6話 刀を求めて
旧12、13話を結合しました。
これに当たる後の部分は削除します。内容は変わりません。
カフェでの重々しくもワクワクしたひと時を終えて、二人は会計を済ませようとしていた。レジ打ちをしたウェイトレスは、大人の男性でなく女子高生が全額支払っているのを見て、苦々しげに彼女の隣を幾度も見上げていた。そのウェイトレスの視線が鬱陶しかったのか、ランは会計中に店外へ出ていってしまった。
「おいしかった?」
藍は会計を終えると駆け寄り、明るく問いかけた。
「おいしかったよ。ご馳走さま」
全然似ていないのに家族のように和んだ声色の少女と、それにさらっと礼を言う異邦人風の男を、ますます訝しげに目で追うウェイトレスだった。
藍は、ふと思いついて再び話しかける。
「あなたの名前って、本当の名前じゃないんだっけ?」
そういえば名前の意味を訊ねた時に、まるで自分の本当の名前は分からないような素振りだった。
「んん……」
肯定するでも否定するでもなく、彼はただ喉の奥で唸った。
「……素敵な名だと思うけど、やっぱり日本人には馴染みがないから、それっぽく変えた方がいいかもね」
彼女が感じていたとっかかりの一つはこれだ。彼の名前は短くて呼びやすい。しかし、どちらかというと女性寄りな名前であるし、それらしくここで暮らしていくには姓もあった方がいい。
「……今すぐには思いつかんな。お前が考えろ」
彼の物言いはものすごく面倒くさそうだ。だが藍はといえばそれと対照的で、また一つ仕事をくれたことにウキウキとした気分だった。
「おっけー! はりきっちゃうよ」
妙にテンションの高い相方を呆れたように見下ろして、ランは悟られないようクスッとほくそ笑んだ。
そうして傍目には至極楽しげな対話をしつつファッションビルを闊歩した二人は、夕闇の空を見つめながらエスカレーターで階下へ降っていった。
……その二人の背中を、見覚えのある少女二人が、禁断の場面を目撃したように目を輝かせて見つめていた。さらに見つめる彼女らの脇を、嫌悪や憎悪や軽蔑の黒煙を纏った人間たちが掠めていく。
降る際高層から眺めた眼下に広がる街の景色、そのいたるところに忌まわしい黒煙が巻き上がり、人も車も建物もなりふり構わず飲み込んでいくのを、ランは忌々しげに眺めていた。それでも、帰路を行くとき彼も藍も、ここに来たときとは違う穏やかな気分で、同じ場所を目指し並んで歩いていくのだった。
翌日の朝。学校にて、朝礼の少し前。
鞄からいつものように今日の分の教科書を取り出し、机の中にノートと一緒に押し込んでいると、死角からソロソロと二つの影が迫ってきた。
「——アイ!」
いきなり背後から叫ばれて思わず、うわぁと大きな声で反応してしまった。
「カナぁ? やめてよ……びっくりしたじゃん」
振り返りざま見たのは加奈だった。こっちの心拍数を跳ね上げておいて、まったく意に介していない様子だ。ニヒルな笑顔で、追い詰めたと言わんばかりに狩人のような目つきで藍を見下ろしている。
「びっくりしたのはこっちよ! 昨日、見ちゃったんだから」
「はあ?」
側から見ていた未咲希がすかさず加わる。
「ねえねえ、あいちゃん! あれ誰なの? すごい気になるわ」
未咲希は大人しげでおさげの似合う文化系少女だが、ポニーテールを振り回す男勝りで元気娘の加奈といつも一緒にいるせいか、性格が似てきている気がする。
「だ……だれのこと?」
「とぼけないで!……昨日は夕方、早く部活が終わったんで、アイがいるかもねーって冗談言ってさ、二人で小多摩駅の駅ビルに遊びにいったのよ。そしたら……」
「そしたら?」
「——……案の定だよ! そこであいちゃんが男の人といるところを見たの。ねえ! あれ何、デート? デートしてたの!?」
