7話 骨董屋
ランチに小一時間費やし、空腹が満たされたところで店を出た。
「ランは暑がりなだけじゃなくて猫舌なんだねー」
揶揄うように藍が言う。彼は黙って眉を顰めていた。怒っている感じではなく、どちらかというと図星な印象だった。
小路のあちらこちらにある可愛らしい雑貨屋に目移りする。どこも年老いたおばあさんがいて、あるいはその娘や孫が経営している年季の入った店構えだ。紙細工や竹細工、ガラス細工など和雑貨の定番が並び、曇り空の下このエリアだけはきらきらと明るんで見えた。
どこか懐かしさに満ちた通りを抜けると、一転して雑居ビルが立ち並ぶ灰色のコンクリートジャングルに変わる。寂れていて人通りも少なく、先ほどの活気溢れたエリアとは対象的にこの街そのものの影のようだった。
藍は再び地図アプリを開く。それを見て自分たちの現在地を確認すると、例の刀が置いてあるらしい骨董屋の方角に一番近い道を指し示し、向かった。
「——メッセージはそれだけだったのか?」
食事をしているときにこうランが問うたが、藍はその通りだと答えた。すると、彼はどことなく怪訝な顔つきをしたので藍は少々気になったが、特に深追いはしなかった。
それから空気を濁すように、「メッセージをくれた人に返事はしたのか」と訊ねられ、忘れていたと焦った藍は礼だけの短い文を返しておいた。
——雑居ビル群を抜けると、窓ガラスも抜けて完全な廃墟と化した一棟の小規模ビルが見えてきた。その隣の更地には、いくらかの建築資材が放置された工事現場がある。工事といっても作業音はなく、薄い仮囲いの壁の隙間からは無人の重機しか確認できず、そもそも人影自体が一つも無いようだった。
「ここら辺みたいなんだけど……」
そう呟いた一角で立ち止まりあたりを見回すと、廃墟化したビルの一階にその店の看板が見えた。あまりに寂れたこの一帯、その店の他には何も無く、あってもシャッターは閉められ人一人外を歩いておらず、二区画ほど離れたところにある大通りを走る車両の走行音が気持ち悪いくらいに響いていた。
やはり自分の武器に相当焦がれていたのか、気持ちが急くようで、ランはさっさと店の方へ歩いていく。藍もそれに続こうとしたが、ふと悪寒が過ぎって足が止まった。
——!?
思わず背後を振り返る。よく目を凝らしてみるものの、人影はなく、裏銀座の小路の賑わいが遠くに聞こえるだけだ。
胃のあたりがぞわぞわと恐怖に浮き上がるような不快感に襲われ、咄嗟に駆け出し、前を歩くランの羽織っているカーディガンの袖とその手首を掴んだ。
「どうした?」
驚いた様子で声をかけられ、藍は不安な面持ちのまま答える。
「なんか……尾けられてるかも」
それを聞いて、背後を振り返り耳をそばだてるラン。
危険な気配はない。いや、正しくは常に一定の危機の中をずっと歩いていたわけで、それと比べて際立った危険はないということだ。あの黒い煙を見ない場所はもはやどこにも無い。ただそれらはうっすらと空気中に溶け込み、意識しなければわからないほどに薄まっていた。
——大方、敵の手段として推察すると、濃度の濃い毒をこの広い世界に溶かすことで、対象に悟られぬようじわじわと殺してやろうといったところか。どの道なんとかしなければ、そのうち毒された大量の人間が一斉に動き出すだろう。意識しないうちにという点と、普通の人間であるがゆえにという点では、この少女も例外なくその毒に侵される可能性がある。
彼は掴んできた手を引き寄せると、その掌に自分の五指を絡めた。
「……大丈夫だ」
落ち着いた口調と声でしっかりと発音されたその言葉はひどく信頼の置けるものだった。藍はもたれかかるように彼に身を寄せて店に向かう。
メッセージによれば、店先の看板として例の刀が飾ってあるという話だったが、外から眺める限りではそれらしい商品は見当たらなかった。
店の構えはかなり古びているが、ガラスの戸を開けて中に入ると暖かな橙色の電球が店内を照らし、木目の美しい椅子などの家具は床に、装飾の華やかな食器は壁付きの棚に飾られ、アンティーク好きには堪らない品の数々が展示されている。革製の小物入れや財布なども置いてあり、おそらくは、その手の客に人気があるのだろう。こんな場所にあっても繰り返し来たくなるほどに、この店の雰囲気は魅力があった。
二人は目的のものを手分けして床から天井まで舐め回すように探すが、刀そのものが……——
「……ないね」
「…………」
一通り探し終えたあとも、ランは繰り返し商品をひとつひとつ目で追っていた。
藍は、ふと店の奥にあるカウンター前に目をやった。そこでは恰幅の良い初老の男が椅子に腰掛け新聞を広げている。彼女たちが入店した時には「いらっしゃい」と素っ気なく声をかけてきたが、それ以外はまるで我関せずだ。だが、どこからどう見ても店主に当たるのはこの人しかいない。藍は訊ねてみようとランに提案し、カウンターに向かった。
