8話 ツカサvs黒の駒
骨董品屋の正面口。
店主は、客の入店を知らせる蝶番の軋み音に視線を向ける。暑苦しいトレンチコートを身に纏った年配の紳士だ。手には珍妙な小さな機械を提げている。
怪しんだ店主は新聞を置いた。
「——あんた、何者だ」
カウンターから出てきた小太りな店主が喧嘩腰で凄んでくるのを見て、紳士は丁寧に整えられた髭を、機械を持っていない方の手でひと撫ですると、落ち着いた調子で言った。
「わたしの友人はどこですか?……それとそのお連れさんも——」
——気分の悪さと暑さとで完全にまいっていた。原因といえばこの匂いだが、さらにこの匂いにあてられる要因として思いつくのは、つまり『黒』の駒の能力による場合だ。
扉を開けようとしていたこの男。奴の言葉で確信を得た。
「——あいつの能力も役に立つんだわ」
ゾッとした。まったく敵の存在に気づかないままここまで来てしまい、しかも無関係の人間の少女をそばに置いて。あるかどうかも曖昧な自分の武器の事ばかり考えていたのか。
奴が、話し終わると同時に僅かに動いたのを見て、まず懸念したのは衝撃波の存在だった。普通の人間は風が吹くだけでさえ死ぬことがある。自分が食らうのはいいとして、ただの人間である藍は衝撃波をもろに食らえばタダでは済まない。
瞬時に相手が武闘派であることを見抜けたのはとりあえず幸いだった。
——!
しかし、防御体制をとる間も無く、敵の影は気づけば自分の身体と密着するほど近くにあった。そしてほぼ同時に、相手の拳が鳩尾に入った。この時、痛みというよりは衝撃で一瞬、意識が飛んだ。それでも、眼鏡が飛び、内臓を潰された勢い喀血したせいで視界が真っ赤になったのはわかった。
「——!!!!」
直後、名前を叫ぶ藍の声が聞こえて、彼は意識を取り戻した。殴り飛ばされた後、激しく背中を打ち付けたらしい。周りに転がっている鉄材や木材の破片が、ぶつかった拍子に彼の背中を切ったのだろう、血の色に染まっている。だが、深刻なのは最初の一撃だった。ほぼ無防備な状態で食らったために、吐血が治まらないほど損傷している。まだ意識が朦朧として痛みとしての実感は少ないが、少し時間が経てばたちまち激痛とダメージで動けなくなる。そうなる前に〝あいつ〟を片付けなければ。
よろめきながら起き上がると、敵の攻撃軌道から遠ざけたはずの彼女が走ってくるのが見えた——
普通なら即死でもおかしくないほどのスピードと衝撃だった。だが、彼が起き上がるのを見て、藍は無意識に走り出していた。
だが、時間にして数秒と経たず資材の中にあったランの姿が消える。……と思ったら次の瞬間、彼女の背後に現れ、何かを後方に蹴り飛ばした。
「……ラン!!……わたし……——!」
「早く退け!」
涙目になりながら、どう声をかけていいかわからず叫ぶ藍に、着地するなり彼は鬼のような形相で怒鳴りつけた。彼女は、振り返った色白顔がどす黒い血の色を浴びているのにさらに恐怖を覚えた。足が竦んでしまい、立っているのがやっとだった。
チッ、という舌打ちが聞こえたかと思うと、頭上に影が現れ、再び今度は目にも止まらない速度で振り下ろされた敵の踵が、彼の額に打ち付けられた。
蹴り下された身体は地面を抉りながら滑り、まるで木偶人形のように手足も力なく投げ出されて止まった。額はざっくりと切れて鮮やかな赤い液体が噴き出ている。
辛うじて意識を保っていたランは、なんとか起き上がろうと震えながら腕に力を込めた。耳には不快な音声で敵の言葉が聞こえてくる。
「おやおや、〝ツカサ〟の頭がなんとも無様だな。〝力〟も使えなくなっちゃってさ」
土煙の中から現れた若者の体には不気味に蠢く黒煙がまとわりついている。
「あんたをここで仕留めれば〝祭〟は俺たちの勝ちだ。しかも俺は大手柄を手に入れられるしな」
藍は、敵が何を言っているのかさっぱりわからなかった。ただ恐ろしくて、焦って、腰を抜かしてその場に座り込んだ。
敵は、未だに身体を起こすことすらできないでいるランのところに到達すると、彼の前髪を乱暴に掴み上げて光を失いかけている青い眼を蔑むように覗き込んだ。
「……あれはお前の妾か?」
奴が指差した先は藍だった。ランもまた、敵の言葉を飲み込めないでいた。頭をやられたせいで目眩が酷い。そして腑の痛みと血の味が増してくる。
「この女も殺しとけば無難だよな。……先に殺るか」
その言葉に遠い記憶に眠っていた恐怖が蘇る。そんなことを許してはいけない。もはや力の入らない肉体に鞭打ってでも立ち上がらなければ……
敵は髪を掴んでいた手を離した。踵を返して真っ直ぐ彼女の方へ向かっていく。
「……逃げろ……!」
せめて動かない身体の代わりにと精一杯声を張る。
藍は恐怖に打ち震えながら、この悪夢のような光景に妙な夢遊感を覚えはじめていた。現実なのか夢なのか、もしかしたら夢なのかもしれないと、変に冷静さを持って次の行動を考えていた。
敵が自分に迫ってくる。ランは血みどろになりながら必死な声で逃避を促している。彼が助かるには……? 今の彼は〝力〟が使えない。その〝力〟がどうしたら発揮できるのか、自分にはわからない。発揮したところで、こんな馬鹿みたいな力を持つ敵を倒せるのか? だが、彼は武器を欲していた。だからその武器があればあるいは……?