加奈が思わせぶりにサスペンス調の下りで話し始めたかと思えば、未咲希が高く上品な声を弾ませて直球に問い詰めてくる。
藍にとぼけている気はなかった。あまりにも自然体が板につき不注意になっていたが、そうか、そう見えるよな、と改めて女子たちのセンスを実感せざるを得なかった。どこで何を見られたのかわからないが、とにかく誤解を解かなければまずい。
「あぁ、ええーっと……あれね! そう、遠い親戚の息子さんなの! 小さい頃にしか会ったことなかったから、すごく懐かしくて……いきおい二人でご飯食べに行ったんだ。デートに見えちゃった? あはは」
必死に思考を巡らせて思いつくままになんとか説明しきり、ふと二人の顔を見ると、なんとも残念そうな面持ちなってしまっていた。
「ええーっ! 彼氏じゃないの!?」
二人が口を揃えて残念がる。
「つまんないのー。ノロケ話が聞きたかった!」
「あいちゃんの彼氏さん、どんな人なのか知りたかったわあ」
この二人に悪気は微塵もない。ただ楽しんでいるだけだ、青春を。
「もう、やめなよ。藍、困ってんじゃん」
葵だ。彼女は、藍自身も含めいつも連んでいる四人の中ではもっとも常識人で、何より自分の一番の味方である。
葵が二人の間に入ってきてくれたおかげでようやく落ち着けた。大声でワイワイと盛り上がりながら、朝礼に向けて自分の席に戻っていく加奈と未咲希を見送って、ホッと胸をなでおろす。
しかし、まさか見られていたとは。たしかに、学校からわりと近くて上品で治安の良い娯楽都市としての大きな駅は、藍の住む街の小多摩駅が最適で、それがまさに彼女がランを連れていったファッションビルだとか、彼がバイクとチェイスを繰り広げた商店街が立地するところだった。
——もうすこし周りの目を気にしなければ。友達のみならず、顔見知りの近所のおじさんやおばさん、通っていた小学校の先生など、考えてみれば地元ならではのつながりがある人たちにも、いつ目撃されているかわからない。
着地点を失いざわつく気持ちを拭うことができずに、この日は放課後まで悶々と過ごした。
夜、自宅でパソコンを開く。検索欄に「刀」「鍔ない」と打ち込んでルーペをクリックする。
——もっと情報を聞いておくべきだった。
鍔のない刀というだけでは、それがどういうものかという情報ばかりがヒットしてしまう。絞り込むためには色、形、製作者、年代などがあれば有効だったのに、と藍は無気力に溜息をつく。
「もしかしたら、落し物で……」
ほんの数日前に近所で拾われていれば、その情報がSNSに上がっているかもしれない。しかし、本物の刀では許可のない人が持てば銃刀法違反に当たる。模造刀ならまだしも、わざわざリスクを冒して本物の刀に関することをネット上で呟くものなどいるだろうか。そんなことを考えては、勝手な憶測をして絶望的になる。
藍は、半ば刀を見つけられる自信など喪失しつつ、スマートフォンを取り出しアプリを立ち上げた。トレンドのページに飛ぶと、今まさに流行っている検索ワードが見られる。そこには、今流行りのスイーツの名前や新アイドルとしてテレビで取り上げられた動物の名前など、一見平和そうなワードが並んでいた。ワードの一覧をスクロールすると、ここ数日都内で多発している怨恨による殺人事件の話題や、学校での悪質化するイジメに関する調査などのニュース画像が出てくる。こういうものは、楽しいものを見たくてトレンドを探しているのに、現実に引き戻されるようで気分が塞ぐ。しかも、つい昨日ランから『黒』と仮に呼ぶ敵の本質を聞かされたばかりなものだから、関係があるような気がしていっそう憂鬱になった。
藍は頭を抱えると、スマホの画面を閉じて机に突っ伏した。どうしたら効率よく、早く彼の武器を見つけられるか。聞き込みをするか。そんな探偵みたいなことをする余裕も自信もない。刀の店を片端から訪れるか。同じだ。時間も資金も食う。