「あの、お訊きしたいのですが」
新聞の向こうから、職人によくいるような、目つきのあまり良くないおじさんの膨れた顔が覗く。
「お嬢さん、なにか?」
気圧されつつ、藍は勇気を振り絞って訊ねる。
「ええと……わたしたち、刀を探していて。ある人が、それがここにあると教えてくださって……」
「……刀?」
店の主人は新聞をたたむと、カウンターに置いてあった小さな丸メガネをかけた。
「はい。鍔のない——」
「日本刀に似せた造りの鍔なし刀だ。白鞘というのと形は同じで、鞘と柄は鼠色。空想文字風の装飾が鞘と刀身の側面にしてある」
横からヌゥッと口を出してきたのはランだった。店の主人は彼を上目遣いで睨み据えるが、彼は動じる様子もなく、真剣な面持ちで返答を待っている。
しばしの睨み合いの末、主人が口を開く。
「ああ、あれか。店先に置いとくと、物好きな連中に声かけられちまうかもよ、って言ってきた奴がいたもんでな。今は裏の倉庫にしまってあるよ」
それを聞いて藍は嬉しそうに口角を上げ目を輝かせた。ランは無表情で続きを待った。
「だが、売りもんじゃないからな。俺がもらったからには俺の自由にさせてもらう。お前らが元の所有者で、返せってんなら別だが。それも証明できないだろ」
「ええーっ、そんな……」
意地悪く言う店主に、藍の顔は一気に曇る。
「……見せてもらうだけでも、できませんか?」
「いや、そもそも、どうしてあんたらみたいな若造があんなものを求めるんだ? 大概、あんちゃんみたいなのは不良をするためにああいうのを持つんだ。あるいはヤクザと連んでるんじゃないのか? もしくはそういう連中の親戚か……いずれにしても信用できん」
「そんな言い方……!」
藍はムッとして言い返そうとしたが、横から静かに掲げられた手に遮られて押し黙った。
「それは俺が落としたものだ。気を失っていたからどこでどうして落としたかは覚えていないが、今言った通りの特徴があるなら間違いない」
頑固者の店主もさすがにランの視線のキツさには抗いがたいものがあるらしい。反論せず負けじと睨み返しているが……
「——おっちゃん、そのくらいにしときなよ」
不意に店主の背後、簾の向こうから若い男の声がかかる。直後、簾の端を腕で捲りながら声の主が顔を表す。
「ごめんな、兄ちゃん。おっちゃん、頑固でよ。刀、見せてやるからこっち来なよ」
あっけらかんとした態度のその若者は、大きく二人を手招きすると、簾の向こうに姿を消した。
店主は、面白くなさそうにプイッと横を向いてまた新聞を広げ出した。
「やったね、ラン」
藍は嬉しそうな表情に戻り、両掌を握りしめながらランの顔を見上げて色眼鏡越しの青い眼を見つめた。
ランはといえば、さっきから薫ってくる店内の木や革の強い匂いに酔いそうで、注意力が散漫になりかけていた。カウンターに近づくと、奥には作業スペースでもあるのか、より匂いが強くなっていた。さらに、その奥に連れていかれようとして、少し躊躇った。できればその倉庫とやらにある刀をここまで持ってきてほしかったが、それらの気持ちも全部顔には出さず、彼は藍に促されるまま若者の手招きに従った。
簾をくぐると、頭に手ぬぐいを巻いた若者が作業服のまま二人を待っており、彼の案内で畳の部屋に則した廊下を進む。
「すみません。ありがとうございます」
藍が申し訳なさそうに言うと、若者は背を向けたまま、いやいやと手を横に振り笑った。
「こっちこそすみませんね。あの人あんな性格だから、若い人のことあんまり信用してないんすよ」
「そうですか……。でも、入れてくれましたね」
若者をフォローするように、招き入れられた時に何も言わずに通してくれた店主にお礼を言ってほしいと付け加えた。
「しかし、今時こんな若い人も刀に興味があるんですねー。世の中わかんないもんだ」
——あら? やっぱりこちらの所有物というのは信じてもらえてないのかな。……と藍は苦笑いしながら首を傾げた。その気持ちを知らせようと隣をさりげなく見遣る。
「……?」
光が差し込んでいる反対側の出口に向かっているのだが、廊下は薄暗い。その薄暗さの中でも、ランの表情の硬いことは認められた。考え事をしているのか、こちらが見上げているのにも気づいていないようだ。あるいは、念願の武器が本物か気になるのかなと、いろいろ思いを巡らすものの、やはり探らないほうがいい気がして声はかけなかった。
——やはり匂いはきつかった。だが引っかかるのは、今まででこんなに世に充満しているさまざまな匂いと同類、ましてや木や革などは自然の中にあるものなのに、こんなに酔うことがあっただろうか。こういうことももしかしたら、〝力〟が使えないことに起因するのか?
