
玄関前に来て再び立ち尽くす。中からオフィスの主人である男の話し声が聞こえる。内容は不明瞭だが、話の相手は客だろうか。
タイミングを図ろうとするもうまく掴めず、男の声が途切れた瞬間に、提げていた袋を片手に移し思い切ってノックした。
「——どうぞ!」
招く声が聞こえて、おそるおそるドアを開ける。
「よく来たね! さあ、入って」
藍は、お邪魔しますと言いかけて、目を見張った。気がつけば、持っていた袋を落として駆け出していた。
(ラン……!!)
ソファに腰掛ける彼を見つけるや、声にならない呼び声を抱いてその胸に飛び込んだ。
見ていた男は、おやおやとイタズラっぽく微笑むと、おもむろに彼女が落としたビニール袋を拾いに行き、ドアを閉めた。
藍は泣いていた。ランは勢いよく抱きつかれた拍子に、ソファの背もたれと彼女の抱擁に圧迫され、うっ、という呻きを漏らしたが、彼女がそれを構うことはなかった。
「ああよかった……生きてた……」
生のある感触を確かめるかのように、彼女はしっかりとランの首に回した腕を離そうとしなかった。
「随分と仲のいい兄妹だね」
男は正面の椅子に腰掛け、膝に肘を立て頬杖をつきながら、ニヤニヤと笑った。それを見て、ランが参ったというように彼女の肩を叩く。
「……落ち着け。痛い」
藍は、ふと生温かい吐息を耳元に受けて我に帰った。
「はっ……! ごめん……!!」
彼女は恥じらいに顔をくしゃくしゃに歪めながら飛び退いた。彼を兄だと言ったことはすっかり忘れていた。
隣ながら、あからさまな距離をとって深く俯く。男がじっと面白そうに見ていた。ひどい泣き顔も真っ赤な恥顔も見られてしまった。男だけでなく彼にも。別にやましい意味はなかった。とにかくランが生きていてくれたことが彼女にとってはこの上なく嬉しかっただけなのだ。
「大丈夫だ。ガクは友人だから、取り繕わなくていい」
隣からかけられた言葉に、頭にいっぱいハテナを浮かべながら振り返る藍。
「あんたも、そうイジるなよ」
ガク、と呼ばれた目の前の白い口髭を蓄えた紳士は、ごめんごめんと平に謝りながら姿勢を正した。
状況の把握できていない藍はただ目を丸くして二人のやりとりを見ているしかなかった。
10話へ続く