彼女は必死だった。考えがまとまったところですぐに立ち上がり、ある方向へ駆け出す。
「あらま。逃げるの——」
敵が藍を追いかけようとしたところで、ランは追いつき羽交い締めにして後ろへ引き倒した。彼は脚力だけでも相当の速度が出るし、体力ふくめ身体能力は常人とは比べ物にならないほど高い。だが、重症である彼とほぼ無傷の敵とではスタミナに圧倒的な差が出ていた。
押さえ込みも大して時間を稼げないまま、敵は体勢に回転をかけ、首を抱えるランの身体を下にして地面に己ごと叩きつけた。遠心力で自重の何倍もの威力でのしかかられ、その圧迫でさらに意識が飛びかける。肋も数本いったようだ。無理矢理に肺の空気も押し出されたからか、呼吸すらできずますます意識が遠のいた。
土壇場での足掻きに苛立ちを見せる敵は、怒りのままに彼の胸ぐらを掴み上げ、今度はビルに向かって投げ飛ばした。灰色の壁は衝撃で放射状にヒビが入り、彼の身体は流血の筋を縦に描きながら落ちていく。
もうそろそろ限界だった。人間とさほど変わらない今の身体の状態では、ここまで太刀打ちするのがやっと。——そう思った時、不意に手に温かいものが触れた。
——……
敵の足音が迫る。弄んでいるのか、敢えてゆっくりと歩いているようだ。
手に触れたそれは、冷たく硬い鉄の棒らしきものを握らせた。
視界がぼやけ歪む中、彼女の虚ろな、しかし慈愛と不安に満ちた顔が近づいてくる。
藍は、両手でそっとボロボロになった頭と身体を抱き寄せた。何も声はかけなかった。
ランはその感触に覚えがあった。ただの鉄パイプであることはすぐにわかったのに、永らく身に馴染んだ相棒であるかのように錯覚していた。そして、抱き寄せられた彼女の胸元でその鼓動を聴くと、不思議と力が溢れてくるような気がした。
〝力の箱〟が壊れる——
ふと、体内に蓄積されていたエネルギーの存在を感じた。決まった形を持たず流動的でいたそれらが、いつでも外に出られると全身に伝えてくる。血を流しすぎて冷え切った身体が、途端に一気に熱を帯びる。
今だと決心すると、ランは体内で渦巻くエネルギーの流れを全身に巡らせ、末端まで行き渡るようイメージした。
ピリピリと電流が走るような感覚に、藍はハッと我に返って手を離す。
応急処置的に身体に負った傷を修復するとさいわい、なんとか動けるくらいにはなった。パイプを左手にぐっと握りしめ、ゆっくりと立ち上がる。
敵はまだ気づいていなかった。壁に叩きつけてもなお真正面から闘志に満ちた眼を向ける相手を、見くびり、その満身創痍の様相を嘲り笑うように大きく仰け反った。
「まだ戦うの? そんな体で? いい加減にしなよ。もうろくに体力もスタミナも残ってないんだからさぁ!」
ランの全身は細かく電流の弾ける音と白い光を纏い、黒髪は周辺の空気を巻き込んだ気流で浮き上がり大きく靡いた。
すぐ足元で見ていた藍は、傍目でもわかるほどのエネルギーの塊が彼の身体に集中していくのを否が応にも感じていた。
只事でない様子に、漸く敵も状況を察したようで、突如顔色を変え慌てふためく。
「あれ……? あれ? ちょっと……待って……——!!」
相手が言い終わらないうちに、ランは全身を捻り大きく振りかぶると、握り締めていたパイプを左下から右上に向かってなだらかな弧を描くように振り切った。その速さはまるで音速のようで、正面の敵に向かい、パイプを介した彼の備蓄エネルギーは束となり超速で放たれた。
放出されたエネルギーの束は、轟音を立てながら描かれた弧の軌道上を進むと、地下深く土とコンクリートの地面を抉り、地上は周辺のビル壁の際まで空気を斬り裂き、工事現場のあった土地のひと区画分をまるごと、敵もろとも一瞬のうちに消し飛ばしてしまった。