彼は奇妙な感覚に半ば狼狽えながら、藍が受け取ったメッセージについて思い出していた。
それはあまりにも的を射た内容だったので、〝友人〟が自分たちを見つけて返信をくれたのかと思った。だが、藍が受け取ったメッセージは一件だったという。そして、その一件はおそらく、昨晩彼女が机に身を投げ出して眠ってしまっていた傍ら、端末の画面に表示されていた一件だ。電波伝達テストをする前に寄越されたメッセージでは、それが〝友人〟から来たものであるとは考えにくい。しかしあの内容が〝友人〟からのものでなくして、これほど的確な特徴をピンポイントで記してくるものが他にいるだろうか……
——建物の外に出る。明かりの中に出ると、むき出しの工事現場の目の前だった。工事にこのビルが組み込まれているせいか、道路に面した正面口と違って、ビルの裏側は薄い仮囲いの壁すら設置されていない。
裏口を出たすぐ脇に、倉庫のものらしい両開きの、壁と同色の扉が付いていた。若者がその扉の鍵穴に、ポケットから取り出した鍵を差し込むと、鈍く背筋がざわつくギギギという音と、ガチャッという錠が開く音が続いて聞こえた。
「いま中見てみますから、ちょっと待っててくださいね」
若者は屈託無く微笑みかけて、また背を向ける。藍は期待に胸を膨らませ、この若者に感謝したい思いでいっぱいだった。……不意に、隣にいたランが少し後ずさった気がした。
「どうしたの……?」
彼女は問いながら振り向く。すると、彼はカーディガンを脱ぎながら、なんでもないと答えたが、その顔色はひどく蒼ざめていた。よく見ると、普段まったくかかない汗がこめかみから滴っている。
「……あ、汗……大丈夫……——」
藍が慌てて彼のカーディガンを受け取りつつ震える声で言いかけた時だった。若者が扉を開放し、何か確信を得たような面持ちと口調で声を発した。
「お兄さん、辛そうだね。そりゃよかった。あいつの能力もちゃんと役に立つんだわ——」
その言い草にピクッと反応を示したと思うと、ランは咄嗟に、自分を支えようとしていた藍の身体を勢いよく突き放した。彼女は訳もわからず身を弾かれ、地面に尻餅どころか転げる形で投げ出された。衝撃的な彼の行動にほとんど放心した状態のまま顔を上げる。
若者は目にも留まらぬ速さでラン目掛けて突進したかと思うと、彼が腕を構えるよりも早く懐に飛び込んだ。瞬間、鈍く重い打撃音と色がはっきりわかるほどの鮮血を放って彼の身体は弾き飛ばされた。
一瞬のことに、何が起きたかすぐには理解できず、藍は硬直していた。
——え……? 何が……?
思考も停止した。いま、彼が殴り飛ばされた。その事実だけが頭の中をぐるぐる回っている。
刹那の静寂を感じたのち、飛ばされた彼の身体が資材置き場に激しく打ち付けられ、轟音が鳴り響いた。積み上げられた硬く尖った資材の山がガラガラと崩れ落ちるのに混じって、ぐったりと地面に倒れこむ彼の身体を確認すると、ようやく今起きたことの深刻さが胸に迫った。
「——ラン!!!!」
……自ずと出せる限りの悲鳴の声が喉から溢れた。
8話へ続く