「SNS……」
眠気も限界。ランはまだ帰ってきていないが、就寝時間はゆうに過ぎている。せめて寝落ちる前にと、一縷の望みをかけてアプリのマイページに飛ぶ。ここからタグをつけて質問を飛ばせば、誰か答えてくれるかもしれない。真夜中、ほとんど働いていない脳を駆使して、突っ伏しながら文字を打ち込む。今さっき銃刀法だ違反だとやたら心配をしていたのに、そんなこと構っていられないくらいには、思考能力が乏しくなっていた。
——〝鍔なし刀の落し物探してます。先週末あたり、都内某所。心当たりの方はメッセージください〟
程なくして、アプリを閉じるのもかなわず寝入ってしまった。
それから、小一時間の後。音もなく屋根からベランダに降り立った黒い影が、風で巻かれ部屋からはみ出ていたカーテンをくぐった。黒々とした髪が月明かりに艶やかに照らし出される。いつものごとく、夜は隠さず青い眼を晒しながら動く。——ランだ。眼鏡もサングラスも無い方が、もちろん視界も視覚も冴える。そして今日は、彼女がくれた新しい服に例のカーディガンを借りていた。黒シャツは半袖だったが、どうにも肌が露出していると落ち着かないため、朝の時点で彼女に借りておいた。体格がまるで違うわけだから袖の丈もまったく足りていなかったが、それでも無いよりはまだ心地が良かった。
部屋に戻るとベッドに彼女の姿はなく、代わりに勉強机の灯りをつけたままパソコンの前で突っ伏していた。すっかり寝落ちているらしい。部屋自体の灯りは小さなオレンジ色の電球だけが点いており、ほとんど消灯した時と同じくらいの明るさだった。それでも、彼女が何もかけず薄いパジャマのままでいるのはわかった。
ランはベランダで脱いだブーツを揃えると、窓を閉め鍵をかける。カーディガンを脱ぎながらそっと彼女のそばに歩み寄り、その寝顔を覗き込んだ。右手には、液晶画面が点灯されたままのスマートフォンとやらが握られていた。別にあえて見るつもりではなかったが、興味がないわけではなく、その画面に何が映っているのか気になった。
「新着メッセージ1件」とだけ表示された薄い色の背景。どうも人工的な光の刺激は夜目にはキツい。見えすぎるせいもあるかもしれないが、あまりに眩しくてすぐに目を離す。
——そういえば、これは電話の役割だけでなく、通信によって遠くにいる者とメッセージのやりとりができるんだったか。
ランは、何か閃いたように目を見開くと、指先をそっとスマートフォンの画面に押し当てる。しばし、目を瞑って時を待つ。電波の流れが、靄がかった視界の奥に見える。正確には、それを鋭く感じ可視化していると言ったほうがいい。身体の奥にある感覚を呼び覚ますように、脳内の思考を無にする。すると、ほんの僅かではあるが、自分の中にある蓋をされた〝箱〟が自ずと震え出したように、身体の奥底がピリピリとした電気信号を発しはじめる。その増幅を確認したところで、彼は指を離した。
——これは使える。
そう思ったところで、突っ伏している少女の身体がもぞりと動いた。珍しくハッと驚いたような表情を彼はしたが、薄く瞼を開けた少女の目にはほとんど認識できなかっただろう。
「ら……ん……」
意識もはっきりしていないのだろう。何か言いたげだったので、彼女の口元に耳を近づけた。
「おか……えり……」
その吐息は冷たく、身体が冷えてしまっているようだった。
「……ただいま」
そう返した時には再び彼女は寝息を立てていた。
ランは、先ほどの感覚を忘れないうちに使っておこうと思った。
起こしてしまわないように彼女の上体を机から持ち上げると、ぐったりとした両足もろとも自分の身体に引き寄せて、椅子から彼女を抱え上げた。両腕を慎重にベッドの上まで移動させると、掛け布団も無造作に捲れかかったままのマットレスへ仰向けに寝かせる。腕を引き抜くと、その枕元に腰かけ、片手を彼女の首筋、リンパの流れているあたりに添えた。