——……
轟音は、エネルギー波が扇型に描いた斬撃範囲内のありとあらゆるものを破壊し、余波が空中に離散し消えていくまで収まらなかった。
やがて吹き荒れていた暴風も弱まり、しばし静寂が訪れる。
巻き上げられた砂ぼこりと粉々になった資材の破片が降り注ぎ、カラカラと、壊れた地面に落ちて当たり乾いた音がこだまする。
——ガラン……
腕から力が抜け、持っていたパイプが落ちた。
ランは、ゆっくりと藍の方へ向き直る。
藍は、安堵と放心のうちに立ち上がり、呆然と彼の勇姿を見つめた。彼が着ていた黒シャツは、肉体もろともズタズタに破れ、血と埃でひどく汚れていた。流れ出た大量の血は、彼の髪から指先まで、元の色がわからなくなるほどに染めている。
「——アイ」
藍は、名前を呼んだ声の主に目の覚めるような思いがした。
ランは、おぼつかない足でたった数歩離れた彼女のそばへ歩み寄ろうとしていた。
「けが……は……——」
しかし、二歩目の歩みを進めようとしたところで彼の眼は青い輝きを失った。藍は慌てて走り寄り、ガクッと膝が折れて倒れかかる身体を支えた。
「ラン……! しっかりして……!」
支えた体躯はぐったりとして、体重そのままが彼女の両腕に負荷をかけた。支えきれずに自分も膝をつくと、抱えた上体を慎重に地面に寝かせる。
——どうして、こんなことに? 朝も昼も、あんなに楽しく過ごしていたのに?
——あの店に来てから十数分も経っていなかった。今だって、お昼を食べてから一時間も経っていない。
ほんの僅かな時間に、悪夢のような瞬間が立て続けに起こった。不器用で、妖麗で、不思議で、でも穏健で優しかった居候君は、午前中とはまるで違う姿に変わり果ててしまった。……そしていま、自分の前でまさに死にかけている。否、もしかするとすでに……
考えて一気に胸が苦しくなる。
刀の質問をしたのは自分で、メッセージを受け取って浮かれたのも自分。この骨董屋に彼を連れて来たのも自分だ。その結果、 〝力〟の使えない彼を敵に引き合わせ、大怪我を負わせただけでなく、その上自分が逃げられなかったことで無理をさせ、挙句死の淵に立たせている。
——わたしのせいだ……
彼女は、絶望のうちに彼の身体に触れた。口元に顔を近づけてみるが、呼吸は感じられなかった。涙が溢れるのを堪えながら、今度は胸に耳を押し当てる。だがその鼓動も、あるのかないのか分からないくらい弱々しかった。
……もう涙を止められなかった。嗚咽を漏らしながら、意識がなく動かない身体を抱き寄せ、強く抱きしめる。どうしていいか、まったくわからなかった。怪我の手当て? 心臓マッサージ? 人工呼吸? 浮かぶものはたくさんあるのに、あまりにもたくさんの傷を負った彼は、ちょっとした間違いで簡単に死んでしまいそうで、一切実行する勇気が出なかった。
「……だれか……!! だれか……助けて……!!」
頭が真っ白になり、湧いてくるさまざまな後悔と苦悶と、必死に助けを求める気持ちが、ただただ悲痛な叫びとなって口を突いて出た。
「お願い……! 死なないで……!!」
とめどなく出てくる言葉にならない言葉が、少女の甲高い咽び声に乗ってあたり一帯に響く。
涙で滲んだ目で見る彼の顔は、血と埃にまみれていてもなお美しく穏やかだった。それこそ、眠っているようにも、死んでいるようにも見え、余計に罪悪感で心が張り裂けそうになった。
そうして声を上げて泣いていると……——どこからともなく足音が聞こえてきた。
藍は、抱きしめた身体を離さず、涙で濡れた顔を彼の髪に押し付けながら足音の方を睨み据えた。
二人の前に現れたのは……
9話へ続く