彼は、さきほどスマートフォンでやったことをもう一度試みる。今度は電波ではなく生の人間の体温だ。自分の中の〝箱〟が放つ電気信号を感じ取り、全身にその信号が行き渡るようにイメージする。掌に達したそれは彼女の首を己の体温による以上に温め、すぐにリンパや血液を通して熱が全身に巡り、下がっていた体温を修正していった。
一仕事終えたランは安堵したように深呼吸一つして、掛け布団を引きずり出すと、衣擦れの音が立たないよう静かに彼女にかけてやった。
自分はといえば、所定の位置に敷かれた薄いマットレスの上で無造作に横になる。
ここまで来ても、まだ世の中のエネルギーの流れを感じ取るには至らなかった。震えてエネルギーを零せても、蓋はまだ外れない。〝箱〟を解放しなければ、これ以上の力の駆使も本来の力も発揮することはかなわないだろう。どうすべきかと思案しながら眠りについた。——この時はまだ、遠くから狙い見る『黒』の駒の存在に気づいてはいなかった。
…………
ランと出会ってから一週間が過ぎた。土曜の朝だ。藍は夕べ勉強机で寝落ちてしまったことも忘れて、朝起きるなりスマートフォンの画面に新着ありの表示を目にして飛び起きた。昨夜の質問に返信が来ていたのだ。
慌てて布団を抜け出すと、ランを探して見回した。彼はすでに起きていて、ジーンズのみで窓際に、胡座で座りそよ風を浴びていた。
「ラン! 見て見て! 昨日質問したらね、知ってるかもってコメントが来てて!」
勢いのまま顔を間近に近づけて、目を輝かせながら息巻く彼女に気圧されつつ、ランは画面を覗いて訊ねる。
「……何の質問を?」
「刀だよ刀! 言ってたじゃない。鍔のない刀。数日前の落し物で、知りませんか、って呟いてみたの」
「ほう」
その返答メッセージにあったのは、大まかに言えばこうだ。
——〝裏銀座にある小さな老舗の骨董屋でそれらしいものを見た。自分は刀に詳しく、一目見ればどこの誰が製作したものか分かるくらいだが、見つけたそれは見たことのない逸品で、外国語のどれでもない文字が書かれていた〟……と。
メッセージの主曰く、その場で店の主人に声をかけたところ数日前にある人物から譲り受けたのだそうだ。しかしその刀を持ち込んだ人間は、特にどこで入手したかなど明かさずに去ってしまったのだとか。売るにしても出どころと価値がわからなければ値が付けられず、店先に看板として飾っているのだという。
「ねえねえ、どう思う?」
ワクワクが止まらない様子で身を乗り出す藍。ランは少し考えてから言った。
「……行ってみよう」
彼は正直なところ、完全に信じ切ってはいけない予感がしていた。だがいずれにしても、この情報の真偽を確かめなければ次に進めない。
ランが行こうと言ってくれたことに、半ば嬉しくて飛び上がりそうになっていた藍は、ふとその真剣かつ覚悟が見える瞳に萎縮した。同時に彼が上半身裸体だったことに気がついて、無造作に近づきすぎてしまっていた自分を恥じた。恥じるのはこれで何回目だろうか。冷や汗か火照った汗か知らないが、じわっと額が濡れるのを感じた。
——しかし引っかかるのは、まるでメッセージがこちらが探しているものをよく知っているかような文面だったことだ。藍の質問は至極単純だった。おもちゃや、模造刀を指している場合もある。それでも、この短時間でしかもピンポイントな情報を寄せてきた。
(あるいは、昨日の試行が……?)
ランは夕べ、彼女のスマートフォンを媒体とした電波発信を試みるべく力の発動テストを行ったことを思い返していた。あの時、自身の体内におけるエネルギーの存在感知に成功するには至ったが、それ以上の実感はなかった。だが、実は機器に力を及ぼすことができていて、電波発信が成功していたとしたら?
いずれにせよ、こちらの存在を〝友人〟が気づいてくれていたらそれは大きな助力となることに違いない。
二人は一縷の期待を寄せて身支度を始めた。
「裏銀座っていうと、最寄りはこの辺がいいかなあ」
アプリの地図と乗り換えガイドを駆使しながら藍がつぶやく。ここからだと、おおよそ電車で四十分くらいだ。店の位置はメッセージにあった店舗名で検索したところ、繁華街からはかなり外れた場所にあることがわかった。周辺のどの駅からも離れているから、わりと観光で有名な裏銀座の小路を通るルートを取ろうということになった。やや遠回りだが、土地勘のない街で裏道をぐるぐる歩くよりはマシだし、観光スポットなら道中も楽しかろうと、彼女は思った。
ひととおり、小さめのリュックにスマートフォンや財布などを詰め終えてランに声をかけると、彼は黒いシャツにカーディガンを羽織り、バッチリあの色付き眼鏡も装備済みだった。藍は、一つ気がついて首を傾げる。
「……そういえば、帽子はどうしたの?」
彼は、一瞬目を逸らし、困ったように虚空を仰いだ。
「……すまない。前に、店で落としてしまった」
こんなに素直に謝れる人間だったのか。表情筋が硬いくせして、妙に裏表のない感情表現と意外な素直さがそのために際立った。
「……そっか。しょうがないね。今日は曇り空だから、陽射しは心配いらないと思う」
藍は精一杯フォローしてやるつもりで言葉を絞った。カーディガンについても、
「サイズ感おかしいけど似合ってるよ」
と、付け足しておいた。
「そうかぃ」
尻すぼみで返答した彼の頬がほんの僅かに赤らんだ気がしたが、すぐに窓から逃げるように出て行ってしまった。
藍もすぐに、外で彼に合流すべく階段を駆け下りた。
土曜の午前。空いている電車内、二人並んで腰掛けた。
「——あの、訊いてもいい?」
訊ねてみたいことはたくさんあったが、まずは自分の仕事を済ませなくてはと声をかけた内容は、彼の名を作ることに関してだった。
「あなたの知ってるそれっぽい名前……つまり、日本人らしい名前、何かないかな?」
ランは人が話している時は横目でもじっとこちらを見てくれる。藍の方がむしろ彼をあまり見ずに話すことがあるくらいだ。質問を終えて彼の方を見遣ると、それを受けとったように視線を逸らす。
彼は腕を組んで暫く考えていた。
「うーん……ヒコ……なんとかってのはそれらしい名前がたくさんいると聞いたことがあるけれど」
「ひこ……?」
藍はそれを聞いてすかさずスマートフォンを取り出す。カチカチと平たい画面から電子音が鳴り、数秒も待たず目的のページが現れ、藍はそれを目の前に掲げた。
「これ、どう? 『彦』っていうのは、男性の美称なんだって。『姫』の反対だっていうから、王子って意味だね」
彼女は一人楽しそうだった。ランは気難しい顔をしながら、好きに名付けてくれと頼んだ。
「ラン、て、どんな漢字があるのかな……?」
もう、彼女の一言一言はほとんど独り言になりつつあった。
「らん……」
ネットで漢字辞典を開き、そう読む漢字を追っていく。蘭、乱、藍、嵐……名前らしく見えるものは限られている。彼はそういう名の人を追ってきた気がする、と言っていた。もしそれが女性だったなら、ランという名前の主は日本人の可能性もある。
(女の人……)
勝手な憶測なのに、ふと心の奥に尖ったガラスが紛れ込んだように胸が痛くなった。そういえば、あの時浮かれて、自分の名前も『ラン』と読める、なんて口走ってしまった。ふざけたことだと思った。彼の、人には見せぬ想いを考えず、無作法に心に踏み込んでしまったのではないか。
彼女は途端に沈んだ面持ちになり、スマートフォンを握っていた両手を力なく下ろして俯いてしまった。
すると、隣から肩にトンと軽く指先の感触を受けた。
「乗り換えなんじゃないか?」
藍の肩に指先を添えたまま、ランは言った。彼女は切なげな表情のまま相手を見上げる。相手はきょとんとして、しかしどこか優しい眼差しで彼女を見ていた。触れられている肩に温かさが伝わってくる気がして、自然と前向きな気持ちになり、藍は笑顔に戻る。
「そうだね……降りよっか。もうすぐだよ」
やや早口で言うと、さっさと立ち上がり彼に促した。
目的の駅で降り改札を出ると、そこには都心の中でも最繁華街の一つである賑やかな街並みが広がっている。地元の駅ビルとは比較にならないほど大きなファッションビルや百貨店が立ち並び、何車線もある道路は高級車で埋め尽くされ、歩道は日本人も外国人も入り混じってすれ違っている。
——なるほどこういうところならば隣の彼も溶け込めそうだ、と藍は皮肉な思いにうなだれた。
彼女は小さい頃に両親に連れられこの周辺に来たことはあったが、なにせ物の価値がよくわかっていない頃だったから、こんなにも高級ブランド揃いの喧しい観光街だったことに驚いた。
さて、時間もたっぷりあることだし、藍はいっそどこかでランチでもしてから行こうという気でいた。出かける時に「友達と銀座に行く」と言ったら、母は危ないからやめろと反対したが、父の方が賛成してくれ、場所が場所だけに高いものばかりだし、肩身の狭い思いは可哀想だと多めに小遣いをくれたのである。
スマートフォンの画面に地図を開きながら、わかりやすい店の看板を目印に、裏銀座の小路への入り口を見つける。裏銀座は、表通りに広がるファッション街からは少し外れた場所にあり、老舗や古い飲み屋が並ぶ隠れた観光スポットだ。夜こそ危ない人たちが彷徨く裏小路そのものだが、昼間ならば女性に人気の和雑貨屋や古風でオシャレなカフェが老若男女問わず人を集め、賑わいを見せる明るいエリアだ。石畳が敷き詰められた道路や歩道に、低い位置に取り付けられた独特な雰囲気を放つ街灯が郷愁を覚えさせる。観光客にとってここは訪れるべき場所の一つとなっている一種の穴場である。
藍は、しばし散策するべく地図と諸々の手持ち道具をしまった。ランは持ち物がないので、常時手をジーンズのポケットに突っ込んでいた。
「まだ時間あるし、どこかでご飯食べよう?」
ランは、提案を聞いて目を丸くした。心配そうな面持ちで訊き返す。
「……お前、大丈夫なのか?」
「はい?」
「…………」
彼は答えず、なんでもないと俯きながら言った。
藍はさっぱり彼の態度の意味がわからなかったが、心配させるようなことを言ったりしたりしただろうかと自問してみた。やはり心当たりはないので、変なの、と心の中で呟きつつ気を取り直してレストラン探しを続行した。
ありがたいことに、このエリアは穴場と言われるだけあってリーズナブルな店が多い。少し古びた外装の中華料理店の前、パネルに設置されたメニューに人だかりができていたので二人も覗いてみた。そこには定番の中華料理が安価で並んでおり、ランチの選択としては無難だろうということでここに入ることに決めた。
——……
——小路の入り口付近からほど近いこの店。その暖簾をくぐっていく二人の姿を小路のすぐ外から見ている者がいた。片手に持った、電波の障害を示すメーターの針は大きく振り切れ、この男が狙う対象が近くにいることを示していた。
男は気配を忍ばせながら、二人が入っていった中華店の前まで歩いていく。さりげなく横目で店内を覗くと、年頃十六、七くらいの少女とおよそ二十六、七くらい、つまり十ほどは離れていそうな青年が向かい合って楽しげに食事を待ちつつ歓談していた。男はその様子を、柱の陰に隠れ、しばらく観察した。やがて料理が給仕され、食べ出す二人。男は何かを確かめるように目を凝らす。
「あれは——」
心当たりを確信して思わず声を漏らした。
料理が熱かったのか、一口含んですぐに水に手を伸ばす青年。少女がそれを見てケタケタと笑っている。
男は手元のメーターをしまい、代わりに携帯電話を取り出す。そこに映し出されたメッセージ画面を眺め、じっと何かに想いを馳せるように考え込んでいた——
7話へ続く